優しさの代償
崩落警報が鳴ったのは、未明だった。
三度目の、第七の園への大規模侵攻。
前回の嫉妬の上位個体を含む襲撃から、まだ二週間しか経っていない。間隔が短くなっている。悪魔の攻勢が激しさを増している。園を取り巻く脅威が、確実に狭まっている。
エルドは銃を取って兵舎を出た。隣をリーネが走っている。後方にヨナ。その先に、黒い戦闘服のアスカがいる。
今回の報告は——「強欲」の大罪型を含む大群。南西区画から侵攻。規模は前回以上。
「全防衛部隊、南西外縁部に展開! 市街地への侵入を許すな!」
隊長の怒号が夜明け前の空に響く。
南西区画に到着したとき、既に壁の一部が破壊されていた。悪魔の先遣隊が壁を突き破り、園の内部に侵入し始めている。黒い影が通りを這い回っている。
アスカが前に出た。大剣を抜き、最前列へ。
「第三班、アスカの後方を支援! 突破された箇所の封鎖!」
班長の命令。エルドとリーネが壁際に展開する。ヨナは——
「ヨナ、後方支援。弾薬補給と負傷者搬送を頼む」
いつもの配置。ヨナは前線に出ない。出させない。ヨナの腕前では最前線は危険すぎる。後方で弾薬を運び、負傷者を担架に乗せ、安全な場所へ搬送する。それがヨナの役割だった。
ヨナは頷いた。手が震えている。いつものことだ。でも今日の震えは——いつもより大きかった。
戦闘が始まった。
壁の破壊箇所から、次々と悪魔が侵入してくる。通常の個体が主体だが、中型・大型も混じっている。数が多い。アスカが前線で薙ぎ払っているが、壁の破壊箇所が広すぎて一人ではカバーしきれない。
エルドとリーネは壁際から射撃を続けた。弾を撃つ。倒す。弾倉を替える。また撃つ。手が正確に動く。訓練の成果。考えなくても体が動く。
だが今日のエルドは——考えていた。
銃を撃ちながら、考えていた。前線のアスカの背中を見ていた。黒い戦闘服。大剣を振るう姿。圧倒的で、美しくて、力強い。
——あの背中を、守りたい。
その感情が、銃を握る手に力を込めさせた。いつもより正確に。いつもより速く。一発でも多く、アスカの負担を減らしたい。その思いが——初めて、エルドの戦い方を変えていた。
リーネが横で叫んだ。
「右翼、押されてる! 第五班が後退してる!」
右翼の防衛線が崩れ始めていた。悪魔の数に押されて、兵士たちが後退している。その隙間から、悪魔が市街地へ流れ込もうとしている。
「第三班、右翼の支援に回れ!」
班長の命令。エルドとリーネが移動する。走る。通りを駆け抜ける。
右翼の状況は厳しかった。第五班の兵士が数名倒れている。生きているのか死んでいるのかわからない。残った兵士が必死に応戦しているが、弾薬が尽きかけている。
エルドとリーネが加勢した。射撃で悪魔の進行を止める。一体、二体、三体。倒す。でもその後ろから、また来る。
そのとき——後方で、悲鳴が上がった。
後方支援の区域だった。悪魔の一部が、防衛線を迂回して後方に回り込んでいた。弾薬集積所の近く。負傷者を搬送中の兵士たちがいる場所。
——ヨナがいる場所だ。
エルドの体が反応した。振り返る。後方の通りに、灰色の影が見えた。悪魔が二体、後方区域に侵入している。小型だが素早い。嫉妬の分類。
後方支援の兵士たちは戦闘要員ではない。武器は持っているが、前線の兵士ほどの練度はない。二体の悪魔を相手にするのは——
エルドが動こうとした。だがリーネが腕を掴んだ。
「ここを離れたら右翼が崩れる!」
「でもヨナが——」
「わかってる! でも——」
リーネの顔が引きつっていた。怖い。でも判断しなければならない。前線を守るか。後方を救うか。両方は——できない。
判断する前に——後方で、動く影があった。
ヨナだった。
ヨナが走っていた。後方区域の通りを。悪魔に向かって。
——違う。悪魔に向かっているのではない。悪魔の前にいる人間に向かっている。
