守りたいもの
きっかけは、何でもないことだった。
四人でいつもの食堂にいた。昼食。パンとスープと、果実の煮物。いつもの献立。いつもの席。リーネが何かの話をしていて、ヨナが笑っていて、エルドが黙ってスープを飲んでいた。
アスカが——窓の外を見た。
食堂の窓は南に面していて、園の外縁部の向こうに空が見える。午後の日差しが傾き始めていて、空が少しだけ橙色を帯びていた。まだ夕焼けではない。夕焼けの手前。空が青から橙に移り変わろうとしている、その境界の色。
アスカは、その空を見て——呟いた。
「……綺麗ですね」
誰に向けた言葉でもなかった。独り言のような。スプーンを持ったまま、窓の外を見て、ぽつりと。
リーネもヨナも聞いていなかった。二人は話に夢中で、アスカの呟きに気づかなかった。
エルドだけが、聞いていた。
アスカの横顔を見ていた。窓からの光が白い髪に当たって、薄い金色に見える。あの日と同じだ。展望広場で初めて夕焼けを見たときと。「綺麗ですね」と言ったときと。同じ光。同じ横顔。
でも今日は——何かが違った。
何が違うのか。光は同じだ。横顔も同じだ。「綺麗ですね」という言葉も同じだ。何も変わっていない。変わったのは——
——俺だ。
エルドの中で、何かが動いた。
大きく。はっきりと。今まで何度も微かに動いてきたものが——今、はっきりと形を取った。
守りたい。
この横顔を。この声を。この「綺麗ですね」を。空を見て綺麗だと言えるこの存在を。
守りたい。
生まれて初めて——五歳で全てを失ってから初めて——誰かを失いたくないと思った。
スプーンを持つ手が、止まっていた。
エルドは自分の胸の中を覗き込んだ。何がある。何が起きている。空っぽだったはずの場所に、何かがある。熱い。温かいのではない。熱い。焼けるような。——いや、違う。これは温かさだ。ただ、長い間凍っていた場所に温かさが触れたから、焼けるように感じるだけだ。
守りたい。
その感覚が——同時に、恐怖を連れてきた。
何かを大事に思えば、失うことが怖くなる。失うことが怖くなれば——
五歳の記憶が蘇る。父の叫び声。兄の背中。母と妹が落ちていく姿。全部が一瞬で消えた朝。あの朝以来、エルドは何も大事にしなかった。何も大事にしなければ何も失わない。それが——唯一の、生きるための方法だった。
今、その方法が壊れようとしている。
守りたい、と思ってしまった。アスカを見て。あの横顔を見て。「綺麗ですね」という声を聞いて。
守りたいと思うことは——失う恐怖を取り戻すことだ。
十数年間、凍らせていた恐怖が——溶け始めている。温かさと一緒に。区別がつかない。温かさと恐怖が同じ場所にある。同じ感情の、表と裏のように。
「——エルド? 大丈夫?」
リーネの声が聞こえた。エルドは顔を上げた。
「……何が」
「固まってたよ、ずっと。スープ冷めるよ」
エルドはスプーンを動かした。スープを口に運んだ。味がする。いつもと同じ味。温かい。
「……何でもない」
リーネは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。話がヨナのほうに戻り、食堂のざわめきに紛れていく。
アスカは——まだ窓の外を見ていた。
空の色が変わっていく。青から橙へ。橙から赤へ。ゆっくりと。確実に。
エルドはアスカの横顔を見ていた。見ずにはいられなかった。
この存在を失いたくない。
その感情が——もう否定できないほど、はっきりとそこにあった。
昼食が終わり、午後の任務に入った。巡回と警戒。いつもの仕事だ。体を動かしている間は、考えなくて済む。命令に従い、持ち場を回り、異常がないことを確認する。
だが——動いていても、消えなかった。
アスカの横顔が、頭から離れない。「綺麗ですね」の声が、耳から離れない。守りたい、の熱が、胸から離れない。
巡回中、アスカと二人になる時間があった。いつもの二人組巡回。南区画。避難民のテントが並ぶ広場を見渡す位置を通る。
テントの間を歩く人々。第九の園の生存者たち。空白の顔。エルドはそれを見ても何も感じなかった——と思おうとした。だが前ほど成功しなかった。あの中に、五歳の自分がいたかもしれない。同じ空白を浮かべて、同じように歩いていたかもしれない。
