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崩落のエデン  作者: だんご


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13/25

嘘つき

 その夜は、雨が降っていた。


 天空都市に降る雨は、地上のそれと少し違う。雲の上にある園に雨が降るのは、高高度の気流が水蒸気を運んでくるときだけだ。珍しいことではないが、頻繁でもない。冷たい雨が園の石畳を叩く音は、普段の風の音とは違う質感を持っていて、兵舎の中にいても聞こえる。


 エルドは詰所で報告書を書いていた。今日の巡回の記録。異常なし。いつもと同じ文面。いつもと同じ作業。


 ヨナは先に部屋に戻っていた。今日は訓練で体を使ったから、早めに休むと言っていた。最近のヨナは少しだけ——ほんの少しだけ——逞しくなったように見える。第九の園崩落のあと、訓練に以前より真剣に取り組むようになった。弱い自分を変えたいのだろう。変えられるかどうかはわからない。でもヨナは諦めない。それがヨナだ。


 リーネとアスカは——いない。


 二人とも夕食のあとに出て行って、戻ってこない。リーネが「ちょっとアスカ借りるね」と言って、アスカを連れ出した。エルドは何も聞かなかった。聞く必要がなかった。リーネの目を見ればわかった。——覚悟を決めた目だった。


 報告書を書き終えた。ペンを置く。窓の外は暗い。雨音が静かに続いている。


 詰所を出て、廊下を歩いた。自室に戻るつもりだった。だが足が——兵舎の出口に向かっていた。


 理由はわからない。わからないが、足が勝手に動く。最近、それが多い。自分の意志とは別の場所で、何かが判断を下している。


 兵舎を出た。雨が顔に当たった。冷たい。屋根のある通路を歩いて、訓練場の方へ向かう。


 訓練場の横にある休憩所——屋根と壁がある簡素な小屋——から、声が聞こえた。


 リーネの声だった。


 エルドは足を止めた。近づくべきではない。二人の会話だ。割り込む理由はない。——でも、足が止まっただけで、離れなかった。屋根の下の暗がりに立ったまま、聞こえてくる声を——聞いていた。


「——ねえ、アスカ」


 リーネの声。低い。真剣な。


「あんたにさ、ずっと聞きたいことがあったんだけど」


 間。


「……何ですか」


 アスカの声。穏やかだが、微かな警戒がある。リーネの声のトーンから、これが軽い話ではないと察している。


「あんた——本当は怖いんじゃないの?」


 雨音の中に、その問いが落ちた。


 沈黙。


「……何のことですか」


 アスカの声が、少しだけ硬くなった。


「全部だよ。戦うこと。傷つくこと。壊れること。——死ぬかもしれないこと。あんたは毎回『平気です』『大丈夫です』って言う。腕がちぎれても。胴が裂けても。何があっても平気だって。——本当に?」


 リーネの声には、怒りがあった。怒りの下に心配があった。心配の下に恐怖があった。何層にも重なった感情が、声に滲んでいる。


「……本当です。私は——」


「嘘でしょ」


 リーネが遮った。


「私はね、怖いよ。毎回怖い。戦場に出るたびに怖い。弾を撃つとき手が震える。悪魔の顔を見ると足がすくむ。——でも怖いから戦える。怖いから、帰りたいって思える。帰りたいから、引き金が引ける」


 リーネの声が——剥き出しだった。いつもの明るさも、軽さも、全部取り払った声。


「私は怖いの。だからわかるの。怖くない人間が——怖くない存在が、あんな顔するわけないの」


「……あんな顔、というのは」


「エルドが怪我したとき。あんた、泣きそうな顔してたよ。自分が傷つくときは平気な顔してるくせに、エルドが庇って怪我したときだけ——顔が崩れてた」


 沈黙。長い沈黙。雨音だけが続いている。


「あれは——」


「あと、私に正体バレたとき。あんた、身構えてたでしょ。拒絶されるかもって。離れていかれるかもって。——怖くない人間が、あんな顔する?」


 アスカの声が聞こえない。何も言っていない。


「あんたは笑うし、おいしいって言うし、花を見て綺麗って言うし、エルドが変な顔してたら気にするし。——それだけ感じてる人間が、怖くないなんて嘘でしょ」


 リーネの声が——震え始めていた。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわかっていないように。


「人間じゃないって言うかもしれないけど。機械だからって言うかもしれないけど。——でもあんたが感じてることは、私が見てる限り、全部本物だよ。全部、人間と同じだよ。だったら——怖いことだって、感じてるはずでしょ」


