初めての嫌
防衛戦の直後だった。
南西区画の悪魔は掃討され、撤退命令が出た。生き残った兵士たちが、疲弊した体を引きずって兵舎へ戻っていく。負傷者を担架で運ぶ者、壁に寄りかかって動けなくなっている者、声もなく歩いている者。
エルドとリーネとアスカは、南西区画の通りを歩いていた。ヨナは医療区域にいる。三人だけの帰り道。
空は白み始めていたが、まだ薄暗い。戦闘の残滓——黒い霧、瓦礫の埃、焦げた匂い——が通りに漂っている。
リーネが先を歩いている。足取りが重い。疲労と、ヨナへの心配で、いつもの明るさがない。「先に行ってヨナの様子見てくる」と言って、リーネは足を速めた。角を曲がって、姿が消えた。
エルドとアスカが残った。
二人で、瓦礫の散らばる通りを歩いている。足音だけが響く。アスカの大剣が背中で揺れる音。エルドの銃が腰で揺れる音。
疲れていた。体が重い。腕が痛い。何時間戦っていたのか、もうわからない。
アスカは——疲れているのだろうか。機械の体に疲労という概念があるのか。エルドにはわからない。ただ、アスカの歩調がいつもよりほんの少しだけ遅いような気がした。
壊れた建物の横を通り過ぎる。壁が半分崩れた家。中の家具が見えている。倒れた棚。散乱した食器。誰かの暮らしの残骸。何度目だろう、この光景を見るのは。
「……エルドさん」
「何だ」
「ヨナのこと——ありがとうございました。助けに行ってくれて」
「……当然のことだ」
「当然、ですか」
アスカの声に、微かな驚きがあった。
「前のエルドさんなら——『命令だったから』って言ったと思います」
エルドは答えなかった。アスカの言う通りだった。前の自分なら、そう言っただろう。命令だから動いた。義務だから走った。それ以上の理由はない、と。
今は——違う。
ヨナが傷ついたから走った。仲間が倒れたから叫んだ。命令ではなく、義務でもなく。自分が——そうしたかったから。
その変化を言葉にする方法を、エルドはまだ持っていなかった。だから黙った。
瓦礫の通りを抜けて、市街地の比較的無事な区画に入った。ここまで来れば、もう安全だ。悪魔は全て掃討された。残存個体の報告もない。
——はずだった。
音がした。
小さな音。瓦礫が崩れる音。背後の、壊れた建物の中から。
エルドが振り返るより先に、体が動いた。
影が飛び出してきた。灰色の体。小型。嫉妬の悪魔。掃討から逃れて建物の中に潜んでいた残存個体。爪を振りかざして——アスカの背後に突進してくる。
アスカは前を向いていた。大剣は背中に収めたまま。気づいていない——いや、気づいている。アスカの体が反応し始めている。振り返ろうとしている。大剣に手を伸ばそうとしている。
だが——エルドのほうが速かった。
考えたわけではない。判断したわけではない。体が動いた。反射だった。訓練の成果ではなく——もっと深い場所にある何かが、エルドの体を突き動かした。
アスカの横に飛び込んだ。アスカの体を横に突き飛ばした。そして——悪魔の爪が、エルドの左腕を掠めた。
熱い痛みが走った。
腕の外側を、爪が裂いた。浅い。骨には届いていない。肉が裂けて、血が流れた。赤い血。人間の血。
エルドは地面を転がり、すぐに体勢を立て直した。銃を抜く。悪魔に向けて撃つ。二発。三発。悪魔の頭部に命中し、黒い霧に還った。
静寂が戻った。
エルドは地面に片膝をついたまま、左腕を押さえていた。傷口から血が滲んでいる。痛い。でも大したことはない。戦場では日常的な傷だ。
「——エルドさん!」
アスカの声が飛んできた。
アスカが駆け寄ってきた。エルドの前にしゃがみ込んだ。目が大きく開いている。顔色が——白い。機械の体に顔色の変化があるのか。あるのだ。血の気が引くという表現がそのまま当てはまる顔をしている。
