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崩落のエデン  作者: だんご


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16/25

初めての嫌

 防衛戦の直後だった。


 南西区画の悪魔は掃討され、撤退命令が出た。生き残った兵士たちが、疲弊した体を引きずって兵舎へ戻っていく。負傷者を担架で運ぶ者、壁に寄りかかって動けなくなっている者、声もなく歩いている者。


 エルドとリーネとアスカは、南西区画の通りを歩いていた。ヨナは医療区域にいる。三人だけの帰り道。


 空は白み始めていたが、まだ薄暗い。戦闘の残滓——黒い霧、瓦礫の埃、焦げた匂い——が通りに漂っている。


 リーネが先を歩いている。足取りが重い。疲労と、ヨナへの心配で、いつもの明るさがない。「先に行ってヨナの様子見てくる」と言って、リーネは足を速めた。角を曲がって、姿が消えた。


 エルドとアスカが残った。


 二人で、瓦礫の散らばる通りを歩いている。足音だけが響く。アスカの大剣が背中で揺れる音。エルドの銃が腰で揺れる音。


 疲れていた。体が重い。腕が痛い。何時間戦っていたのか、もうわからない。


 アスカは——疲れているのだろうか。機械の体に疲労という概念があるのか。エルドにはわからない。ただ、アスカの歩調がいつもよりほんの少しだけ遅いような気がした。


 壊れた建物の横を通り過ぎる。壁が半分崩れた家。中の家具が見えている。倒れた棚。散乱した食器。誰かの暮らしの残骸。何度目だろう、この光景を見るのは。


「……エルドさん」

「何だ」

「ヨナのこと——ありがとうございました。助けに行ってくれて」

「……当然のことだ」

「当然、ですか」


 アスカの声に、微かな驚きがあった。


「前のエルドさんなら——『命令だったから』って言ったと思います」


 エルドは答えなかった。アスカの言う通りだった。前の自分なら、そう言っただろう。命令だから動いた。義務だから走った。それ以上の理由はない、と。


 今は——違う。


 ヨナが傷ついたから走った。仲間が倒れたから叫んだ。命令ではなく、義務でもなく。自分が——そうしたかったから。


 その変化を言葉にする方法を、エルドはまだ持っていなかった。だから黙った。


 瓦礫の通りを抜けて、市街地の比較的無事な区画に入った。ここまで来れば、もう安全だ。悪魔は全て掃討された。残存個体の報告もない。


 ——はずだった。


 音がした。


 小さな音。瓦礫が崩れる音。背後の、壊れた建物の中から。


 エルドが振り返るより先に、体が動いた。


 影が飛び出してきた。灰色の体。小型。嫉妬の悪魔。掃討から逃れて建物の中に潜んでいた残存個体。爪を振りかざして——アスカの背後に突進してくる。


 アスカは前を向いていた。大剣は背中に収めたまま。気づいていない——いや、気づいている。アスカの体が反応し始めている。振り返ろうとしている。大剣に手を伸ばそうとしている。


 だが——エルドのほうが速かった。


 考えたわけではない。判断したわけではない。体が動いた。反射だった。訓練の成果ではなく——もっと深い場所にある何かが、エルドの体を突き動かした。


 アスカの横に飛び込んだ。アスカの体を横に突き飛ばした。そして——悪魔の爪が、エルドの左腕を掠めた。


 熱い痛みが走った。


 腕の外側を、爪が裂いた。浅い。骨には届いていない。肉が裂けて、血が流れた。赤い血。人間の血。


 エルドは地面を転がり、すぐに体勢を立て直した。銃を抜く。悪魔に向けて撃つ。二発。三発。悪魔の頭部に命中し、黒い霧に還った。


 静寂が戻った。


 エルドは地面に片膝をついたまま、左腕を押さえていた。傷口から血が滲んでいる。痛い。でも大したことはない。戦場では日常的な傷だ。


「——エルドさん!」


 アスカの声が飛んできた。


 アスカが駆け寄ってきた。エルドの前にしゃがみ込んだ。目が大きく開いている。顔色が——白い。機械の体に顔色の変化があるのか。あるのだ。血の気が引くという表現がそのまま当てはまる顔をしている。