 沈黙。


 エルドは暗がりに立ったまま、息を殺していた。聞くべきではない。でも——聞かずにはいられなかった。


 アスカの声が、ようやく聞こえた。


「……私は、平気です」


 同じ言葉。何十回と聞いた言葉。だがその声は——いつもと同じではなかった。平坦さが崩れていた。声の底に、微かな——揺れがあった。


「私は——そういう風に、作られたんです。守るために。壊れるために。怖いと思う必要がない。怖いと思ったら——」


 声が止まった。


 数秒の間。


「怖いと思ったら——私は、何のために作られたんですか」


 その声は——小さかった。


 リーネでなければ聞き取れなかったかもしれない。雨音に紛れそうなほど小さな声。


 怖いと思ったら、存在意義が崩れる。「守るために死ぬ」を手放したら、自分は何のために存在するのか。その問いが——アスカの中にあった。ずっと。ずっと、そこにあった。


 だから「平気です」と言い続けた。怖くないと言い続けた。そう言い続けなければ——自分が、壊れる。


「……アスカ」


 リーネの声が——変わった。怒りが消えていた。代わりにあったのは——痛み。リーネ自身の痛み。


「あんたさ——ずっとそうやって、一人で抱えてたの?」


 返事はなかった。


「怖いって認めたら壊れるから。自分が何なのかわからなくなるから。——だから平気なふりしてたの? ずっと?」


 返事はなかった。


「……ばか」


 リーネの声が、掠れた。


「そんなの——つらいに決まってんじゃん」


 雨音。


 しばらく、声が聞こえなかった。雨が石畳を叩く音だけが、暗い訓練場に響いていた。


 やがて——アスカの声が聞こえた。


「……リーネは、優しいですね」


 その声は——笑顔の声だった。作り直した笑顔。崩れかけた仮面を、もう一度貼り直した声。


「優しいんじゃなくて怒ってんの」


 リーネが即座に返した。


「怒ってるよ。あんたに。平気なふりしてるあんたに。——でもそれ以上に、あんたのことが心配なの。わかる? 心配。あんたが怖いって言えないことが、心配なの」


「……すみません」


「謝んなって。謝る話じゃないでしょ」


 リーネの声が荒くなった。でもそれは——怒りではなく、泣きそうなのを堪えている荒さだった。


「私はね——あんたに、怖いって言ってほしいんじゃない。無理に言わなくていい。ただ——」


 リーネが息を吸った。深く。


「一人で抱え込むのは、やめて。平気じゃないなら平気じゃないって、せめて私たちの前では——嘘つかないで」


 沈黙。長い沈黙。


 アスカの返事は——聞こえなかった。


 代わりに、微かな音が聞こえた。それが何の音なのか、エルドには最初わからなかった。雨音に紛れて、ほとんど聞こえない音。


 ——息を呑む音だった。


 泣いているのではない。涙を堪えているのでもない。ただ——呼吸が、一瞬止まった。喉の奥で、何かがつかえた音。言葉にならない何かが、出口を求めて、でも出られなくて、喉で詰まった音。