「……エルドさん」
アスカが歩きながら言った。
「最近、表情が変わりましたね」
「……何が」
「前より——何かを考えてる顔をしてます。前は、何も考えてない顔だったのに」
エルドは足を止めなかった。
「……俺は何も考えてない。いつもと同じだ」
「嘘ですね」
アスカがさらりと言った。微笑んでいる。いつもの穏やかな笑顔。だがその中に——いたずらっぽさのようなものが、ほんの少し混じっていた。今まで見たことのない表情だった。
「リーネに似てきましたね、嘘のつき方」
「……うるさい」
出た言葉に、エルド自身が驚いた。「うるさい」。リーネに対して何度も言ってきた言葉。だがアスカに向けたのは初めてだった。
アスカが目を見開いた。それから——笑った。
いつもの笑顔ではなかった。もっと軽い。もっと自然な。くすり、と漏れたような笑い。声に出して笑うのを、エルドは初めて見た。今までアスカは微笑むことはあっても、声を出して笑うことはなかった。
「……すみません。でも——嬉しかったので」
「何が嬉しいんだ」
「エルドさんが、怒ったこと」
意味がわからなかった。
「怒ってない」
「怒ってますよ。——前のエルドさんは、何を言われても『別に』で流してたじゃないですか。怒る、っていうのは——気にしてる、ってことです」
アスカの目が——柔らかかった。
「エルドさんが何かを気にしてくれるの、嬉しいです」
エルドは前を向いた。アスカの顔を見ていられなかった。見ていると——胸の中の熱が大きくなる。制御できなくなりそうになる。
「……行くぞ。巡回中だ」
「はい」
二人は歩き続けた。いつもの速度で。いつもの距離で。でも——何かが、確かに変わっている。
夕方、任務を終えて兵舎に戻った。
エルドは一人で詰所にいた。窓辺に立って、外を見ている。夕焼けが空を染めている。今度は本物の夕焼け。昼に見た「夕焼けの手前」ではなく、深い橙色。
ドアが開いた。リーネだった。
「あ、いた。ヨナとアスカは?」
「知らない」
「ふーん」
リーネは自分の席に座った。しばらく黙っていた。珍しいことだ。リーネが黙っているのは。
「ねえ、エルド」
「何だ」
「あんた、変わったね」
エルドは振り返った。リーネはこちらを見ていた。いつもの鋭い目。でもそこに、責めるような色はなかった。
「……何が」
「全部。顔。声。態度。——前のあんたは、本当に何もなかった。からっぽだった。空気みたいだった。そこにいるのに、いないみたいな」
リーネが椅子の背に体を預けた。
「今は違う。——そこにいる。ちゃんと、いる」
エルドは何も答えなかった。
「アスカのおかげでしょ」
リーネがまっすぐに言った。回りくどい言い方はしない。それがリーネだ。
「……別に——」
「『別に』は聞き飽きた。否定しなくていいよ。見てればわかる」
リーネが立ち上がった。窓辺に来て、エルドの隣に立った。二人で夕焼けを見る。
「私はさ——あんたのこと、ずっと心配してたんだよ。同期だから。あんたが何も感じてない顔してるのを見るのが——しんどかった。でも何言っても響かなかったから。何年も」
リーネの声が、少しだけ柔らかかった。
「それが——アスカが来てから変わった。少しずつ。すごく少しずつだけど。あんたの目に色が戻ってきた。——って言ったら大袈裟だけど、でも本当にそうなんだよ」
エルドは窓の外を見ていた。夕焼けの空。雲海が橙色に染まっている。
「怖いんだろうなってのも、わかるよ」
リーネの声が低くなった。
「何かを大事に思うのが怖い。大事にしたら失うかもしれない。あんたは——もう失いたくないんでしょ。だから怖い」
エルドの手が——微かに握りしめられた。
「でもさ」
リーネがエルドを見た。
「いい顔になったよ。あんた」
その言葉は——簡素だった。リーネらしい、短くて、まっすぐな言葉。
だがエルドの中で、その言葉は——深い場所に届いた。