「腕——見せてください」

「大丈夫だ。浅い」

「見せてください」


 声が強かった。いつもの穏やかさがない。命令のような声。エルドは少し驚いて、左腕を差し出した。


 アスカがエルドの袖をまくった。傷口を確認する。切り傷。長さは十五センチほど。深さは浅い。出血はあるが、動脈には達していない。


 アスカの手が——震えていた。


 エルドの腕を持つ手が。機械の手が。微かに、でも確かに、震えていた。


「……浅いですね。大丈夫です。——止血帯を」


 アスカが自分の装備から止血帯を取り出し、エルドの腕に巻いた。手際は正確だった。でも——指先が震えている。震えながら、正確に巻いている。


 止血帯を巻き終えた。アスカの手がエルドの腕から離れた。


 そして——アスカがエルドを見た。


 目が——


 エルドは息を呑んだ。


 アスカの目に、見たことのないものがあった。怒り。いや、怒りではない。もっと複雑な何か。怒りと恐怖と困惑が絡み合った、名前のない感情。


「——なぜ、庇ったんですか」


 アスカの声は低かった。震えていた。


「……体が動いた。考える前に」

「体が動いた——?」


 アスカの声が、一段高くなった。


「私は機械兵です。壊れても修理できます。腕がちぎれても、胴が裂けても、コアさえ無事なら直せます。——でもエルドさんは人間です。死んだら終わりです。取り返しがつかないんです」


 声が——硬かった。叩きつけるような声。


「なぜ人間が機械を庇うんですか。意味がないじゃないですか。合理的じゃないじゃないですか。私が傷つけばいいだけなんです。私は——そのために——」


「——作られた、か」


 エルドが遮った。


 アスカの言葉が——止まった。


「お前がそのために作られたかどうかは、俺には関係ない」


 エルドの声は平坦だった。いつもの声。でも——その平坦さの下に、何かが燃えていた。


「俺は——体が動いたから動いた。お前が機械でも人間でも、関係ない。お前が傷つくのが——」


 言葉が詰まった。


 何を言おうとしている。自分でもわからない。いや——わかっている。わかっているが、言葉にできない。


「……お前が傷つくのを、見たくなかった」


 出た。不器用な、ぎこちない言葉。でも——嘘ではなかった。


 アスカの目が——大きく見開かれた。


 沈黙が落ちた。


 瓦礫の通りに風が吹いている。朝の光が建物の間から差し込み始めている。二人の間に、影と光が交互に落ちている。


 アスカの唇が——震えた。


「……やめてください」


 声が小さかった。かすれていた。


「私のために——怪我をしないでください」


 その声は——「平気です」ではなかった。いつもの穏やかな声ではなかった。仮面が——外れていた。


「私は直せます。壊れても直せます。でもエルドさんは直せない。人間は——直せない。死んだら、もう——」


 アスカの声が途切れた。喉の奥で何かがつかえている。言葉にならない何かが出口を求めている。


「——嫌なんです」


 その一言が——落ちた。


 嫌。


 アスカが「嫌」と言った。


 初めてだった。アスカが——感情を、この形で露わにしたのは。「平気です」でも「大丈夫です」でもなく。否定でも肯定でもなく。ただまっすぐに——「嫌だ」と。


「エルドさんが怪我をするのが——嫌です」


 声が震えている。目が潤んでいる。泣いてはいない。でも——泣きそうだった。仮面の亀裂から、生の感情が溢れ出しかけていた。


 エルドは——その顔を見ていた。


 アスカの「嫌」。


 自分が傷つくことには「平気です」と言い続けてきた存在が、他人が傷つくことには「嫌です」と言った。


 その矛盾の意味を、アスカ自身はまだわかっていないだろう。自分が傷つくのは平気で、エルドが傷つくのは嫌。——なぜ。なぜ他人の傷のほうが怖い。なぜ自分より他人のほうが大事だと感じる。


