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崩落のエデン  作者: だんご


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25/25

それでも朝は来る

 朝が来た。


 何度目の朝だろう。アスカが消えてから。数えていない。数える気になれなかった。朝が来て、昼が来て、夜が来て、また朝が来る。その繰り返しを——ただ、やり過ごしていた。


 第七の園は、立っている。


 傷だらけだった。南の壁は崩壊したままだ。市街地の三分の一が瓦礫に埋もれている。傲慢が踏み抜いた通りは巨大な溝になっていて、まだ修復が追いついていない。避難所のテントが増えた。園の住民のうち、家を失った者たちが仮住まいをしている。


 でも——立っている。


 空に浮かんでいる。落ちていない。浮遊機構は無事だ。園は生きている。


 人々の日常が、少しずつ戻り始めていた。瓦礫の撤去作業。壁の補修。仮設の商店が通りに並び始めている。パン屋が——あの、園で一番おいしいパン屋が——再開した。店の壁にひびが入ったまま、窓ガラスが割れたまま、それでも石窯に火を入れて、パンを焼き始めた。


 焼きたてのパンの匂いが、傷ついた通りに漂っている。


 子供たちが走り回っている。瓦礫の隙間を駆け抜け、壊れた塀を飛び越え、笑い声を上げている。子供は——強い。大人が立ち直れずにいるときに、子供はもう笑っている。


 エルドは——兵舎にいた。


 詰所の自分の席に座って、窓の外を見ていた。南の空。あの日、黒かった空。今は——青い。晴れている。雲が流れている。何事もなかったかのように。


 窓辺に、ヨナの鉢植えがある。白い花。名前のない花。


 咲いている。


 あの戦闘を生き延びた。兵舎は大きな被害を受けなかったから。窓辺の小さな鉢植えは——何事もなかったかのように、白い花を咲かせている。


 エルドはその花を見ていた。


 アスカが「かわいそうですね」と言った花。名前がないことを、かわいそうだと。


 ——名前がなくても、咲いている。


 誰にも見られなくても。名前を呼ばれなくても。ただ、咲いている。


 ドアが開いた。


 ヨナだった。


 杖をついている。松葉杖ではなく、木の杖。最終防衛戦で再び負傷し、今度は右脚にも損傷を受けた。完治するかどうかはわからない。戦闘はもうできないかもしれない。


 でもヨナは——穏やかに笑っていた。


「おはようございます、エルドさん」


 いつもの声。いつもの穏やかさ。


「……ああ」


 エルドの声は掠れていた。ここ数日——いや、もっと長いかもしれない——ほとんど喋っていなかった。


 ヨナが自分の席に座った。杖を壁に立てかけた。窓辺の花を見た。


「……元気に咲いてますね」

「ああ」

「水、あげていいですか」

「……ああ」


 ヨナが立ち上がって、鉢植えに水をやった。いつもの仕草。丁寧に。花びらにかからないように。土だけに。


 いつもの光景だった。


 ——一人、足りない以外は。


 ヨナが席に戻った。しばらく黙っていた。二人で窓の外を見ていた。青い空。白い雲。


「……エルドさん」

「何だ」

「食堂、行きませんか。パン屋さん、再開したんですよ」


 パン屋。あの、園で一番おいしいパン屋。木の実のパンを最初にアスカに勧めたヨナ。アスカが「おいしいです」と目を細めたあの店。


「……ああ」


 二人で詰所を出た。廊下を歩く。ヨナが杖をつきながら、ゆっくり歩く。エルドはその速度に合わせた。急ぐ理由がない。どこにも——急ぐ理由がない。


 食堂に着いた。


 リーネがいた。


 テーブルに座っている。髪を下ろしていた。いつもは束ねている髪が、今日は下りている。少し痩せた。目の下に隈がある。でも——目は、生きていた。


「……おはよ」


 リーネの声は静かだった。以前のような明るさはまだ戻っていない。でも——消えてもいない。


「おはよう、リーネさん」


 ヨナが隣に座った。エルドも座った。三人がテーブルにいる。


 四人がけのテーブル。一つの席が——空いている。


 誰もその席に触れなかった。椅子を片付けもしなかった。ただ——空いていた。空いたまま。


 リーネがパンの皿をテーブルの真ん中に置いた。焼きたてのパン。いつもの丸いパン。


「パン屋のおばちゃんがさ、開店の日に——『あの白髪の子は元気? また来るかねえ』って」


 リーネの声が——少しだけ、震えた。


「『おいしいおいしいって食べてくれる子でねえ、あんなに喜んでもらえると作りがいがあるよ』って」


 エルドは黙っていた。


「……知らないんだよ、おばちゃんは。アスカが——何者だったかも。何があったかも。ただ、パンをおいしそうに食べる女の子だって——それだけ」