「腕——見せてください」
「大丈夫だ。浅い」
「見せてください」
声が強かった。いつもの穏やかさがない。命令のような声。エルドは少し驚いて、左腕を差し出した。
アスカがエルドの袖をまくった。傷口を確認する。切り傷。長さは十五センチほど。深さは浅い。出血はあるが、動脈には達していない。
アスカの手が——震えていた。
エルドの腕を持つ手が。機械の手が。微かに、でも確かに、震えていた。
「……浅いですね。大丈夫です。——止血帯を」
アスカが自分の装備から止血帯を取り出し、エルドの腕に巻いた。手際は正確だった。でも——指先が震えている。震えながら、正確に巻いている。
止血帯を巻き終えた。アスカの手がエルドの腕から離れた。
そして——アスカがエルドを見た。
目が——
エルドは息を呑んだ。
アスカの目に、見たことのないものがあった。怒り。いや、怒りではない。もっと複雑な何か。怒りと恐怖と困惑が絡み合った、名前のない感情。
「——なぜ、庇ったんですか」
アスカの声は低かった。震えていた。
「……体が動いた。考える前に」
「体が動いた——?」
アスカの声が、一段高くなった。
「私は機械兵です。壊れても修理できます。腕がちぎれても、胴が裂けても、コアさえ無事なら直せます。——でもエルドさんは人間です。死んだら終わりです。取り返しがつかないんです」
声が——硬かった。叩きつけるような声。
「なぜ人間が機械を庇うんですか。意味がないじゃないですか。合理的じゃないじゃないですか。私が傷つけばいいだけなんです。私は——そのために——」
「——作られた、か」
エルドが遮った。
アスカの言葉が——止まった。
「お前がそのために作られたかどうかは、俺には関係ない」
エルドの声は平坦だった。いつもの声。でも——その平坦さの下に、何かが燃えていた。
「俺は——体が動いたから動いた。お前が機械でも人間でも、関係ない。お前が傷つくのが——」
言葉が詰まった。
何を言おうとしている。自分でもわからない。いや——わかっている。わかっているが、言葉にできない。
「……お前が傷つくのを、見たくなかった」
出た。不器用な、ぎこちない言葉。でも——嘘ではなかった。
アスカの目が——大きく見開かれた。
沈黙が落ちた。
瓦礫の通りに風が吹いている。朝の光が建物の間から差し込み始めている。二人の間に、影と光が交互に落ちている。
アスカの唇が——震えた。
「……やめてください」
声が小さかった。かすれていた。
「私のために——怪我をしないでください」
その声は——「平気です」ではなかった。いつもの穏やかな声ではなかった。仮面が——外れていた。
「私は直せます。壊れても直せます。でもエルドさんは直せない。人間は——直せない。死んだら、もう——」
アスカの声が途切れた。喉の奥で何かがつかえている。言葉にならない何かが出口を求めている。
「——嫌なんです」
その一言が——落ちた。
嫌。
アスカが「嫌」と言った。
初めてだった。アスカが——感情を、この形で露わにしたのは。「平気です」でも「大丈夫です」でもなく。否定でも肯定でもなく。ただまっすぐに——「嫌だ」と。
「エルドさんが怪我をするのが——嫌です」
声が震えている。目が潤んでいる。泣いてはいない。でも——泣きそうだった。仮面の亀裂から、生の感情が溢れ出しかけていた。
エルドは——その顔を見ていた。
アスカの「嫌」。
自分が傷つくことには「平気です」と言い続けてきた存在が、他人が傷つくことには「嫌です」と言った。
その矛盾の意味を、アスカ自身はまだわかっていないだろう。自分が傷つくのは平気で、エルドが傷つくのは嫌。——なぜ。なぜ他人の傷のほうが怖い。なぜ自分より他人のほうが大事だと感じる。
