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崩落のエデン  作者: だんご


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14/25

守りたいもの

 きっかけは、何でもないことだった。


 四人でいつもの食堂にいた。昼食。パンとスープと、果実の煮物。いつもの献立。いつもの席。リーネが何かの話をしていて、ヨナが笑っていて、エルドが黙ってスープを飲んでいた。


 アスカが——窓の外を見た。


 食堂の窓は南に面していて、園の外縁部の向こうに空が見える。午後の日差しが傾き始めていて、空が少しだけ橙色を帯びていた。まだ夕焼けではない。夕焼けの手前。空が青から橙に移り変わろうとしている、その境界の色。


 アスカは、その空を見て——呟いた。


「……綺麗ですね」


 誰に向けた言葉でもなかった。独り言のような。スプーンを持ったまま、窓の外を見て、ぽつりと。


 リーネもヨナも聞いていなかった。二人は話に夢中で、アスカの呟きに気づかなかった。


 エルドだけが、聞いていた。


 アスカの横顔を見ていた。窓からの光が白い髪に当たって、薄い金色に見える。あの日と同じだ。展望広場で初めて夕焼けを見たときと。「綺麗ですね」と言ったときと。同じ光。同じ横顔。


 でも今日は——何かが違った。


 何が違うのか。光は同じだ。横顔も同じだ。「綺麗ですね」という言葉も同じだ。何も変わっていない。変わったのは——


 ——俺だ。


 エルドの中で、何かが動いた。


 大きく。はっきりと。今まで何度も微かに動いてきたものが——今、はっきりと形を取った。


 守りたい。


 この横顔を。この声を。この「綺麗ですね」を。空を見て綺麗だと言えるこの存在を。


 守りたい。


 生まれて初めて——五歳で全てを失ってから初めて——誰かを失いたくないと思った。


 スプーンを持つ手が、止まっていた。


 エルドは自分の胸の中を覗き込んだ。何がある。何が起きている。空っぽだったはずの場所に、何かがある。熱い。温かいのではない。熱い。焼けるような。——いや、違う。これは温かさだ。ただ、長い間凍っていた場所に温かさが触れたから、焼けるように感じるだけだ。


 守りたい。


 その感覚が——同時に、恐怖を連れてきた。


 何かを大事に思えば、失うことが怖くなる。失うことが怖くなれば——


 五歳の記憶が蘇る。父の叫び声。兄の背中。母と妹が落ちていく姿。全部が一瞬で消えた朝。あの朝以来、エルドは何も大事にしなかった。何も大事にしなければ何も失わない。それが——唯一の、生きるための方法だった。


 今、その方法が壊れようとしている。


 守りたい、と思ってしまった。アスカを見て。あの横顔を見て。「綺麗ですね」という声を聞いて。


 守りたいと思うことは——失う恐怖を取り戻すことだ。


 十数年間、凍らせていた恐怖が——溶け始めている。温かさと一緒に。区別がつかない。温かさと恐怖が同じ場所にある。同じ感情の、表と裏のように。


「——エルド? 大丈夫?」


 リーネの声が聞こえた。エルドは顔を上げた。


「……何が」

「固まってたよ、ずっと。スープ冷めるよ」


 エルドはスプーンを動かした。スープを口に運んだ。味がする。いつもと同じ味。温かい。


「……何でもない」


 リーネは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。話がヨナのほうに戻り、食堂のざわめきに紛れていく。


 アスカは——まだ窓の外を見ていた。


 空の色が変わっていく。青から橙へ。橙から赤へ。ゆっくりと。確実に。


 エルドはアスカの横顔を見ていた。見ずにはいられなかった。


 この存在を失いたくない。


 その感情が——もう否定できないほど、はっきりとそこにあった。


 昼食が終わり、午後の任務に入った。巡回と警戒。いつもの仕事だ。体を動かしている間は、考えなくて済む。命令に従い、持ち場を回り、異常がないことを確認する。


 だが——動いていても、消えなかった。


 アスカの横顔が、頭から離れない。「綺麗ですね」の声が、耳から離れない。守りたい、の熱が、胸から離れない。


 巡回中、アスカと二人になる時間があった。いつもの二人組巡回。南区画。避難民のテントが並ぶ広場を見渡す位置を通る。


 テントの間を歩く人々。第九の園の生存者たち。空白の顔。エルドはそれを見ても何も感じなかった——と思おうとした。だが前ほど成功しなかった。あの中に、五歳の自分がいたかもしれない。同じ空白を浮かべて、同じように歩いていたかもしれない。