負傷者を搬送中の兵士が、悪魔に追い詰められていた。担架を持ったまま動けなくなっている。担架の上には意識のない負傷兵。搬送兵は担架を捨てて逃げることもできず、悪魔の前で立ち尽くしている。
ヨナがその間に割り込んだ。
銃を構えた。悪魔に向けて。手が震えている。足が震えている。全身が震えている。
引き金を引いた。
一発目。外れた。震える手では照準が定まらない。二発目。悪魔の肩に当たった。よろめくが、倒れない。三発目。腹部に命中。悪魔が咆哮する。でもまだ動いている。
もう一体の悪魔が、横から来た。
ヨナは見えていなかった。正面の一体に集中していて、横からの接近に気づかなかった。
爪が——ヨナの右わき腹を引き裂いた。
赤い血が飛んだ。
ヨナの体がくの字に折れた。銃が手から離れた。地面に膝をつく。右わき腹を押さえる。手の隙間から血が溢れている。
「ヨナ!!」
リーネの絶叫がエルドの鼓膜を突き破った。
エルドは走った。考える前に体が動いていた。右翼の防衛線を離れて。リーネの叫びを背に。走った。
後方区域に到着したとき、ヨナは地面に倒れていた。血が石畳に広がっている。悪魔が二体、ヨナの上に覆いかぶさろうとしている。
エルドは撃った。至近距離。一体の頭部に三発。黒い霧に還る。もう一体に向き直る。四発。五発。六発。倒れた。
周囲を確認する。他に悪魔はいない。安全。
エルドはヨナの傍にしゃがみ込んだ。
「ヨナ!」
「……エルド、さん……」
ヨナの声は弱かった。顔が青白い。右わき腹の傷が深い。肋骨が見えかけている。出血が多い。
「……ごめん……助けたかったのに……足手まといに、なった……」
ヨナが——笑おうとしていた。痛みで顔が歪んでいるのに、笑おうとしていた。
「……搬送兵さんは、大丈夫ですか……担架の人……」
自分が血を流しながら、他人のことを聞いている。他人の安否を気にしている。自分の傷より、他人の命を。
——それがヨナだ。
優しい。どこまでも優しい。でもその優しさが——今、ヨナの命を危険にさらしている。
「喋るな。——動くな」
エルドはヨナの傷を手で押さえた。血が手の間から溢れる。温かい。人の血は温かい。
止血帯。装備の中にあるはずだ。片手で探す。見つけた。ヨナの腰に巻きつける。きつく。ヨナが声を漏らした。痛いのだろう。でも止めなければ。
「衛生兵! ——誰か!」
エルドが叫んだ。自分が叫んでいることに驚いた。叫ぶことなどなかった。今まで。戦場で声を上げたことなど。
搬送兵が——ヨナが庇った搬送兵が——駆け寄ってきた。担架をもう一つ引きずって。
「す、すみません——この人が、庇って——」
エルドはヨナを担架に乗せた。搬送兵がヨナを後方の医療区域に運んでいく。エルドは立ち上がった。手が血で濡れている。ヨナの血。温かかった血が、冷え始めている。
前線から爆音が響いた。まだ戦闘は続いている。
エルドは銃を拾い、前線に戻った。
右翼の防衛線は——なんとか持ちこたえていた。リーネが一人で支えていた。エルドが離れた穴を、リーネが埋めていた。歯を食いしばって。涙を流しながら。
「ヨナは!?」
「生きてる。医療区域に——」
「よかった——」
リーネの声が震えた。安堵で。
「戦え。まだ終わってない」
エルドが言った。リーネが頷いた。二人で銃を構え直した。撃つ。倒す。撃つ。倒す。
前線では、アスカが「強欲」の大罪型と対峙していた。
巨大な悪魔。体長四メートル。体表が金色に脈動している。六本の腕を持ち、それぞれの手が異なるものを掴んでいる——瓦礫、壁の破片、引きちぎった門扉。他者が持つものを奪い、自分のものにする。それが強欲の悪魔の本質。
アスカが大剣で斬りかかる。金色の体表が硬い。刃が通りにくい。だがアスカの攻撃は止まらない。一撃、二撃、三撃。少しずつ傷を刻んでいく。