 アスカの仮面が——割れかけていた。


 完全には割れなかった。アスカはそれを許さなかった。すぐに呼吸を整えた。いつもの呼吸に戻した。


「……ありがとう、リーネ」


 声は穏やかだった。いつもの声。でも——その下に、何かが見えた。仮面の隙間から、ほんの一瞬だけ覗いた——生身の何か。


「今すぐは——無理かもしれません。でも……覚えておきます。リーネの言葉」


 リーネは何か言おうとして——やめた。何も言わなかった。これ以上は踏み込めない。踏み込んだら、アスカが壊れるかもしれない。リーネはそれを本能的にわかっていた。


「……うん。——急がなくていいから」


 それだけだった。


 雨音が続いている。二人の間の空気が——少しだけ、柔らかくなった。張り詰めていた糸が、切れたのではなく、ほんの少しだけ緩んだ。


「……帰ろっか。濡れちゃった」


 リーネの声が、少しだけ——いつもの明るさに戻っていた。完全にではない。でも戻ろうとしている。


「はい。——風邪ひきますね」

「あんた風邪ひくの?」

「……わかりません。ひいたことないので」

「機械だもんね。——でもまあ、念のため」


 足音が動き始めた。二人が休憩所を出て、兵舎に向かっていく。


 エルドは暗がりに立ったまま、動かなかった。


 二人の足音が遠ざかっていく。雨音の中に消えていく。


 聞いてしまった。聞くべきではなかった。でも——聞いてしまった。


 アスカの声が、耳の奥に残っている。


 「怖いと思ったら——私は、何のために作られたんですか」


 あの声は——「平気です」の裏側だった。


 エルドがずっと感じていた違和感の、正体だった。アスカの「平気です」は嘘だった。嘘だとわかっていた。でもその嘘がどこから来ているのか——どういう構造の嘘なのか——それがわからなかった。


 今、わかった。


 アスカは——怖いのだ。


 怖い。傷つくことが。壊れることが。死ぬかもしれないことが。本当は怖い。でもそれを認めたら——自分の存在意義が崩壊する。「守るために死ぬ」ことを使命として作られた存在が、「死にたくない」と思ったら、何のために存在するのかわからなくなる。


 だから平気なふりをしている。怖くないと言い続けている。自分を——騙し続けている。


 エルドは雨の中に立っていた。顔を上げた。空は暗い。雨粒が顔に当たる。冷たい。


 ——守りたい。


 その感覚が、もう「芽」ではなくなっていた。


 芽吹いて、伸びて、はっきりとした形を持ち始めている。まだ言葉にはなっていない。まだ声には出せない。でも——エルドの胸の中に、確かにある。


 アスカを守りたい。


 戦場で。悪魔から。それだけではない。


 アスカを——あの嘘から、守りたい。「平気です」の裏側にある恐怖から。一人で抱え込んでいる重さから。


 できるのかどうかはわからない。どうすればいいのかもわからない。エルドには何もない。力も。言葉も。感情の表し方も。何もない。


 でも——ここにいる。


 アスカが「ここにいます」と言ったように。エルドもまた、ここにいる。


 雨が降っている。冷たい雨。天空都市の雨。


 エルドは兵舎に戻った。廊下でリーネとすれ違った。リーネは髪が濡れていた。目が赤かった。エルドを見て——少しだけ驚いた顔をした。


「……あんた、聞いてた?」

「……悪い」

「……別にいいよ。——あんたにも聞いてほしかったかも」


 リーネは疲れた顔で笑った。


「あの子——泣かなかった。泣きそうだったのに、泣かなかった。まだ無理してる。まだ——仮面が外せない」


 リーネの声が小さくなった。


「でも——ちょっとだけ、揺れた。ちょっとだけ。それだけでも——意味あったかな」


 エルドは頷いた。


「……ある」


 短い一言。でもリーネはそれで十分だと思ったらしい。小さく頷いて、自室に向かっていった。


 エルドも自室に戻った。ヨナは既に眠っている。


 ベッドに横になった。天井を見る。雨音が窓を叩いている。


 アスカの声が、まだ聞こえる。


 「怖いと思ったら——私は、何のために作られたんですか」


 ——お前が何のために作られたかなんて、俺にはどうでもいい。


 エルドは暗闇の中で、そう思った。声には出さなかった。


 お前が機械でも。兵器でも。何のために作られたとしても。そんなことは関係ない。


 お前が怖いなら——怖くていい。


 その言葉を、いつかアスカに言える日が来るのだろうか。エルドにはわからなかった。言葉を持っていない。感情の伝え方を知らない。壊れた回路は直りかけているが、まだ不安定だ。


 でも——思っている。確かに思っている。


 雨が降り続けている。冷たい雨。天空都市の夜。


 アスカの仮面に、亀裂が入った。リーネが入れた。深い亀裂。でもまだ割れていない。アスカはまだ「平気です」と言い続けるだろう。まだ——手放せない。


 でも亀裂は入った。


 そこから光が差す日が——来るかもしれない。来ないかもしれない。


 エルドは目を閉じた。雨音を聞きながら。


 今夜は——眠れない気がした。


 眠れなくても、いい。考えることがある。初めて——眠れない夜に、考えるべきことが、ある。


 空っぽだったはずの自分の中に、考えるべきことが、ある。


『嘘つき』 了

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