「……エルドさん」


 アスカが歩きながら言った。


「最近、表情が変わりましたね」

「……何が」

「前より——何かを考えてる顔をしてます。前は、何も考えてない顔だったのに」


 エルドは足を止めなかった。


「……俺は何も考えてない。いつもと同じだ」

「嘘ですね」


 アスカがさらりと言った。微笑んでいる。いつもの穏やかな笑顔。だがその中に——いたずらっぽさのようなものが、ほんの少し混じっていた。今まで見たことのない表情だった。


「リーネに似てきましたね、嘘のつき方」

「……うるさい」


 出た言葉に、エルド自身が驚いた。「うるさい」。リーネに対して何度も言ってきた言葉。だがアスカに向けたのは初めてだった。


 アスカが目を見開いた。それから——笑った。


 いつもの笑顔ではなかった。もっと軽い。もっと自然な。くすり、と漏れたような笑い。声に出して笑うのを、エルドは初めて見た。今までアスカは微笑むことはあっても、声を出して笑うことはなかった。


「……すみません。でも——嬉しかったので」

「何が嬉しいんだ」

「エルドさんが、怒ったこと」


 意味がわからなかった。


「怒ってない」

「怒ってますよ。——前のエルドさんは、何を言われても『別に』で流してたじゃないですか。怒る、っていうのは——気にしてる、ってことです」


 アスカの目が——柔らかかった。


「エルドさんが何かを気にしてくれるの、嬉しいです」


 エルドは前を向いた。アスカの顔を見ていられなかった。見ていると——胸の中の熱が大きくなる。制御できなくなりそうになる。


「……行くぞ。巡回中だ」

「はい」


 二人は歩き続けた。いつもの速度で。いつもの距離で。でも——何かが、確かに変わっている。


 夕方、任務を終えて兵舎に戻った。


 エルドは一人で詰所にいた。窓辺に立って、外を見ている。夕焼けが空を染めている。今度は本物の夕焼け。昼に見た「夕焼けの手前」ではなく、深い橙色。


 ドアが開いた。リーネだった。


「あ、いた。ヨナとアスカは?」

「知らない」

「ふーん」


 リーネは自分の席に座った。しばらく黙っていた。珍しいことだ。リーネが黙っているのは。


「ねえ、エルド」

「何だ」

「あんた、変わったね」


 エルドは振り返った。リーネはこちらを見ていた。いつもの鋭い目。でもそこに、責めるような色はなかった。


「……何が」

「全部。顔。声。態度。——前のあんたは、本当に何もなかった。からっぽだった。空気みたいだった。そこにいるのに、いないみたいな」


 リーネが椅子の背に体を預けた。


「今は違う。——そこにいる。ちゃんと、いる」


 エルドは何も答えなかった。


「アスカのおかげでしょ」


 リーネがまっすぐに言った。回りくどい言い方はしない。それがリーネだ。


「……別に——」

「『別に』は聞き飽きた。否定しなくていいよ。見てればわかる」


 リーネが立ち上がった。窓辺に来て、エルドの隣に立った。二人で夕焼けを見る。


「私はさ——あんたのこと、ずっと心配してたんだよ。同期だから。あんたが何も感じてない顔してるのを見るのが——しんどかった。でも何言っても響かなかったから。何年も」


 リーネの声が、少しだけ柔らかかった。


「それが——アスカが来てから変わった。少しずつ。すごく少しずつだけど。あんたの目に色が戻ってきた。——って言ったら大袈裟だけど、でも本当にそうなんだよ」


 エルドは窓の外を見ていた。夕焼けの空。雲海が橙色に染まっている。


「怖いんだろうなってのも、わかるよ」


 リーネの声が低くなった。


「何かを大事に思うのが怖い。大事にしたら失うかもしれない。あんたは——もう失いたくないんでしょ。だから怖い」


 エルドの手が——微かに握りしめられた。


「でもさ」


 リーネがエルドを見た。


「いい顔になったよ。あんた」


 その言葉は——簡素だった。リーネらしい、短くて、まっすぐな言葉。


 だがエルドの中で、その言葉は——深い場所に届いた。


 いい顔。自分がどんな顔をしているのか、エルドにはわからない。鏡を見る習慣がない。自分の表情を意識したことがない。でもリーネが「いい顔」だと言った。何年も一緒にいたリーネが。からっぽだった頃の自分を知っているリーネが。