強欲の悪魔が腕を振るう。アスカが躱す。反撃。大剣が腕の一本を切断する。金色の血が飛び散る。
エルドは前線から、アスカの戦いを見ていた。
圧倒的。美しい。力強い。——だが、その背中が。
重そうに見えた。
いつもの軽やかさが——ほんの少しだけ、欠けているように見えた。動きに淀みはない。速度も精度も変わらない。でも——何かが。
気のせいかもしれない。戦闘の疲労かもしれない。だがエルドには——それだけではないように見えた。
アスカの背中に、見えない重さがかかっている。
あの夜、リーネに「怖いんじゃないの」と問われて、仮面が揺れた。その亀裂が——アスカの中で、何かを変え始めているのかもしれない。「平気です」と言い続けることが、以前より少しだけ——難しくなっているのかもしれない。
それでもアスカは戦っている。止まらない。壊れない。強欲の悪魔を追い詰め、最後の一撃で頭蓋を砕いた。金色の巨体が崩れ落ち、黒い霧に還っていく。
戦闘が終わった。夜明けの光が園を照らし始めていた。
エルドは銃を下ろした。全身が疲労で重い。腕が痛い。指が強張っている。
リーネが崩れるように座り込んだ。「ヨナ……」と呟いた。エルドは「生きてる。大丈夫だ」と繰り返した。繰り返すたびに、自分に言い聞かせてもいた。
アスカが前線から戻ってきた。大剣を背に収めて。今回は大きな損傷はないようだった。戦闘服にいくつかの裂け目があるが、致命的なものはない。
「リーネ。エルドさん。——ヨナは?」
アスカの声は落ち着いていた。でもその目に——心配の色があった。隠せないほどの。
「右わき腹をやられた。医療区域に搬送した。——命に別状はない、と思う」
エルドが答えた。
アスカが——小さく息を吐いた。安堵の吐息。機械の体が、安堵の吐息をついている。
「……よかった」
その一言に込められた感情を、もう疑う人間はいなかった。
医療区域に向かった。
ヨナはベッドに横たわっていた。右わき腹に包帯が巻かれている。顔は青白いが、意識はある。目が開いている。
三人が入ってきたのを見て、ヨナが——笑った。
「……ごめんね。心配かけて」
リーネが泣いた。我慢できなかったらしい。ヨナのベッドの脇に座り込んで、「ばか」と言いながら泣いた。
「……搬送兵さんは? 担架の人は?」とヨナが聞いた。まだ聞いている。自分が血を流しているのに。
「無事だよ。あんたのおかげで。——でもあんたが死にかけたらおかしいでしょ」
リーネの声は荒い。泣きながら怒っている。心配しながら怒っている。リーネらしい。
ヨナが苦笑した。痛みで顔が歪んでいるのに、笑おうとしている。
「……わかってるよ。僕が弱いから——こうなった。もっと強ければ、助けて、自分も無事でいられたのに。——弱いから、両方はできなかった」
ヨナの目が——少しだけ、陰った。
「優しいだけじゃ、守れないんだね」
その言葉は——ヨナ自身に向けられていた。自分の弱さへの、静かな嘆き。諦めではない。ただ——現実を、受け止めている声だった。
「弱いよ、僕は。助けに行って、自分がやられて。——足手まといだ」
「足手まといなんかじゃない」
エルドが言った。
全員がエルドを見た。ヨナも。リーネも。アスカも。
エルドが——そういうことを言う人間ではないことを、全員が知っている。
「お前は弱い。それは事実だ。でも——あの搬送兵は、お前がいなかったら死んでた。担架の負傷兵も。お前が弱いのは事実だが、お前がそこにいたことも事実だ」
エルドの声は平坦だった。いつもの声。でも——言葉の重さが、いつもと違った。
「弱くても——いた。逃げなかった。それは——足手まといとは言わない」
ヨナの目が——潤んだ。
「……エルドさん」
「……ヨナが前に言った言葉を返す。——弱いからって、諦めなかっただろう」
ヨナが目を閉じた。涙が一筋、こめかみを伝った。