その答えに——アスカはまだ辿り着いていない。
エルドも——言葉にできなかった。自分がなぜアスカを庇ったのか。体が動いた、というのは嘘ではない。でもその奥に、もっと深い理由がある。守りたい。失いたくない。お前が傷つくのを見たくない。——全部が、自分の中にある。
でも今、言えることは一つだけだった。
「……悪かった」
エルドはそう言った。
謝ったのではない。——いや、謝ったのだ。アスカを怖がらせたことに。アスカの「嫌」を引き出してしまったことに。
「でも——次も、たぶん同じことをする」
正直に言った。嘘はつけなかった。次に同じ状況が来たら、また体が動くだろう。また庇うだろう。合理的ではない。意味がない。機械を人間が庇うなど。
でもエルドにとって——アスカは機械ではなかった。もうとっくに。
アスカの顔が——歪んだ。
泣きそうで、怒りそうで、困惑しそうで、全部が混ざった顔。仮面で覆うことができない、剥き出しの感情。
「……困ります」
アスカがそう言った。声は震えていた。でも——どこかに、別の何かがあった。困っている。本当に困っている。でもその困惑の底に——
——嬉しさが、混じっていた。
自分のために怪我をする人間がいる。自分を守ろうとする人間がいる。機械の自分を——人として、守ろうとする人間がいる。
それが嬉しい。嬉しいことが困る。嬉しいと思ってしまうことが、怖い。
アスカは俯いた。白い髪が顔を隠した。
「……帰りましょう。傷、ちゃんと処置しないと」
声を整えようとしていた。仮面を貼り直そうとしていた。でも——さっきまでほど、うまくいっていなかった。声の端が震えている。
エルドは立ち上がった。左腕が痛む。でも歩ける。
二人は並んで歩き出した。兵舎に向かって。朝の光の中を。
しばらく無言だった。足音だけが重なっている。
アスカが——小さく言った。
「……エルドさん」
「何だ」
「私は——自分が壊れるのは、平気です。本当に。でも——」
言葉を切った。少しだけ間があった。
「エルドさんが傷つくのは——平気じゃない。……なんでかは、わかりません」
わからない。アスカ自身が、自分の感情を理解できていない。自分が傷つくのは平気で、エルドが傷つくのは嫌。その非対称がどこから来るのか。何を意味するのか。
エルドには——わかっていた。
わかっていたが、言わなかった。今はまだ。
「……俺も、同じだ」
それだけ返した。
「お前が傷つくのは——平気じゃない。なんでかは——」
嘘をついた。わかっている。わかっているのに「わからない」と言った。
「……わからない」
アスカが——エルドを見た。エルドもアスカを見た。
二人の目が合った。朝の光の中で。
何かが——通じた。言葉にはならない何かが。二人の間を流れた。互いの中にある同じものが、共鳴した。
二人とも、その名前をまだ知らない。
——いや。知っているのに、言わないだけかもしれない。
アスカが目を逸らした。前を向いた。歩き出した。エルドも前を向いた。歩いた。
兵舎が見えてきた。日常が戻ってくる。医療区域にヨナがいる。食堂にリーネがいる。
——でも、今日。
何かが決定的に変わった。
アスカが「嫌」と言った。
自分以外の誰かが傷つくことへの恐怖が、アスカの中に芽生えていた。自分の傷には「平気です」と言い続けてきた存在が、他人の傷には「嫌です」と声を震わせた。
その矛盾は——やがて、アスカ自身を変えていくだろう。
「平気です」が嘘だと気づく日が来る。自分も怖いのだと認める日が来る。死にたくないと思う日が来る。
その日が来たとき——何が起きるのか。
エルドにはわからない。
でも——その日が来るまで、ここにいる。
隣に。
アスカの隣に。
『初めての「嫌」』 了