「……そうか」


 エルドは短く答えた。いつもの返事。でも——いつもと同じ「そうか」ではなかった。その二文字の中に、微かに——何かがあった。


 リーネは笑った。


「相変わらず語彙少ないね。——でも、うん。それでいいよ」


 リーネが窓辺を離れた。ドアに向かう。途中で振り返った。


「エルド」

「何だ」

「大事にしなよ。怖くても。——失うかもしれなくても」


 それだけ言って、リーネは出ていった。


 エルドは一人、詰所に残った。


 窓の外の夕焼けが深まっていく。空の色が橙から赤へ、赤から紫へ。


 ——大事にしろ。怖くても。


 リーネの言葉が残っている。


 怖い。認めよう。怖い。


 アスカを大事に思い始めている。それは——失うかもしれないものを持つということだ。五歳の教訓が叫んでいる。持つな。大事にするな。また失う。また全てがなくなる。また空っぽになる。


 でも——もう遅い。


 もう持ってしまった。あの横顔を見たとき。「綺麗ですね」の声を聞いたとき。守りたいと思ったとき。——もう、手放せない。


 手放せないのだ。今さら。何も持たないふりをするには、もう遅すぎる。


 エルドは自分の胸に手を当てた。心臓が脈打っている。いつもより少し速い。いつもより少し強い。


 生きている、と思った。


 初めて——本当に初めて——自分が生きていることを、実感した。


 心臓が動いている。血が流れている。手が温かい。呼吸をしている。空気を吸って、吐いている。生きている。五歳のとき以来、ずっと死んだように生きていた自分が——今、生きている。


 それは——アスカのおかげだった。


 アスカがいなければ、エルドは今も空っぽなまま、灰色の日常を惰性で過ごしていただろう。死んでもいい、と思ったまま。生きていたい、と思うこともなく。


 アスカが変えた。市場で目を見開いた顔。パンを食べて「おいしい」と言った声。花を「かわいそう」と言った横顔。「ここにいます」と言った夜。——全部が、エルドの中の凍った場所を、少しずつ溶かしていった。


 守りたい。


 この感情を——エルドは、受け入れた。


 怖い。怖くてたまらない。また失うかもしれない。また全てがなくなるかもしれない。でも——


 何も持たない空っぽな自分のまま死ぬのと、何かを持って——何かを大事にして——それを失う恐怖と共に生きるのと。


 どちらが——生きていると言えるのか。


 答えは、もう出ている。


 窓の外で、最後の光が消えていく。夕焼けが終わり、夜が来る。星が一つ、二つ、見え始める。


 エルドは窓を離れた。詰所を出て、食堂に向かった。


 食堂には三人がいた。リーネとヨナとアスカ。テーブルを囲んで、夕食の準備をしている。リーネがパンを並べ、ヨナがスープを注ぎ、アスカが皿を配っている。


 エルドが入ってきたのを見て、アスカが顔を上げた。


「エルドさん。——ちょうど今、始めるところでした」


 いつもの声。いつもの笑顔。


 エルドは——いつもの席に座った。いつもの配置。リーネの向かい。ヨナの隣。アスカの斜め前。


「遅い。パン冷めるじゃん」


 リーネがいつものように文句を言った。


「……悪い」


 エルドはパンを手に取った。齧った。味がする。温かい。


 四人がテーブルにいる。いつもの夕食。いつもの時間。


 ——守りたい。


 この場所を。この時間を。この四人を。


 エルドはパンを噛みながら、テーブルを見回した。リーネ。ヨナ。アスカ。


 アスカが何かを言って、リーネが笑って、ヨナが微笑んだ。何の変哲もない光景。


 その光景が——今のエルドには、世界で一番大事なものに見えた。


 怖い。失うのが怖い。


 でも——ここにいる。ここにいたい。


 五歳の教訓が、胸の奥で叫んでいる。持つな。逃げろ。また失う。


 エルドはその声を——初めて、無視した。


 パンを齧った。味がする。温かい。隣でヨナが笑っている。向かいでリーネが喋っている。斜め前でアスカが微笑んでいる。


 全部が——ここにある。


 全部が——大事だ。


 エルドは——生きていた。


『守りたいもの』 了

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