「……ありがとう」
小さな声だった。でも——確かな声だった。
リーネが鼻をすすりながら「あんた最近喋るようになったね」と呟いた。エルドは「うるさい」と返した。リーネが泣き笑いの顔をした。
アスカは——少し離れた場所に立っていた。
四人の中で、一人だけ怪我のない体。一人だけ、修理すれば元通りになる体。ヨナの傷は深い。回復には時間がかかる。人間の体は——壊れたら簡単には直らない。
アスカはヨナを見ていた。包帯に滲む血を見ていた。
その目に——何があったか。エルドには見えなかった。アスカはすぐに視線を外して、穏やかな笑顔を浮かべた。
「ヨナ。ゆっくり休んでください。——あとは、私たちが」
「ありがとう、アスカさん」
ヨナが微笑んだ。弱々しい笑顔だったが、穏やかだった。
医療区域を出た。廊下を歩く。三人。ヨナがいない三人。
リーネが目元を拭きながら歩いている。エルドが黙って歩いている。アスカが半歩後ろを歩いている。
「……アスカ」
リーネが振り返った。
「あんたがいなかったら、もっとひどいことになってた。——ありがとう」
「……私は、自分の仕事をしただけです」
いつもの返答。だがリーネは——もう、その返答を額面通りには受け取らなかった。
「仕事、ね。——まあいいけど。とにかく、ありがとう。前線支えてくれて」
リーネはそれだけ言って、先に歩いていった。
廊下にエルドとアスカが残った。
「……エルドさん」
アスカの声が、小さかった。
「ヨナは——大丈夫でしょうか」
「命に別状はないと言っていた」
「そうですか。……よかった」
アスカは——俯いていた。白い髪が顔を隠している。
「……私がもっと早く——後方の悪魔にも対処していたら、ヨナは怪我をしなかったかもしれません」
「前線を離れたら壁が破れてた。お前の判断は正しい」
「正しくても——ヨナが怪我をしました」
アスカの声が——揺れた。
「正しくても——守れないことがある」
その言葉は、ヨナが言った「優しいだけじゃ守れない」と、どこかで重なっていた。
アスカは顔を上げた。エルドを見た。
その目に——
エルドは見た。
恐怖があった。
戦場の恐怖ではない。悪魔への恐怖ではない。——失うことへの恐怖。仲間が傷つくことへの恐怖。守りきれないことへの恐怖。
「平気です」の仮面の、亀裂の奥にある、本物の感情。
一瞬だった。アスカはすぐに目を伏せ、いつもの表情に戻した。
「……すみません。変なことを言いました」
「変じゃない」
エルドは言った。
「……変じゃない。——当然のことだ」
アスカがエルドを見た。何かを言いたそうな顔をしていた。でも何も言わず、小さく頷いただけだった。
「……明日もありますから。休みましょう」
「ああ」
二人は別れた。それぞれの部屋に向かった。
エルドは自室に戻った。ヨナのベッドが空だった。静かな部屋。
手を見た。ヨナの血がまだ残っている。洗ったはずなのに、爪の間に。
——守りたい。
あの感情は、今も胸の中にある。消えていない。
でも今日、思い知った。守りたいと思うだけでは——守れない。力がなければ。速さがなければ。判断が遅ければ。
ヨナは優しさで動いて、傷ついた。エルドは守りたくて走ったが、間に合わなかった。アスカは前線を支えたが、全てはカバーできなかった。
守りたい。でも——守れないかもしれない。
その恐怖が——新たに、エルドの中に生まれていた。
何かを大事に思うことの怖さ。失うかもしれないことの怖さ。そして——守れないかもしれないことの怖さ。
全部が、重なっている。全部が、温かさの裏側にある。
エルドは目を閉じた。
——それでも。
守りたい。
怖くても。力が足りなくても。間に合わなくても。
それでも——守りたい。
その想いだけが——暗闇の中で、消えずに灯っていた。
『優しさの代償』 了