いい顔。自分がどんな顔をしているのか、エルドにはわからない。鏡を見る習慣がない。自分の表情を意識したことがない。でもリーネが「いい顔」だと言った。何年も一緒にいたリーネが。からっぽだった頃の自分を知っているリーネが。
「……そうか」
エルドは短く答えた。いつもの返事。でも——いつもと同じ「そうか」ではなかった。その二文字の中に、微かに——何かがあった。
リーネは笑った。
「相変わらず語彙少ないね。——でも、うん。それでいいよ」
リーネが窓辺を離れた。ドアに向かう。途中で振り返った。
「エルド」
「何だ」
「大事にしなよ。怖くても。——失うかもしれなくても」
それだけ言って、リーネは出ていった。
エルドは一人、詰所に残った。
窓の外の夕焼けが深まっていく。空の色が橙から赤へ、赤から紫へ。
——大事にしろ。怖くても。
リーネの言葉が残っている。
怖い。認めよう。怖い。
アスカを大事に思い始めている。それは——失うかもしれないものを持つということだ。五歳の教訓が叫んでいる。持つな。大事にするな。また失う。また全てがなくなる。また空っぽになる。
でも——もう遅い。
もう持ってしまった。あの横顔を見たとき。「綺麗ですね」の声を聞いたとき。守りたいと思ったとき。——もう、手放せない。
手放せないのだ。今さら。何も持たないふりをするには、もう遅すぎる。
エルドは自分の胸に手を当てた。心臓が脈打っている。いつもより少し速い。いつもより少し強い。
生きている、と思った。
初めて——本当に初めて——自分が生きていることを、実感した。
心臓が動いている。血が流れている。手が温かい。呼吸をしている。空気を吸って、吐いている。生きている。五歳のとき以来、ずっと死んだように生きていた自分が——今、生きている。
それは——アスカのおかげだった。
アスカがいなければ、エルドは今も空っぽなまま、灰色の日常を惰性で過ごしていただろう。死んでもいい、と思ったまま。生きていたい、と思うこともなく。
アスカが変えた。市場で目を見開いた顔。パンを食べて「おいしい」と言った声。花を「かわいそう」と言った横顔。「ここにいます」と言った夜。——全部が、エルドの中の凍った場所を、少しずつ溶かしていった。
守りたい。
この感情を——エルドは、受け入れた。
怖い。怖くてたまらない。また失うかもしれない。また全てがなくなるかもしれない。でも——
何も持たない空っぽな自分のまま死ぬのと、何かを持って——何かを大事にして——それを失う恐怖と共に生きるのと。
どちらが——生きていると言えるのか。
答えは、もう出ている。
窓の外で、最後の光が消えていく。夕焼けが終わり、夜が来る。星が一つ、二つ、見え始める。
エルドは窓を離れた。詰所を出て、食堂に向かった。
食堂には三人がいた。リーネとヨナとアスカ。テーブルを囲んで、夕食の準備をしている。リーネがパンを並べ、ヨナがスープを注ぎ、アスカが皿を配っている。
エルドが入ってきたのを見て、アスカが顔を上げた。
「エルドさん。——ちょうど今、始めるところでした」
いつもの声。いつもの笑顔。
エルドは——いつもの席に座った。いつもの配置。リーネの向かい。ヨナの隣。アスカの斜め前。
「遅い。パン冷めるじゃん」
リーネがいつものように文句を言った。
「……悪い」
エルドはパンを手に取った。齧った。味がする。温かい。
四人がテーブルにいる。いつもの夕食。いつもの時間。
——守りたい。
この場所を。この時間を。この四人を。
エルドはパンを噛みながら、テーブルを見回した。リーネ。ヨナ。アスカ。
アスカが何かを言って、リーネが笑って、ヨナが微笑んだ。何の変哲もない光景。
その光景が——今のエルドには、世界で一番大事なものに見えた。
怖い。失うのが怖い。
でも——ここにいる。ここにいたい。
五歳の教訓が、胸の奥で叫んでいる。持つな。逃げろ。また失う。
エルドはその声を——初めて、無視した。
パンを齧った。味がする。温かい。隣でヨナが笑っている。向かいでリーネが喋っている。斜め前でアスカが微笑んでいる。
全部が——ここにある。
全部が——大事だ。
エルドは——生きていた。
『守りたいもの』 了