 その答えに——アスカはまだ辿り着いていない。


 エルドも——言葉にできなかった。自分がなぜアスカを庇ったのか。体が動いた、というのは嘘ではない。でもその奥に、もっと深い理由がある。守りたい。失いたくない。お前が傷つくのを見たくない。——全部が、自分の中にある。


 でも今、言えることは一つだけだった。


「……悪かった」


 エルドはそう言った。


 謝ったのではない。——いや、謝ったのだ。アスカを怖がらせたことに。アスカの「嫌」を引き出してしまったことに。


「でも——次も、たぶん同じことをする」


 正直に言った。嘘はつけなかった。次に同じ状況が来たら、また体が動くだろう。また庇うだろう。合理的ではない。意味がない。機械を人間が庇うなど。


 でもエルドにとって——アスカは機械ではなかった。もうとっくに。


 アスカの顔が——歪んだ。


 泣きそうで、怒りそうで、困惑しそうで、全部が混ざった顔。仮面で覆うことができない、剥き出しの感情。


「……困ります」


 アスカがそう言った。声は震えていた。でも——どこかに、別の何かがあった。困っている。本当に困っている。でもその困惑の底に——


 ——嬉しさが、混じっていた。


 自分のために怪我をする人間がいる。自分を守ろうとする人間がいる。機械の自分を——人として、守ろうとする人間がいる。


 それが嬉しい。嬉しいことが困る。嬉しいと思ってしまうことが、怖い。


 アスカは俯いた。白い髪が顔を隠した。


「……帰りましょう。傷、ちゃんと処置しないと」


 声を整えようとしていた。仮面を貼り直そうとしていた。でも——さっきまでほど、うまくいっていなかった。声の端が震えている。


 エルドは立ち上がった。左腕が痛む。でも歩ける。


 二人は並んで歩き出した。兵舎に向かって。朝の光の中を。


 しばらく無言だった。足音だけが重なっている。


 アスカが——小さく言った。


「……エルドさん」

「何だ」

「私は——自分が壊れるのは、平気です。本当に。でも——」


 言葉を切った。少しだけ間があった。


「エルドさんが傷つくのは——平気じゃない。……なんでかは、わかりません」


 わからない。アスカ自身が、自分の感情を理解できていない。自分が傷つくのは平気で、エルドが傷つくのは嫌。その非対称がどこから来るのか。何を意味するのか。


 エルドには——わかっていた。


 わかっていたが、言わなかった。今はまだ。


「……俺も、同じだ」


 それだけ返した。


「お前が傷つくのは——平気じゃない。なんでかは——」


 嘘をついた。わかっている。わかっているのに「わからない」と言った。


「……わからない」


 アスカが——エルドを見た。エルドもアスカを見た。


 二人の目が合った。朝の光の中で。


 何かが——通じた。言葉にはならない何かが。二人の間を流れた。互いの中にある同じものが、共鳴した。


 二人とも、その名前をまだ知らない。


 ——いや。知っているのに、言わないだけかもしれない。


 アスカが目を逸らした。前を向いた。歩き出した。エルドも前を向いた。歩いた。


 兵舎が見えてきた。日常が戻ってくる。医療区域にヨナがいる。食堂にリーネがいる。


 ——でも、今日。


 何かが決定的に変わった。


 アスカが「嫌」と言った。


 自分以外の誰かが傷つくことへの恐怖が、アスカの中に芽生えていた。自分の傷には「平気です」と言い続けてきた存在が、他人の傷には「嫌です」と声を震わせた。


 その矛盾は——やがて、アスカ自身を変えていくだろう。


 「平気です」が嘘だと気づく日が来る。自分も怖いのだと認める日が来る。死にたくないと思う日が来る。


 その日が来たとき——何が起きるのか。


 エルドにはわからない。


 でも——その日が来るまで、ここにいる。


 隣に。


 アスカの隣に。


『初めての「嫌」』 了

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