 リーネが目を拭った。手の甲で。乱暴に。


「それだけでよかったんだよね。アスカは——それだけで、嬉しかったんだよね。パンがおいしいって。それだけで」


 ヨナが黙って頷いた。目が潤んでいた。


 エルドは——パンを手に取った。


 齧った。


 味がした。温かかった。いつもの味。いつもの温度。


 ——おいしい。


 その感想が、胸の中に落ちた。おいしい。パンがおいしい。


 アスカが「おいしい」と言った味だ。アスカが目を細めた味だ。アスカが——好きだった味だ。


 おいしい。


 その一言が——涙になった。


 エルドの目から涙が落ちた。パンを持ったまま。口の中にパンの味が広がったまま。温かいまま。おいしいまま。涙が頬を伝った。


 何も感じなかった男が。パンの味で泣いている。


 リーネが——泣いた。エルドの涙を見て。もらい泣きだ。ヨナも——目元を拭った。


 三人が食堂で泣いていた。パンを食べながら。焼きたてのパンの匂いの中で。


 しばらくして——リーネが鼻をすすった。


「……弟がさ。昨日、聞いてきたんだよ。『姉ちゃん、あの白い髪のお姉ちゃんはどこ行ったの? また遊びに来る?』って」


 リーネが苦笑した。泣き笑いの顔。


「『遠くに行ったよ』って答えた。嘘じゃないでしょ。遠いよ。もう——手が届かないくらい遠い」


 ヨナが静かに言った。


「弟さん、無事でよかったですね」

「……うん。父さんも母さんも。避難船に乗れた。——アスカのおかげで」


 リーネの声が——硬くなった。


「私の家族が生きてるのは、アスカが死んだからだ。——それを、一生背負って生きていくんだと思う」


 重い言葉だった。リーネの中で——アスカの死は、永遠に消えない傷になっている。感謝と罪悪感と悲しみが混ざった、複雑な傷。


「でも——忘れない。アスカのこと。絶対に。弟が大きくなったら、話すよ。あんたを守ってくれた人がいたんだよって。白い髪の、パンが大好きな、すごく強くて——すごく優しい人がいたんだよって」


 リーネが——笑った。涙を流しながら。


 守りたかったものは、守れた。弟の笑顔。両親の命。家族の日常。全部——守れた。


 でもそのために——アスカが失われた。


 リーネはその事実を、一生抱えて生きていく。忘れずに。背負いながら。


 食事が終わった。三人が食堂を出た。


 リーネは家に帰った。「弟に飯作ってやんなきゃ」と言って。歩いていく背中は——少しだけ、いつものリーネに戻っていた。完全にではない。でも——戻ろうとしている。


 ヨナはエルドの横を歩いていた。杖をつきながら。ゆっくりと。


「エルドさん」

「何だ」

「少し——歩きませんか」


 二人で歩いた。兵舎を出て、瓦礫の通りを抜けて、市場を通り過ぎて。


 市場は再開し始めていた。仮設の屋台が並んでいる。人々が行き交っている。まだ数は少ない。でも——動いている。生きている。


 あの焼き菓子の店は——半壊していた。壁が崩れている。でも店主がテーブルを一つだけ出して、菓子を並べ始めていた。


 ヨナがそれを見て、少しだけ微笑んだ。


「……あの店も再開したんですね」

「ああ」

「アスカさんが好きだったやつ。蜜漬けの果実の——」


 ヨナが言葉を切った。エルドの顔を見たから。


「……すみません」

「いい。——続けろ」

「……買って、いきますか?」


 エルドは少し迷って——頷いた。


 焼き菓子を二つ買った。一つをヨナに渡した。もう一つを自分で持った。


 齧った。


 甘い。酸っぱい。香ばしい。——あの味だ。アスカが目を見開いた味。「こんな味、初めてです」と言った味。


 おいしかった。


 おいしくて——また、泣きそうになった。堪えた。飲み込んだ。パンと一緒に。涙と一緒に。


 二人は展望広場に向かった。


 広場は——無事だった。柵が少し歪んでいるが、立っている。ここからの景色は変わらない。空。雲海。遠くの園。


 柵に寄りかかった。二人で。空を見た。


 午後の空が広がっている。青い空。白い雲。風が穏やかに吹いている。


 ——ここに、四人で立っていた。


 リーネが「いい天気だったね」と言った場所。ヨナが「楽しかったですか?」と聞いた場所。アスカが「綺麗ですね」と呟いた場所。エルドが——「悪くない」と言った場所。


 今は——二人。


 ヨナが隣にいる。杖を柵に立てかけて。穏やかな顔で空を見ている。


「……エルドさん」

「何だ」

「僕は——守れませんでした」


 ヨナの声は静かだった。


「最終防衛戦で、また怪我をして。戦闘続行不能で。アスカさんが行くのを——見送ることすらできなかった。後方で寝てただけでした」


 ヨナの手が——杖を握りしめた。


「守りたかったのに。何もできなかった。また——何もできなかった。第三の園のときと同じです。手が届かなかった」


 ヨナの目に——痛みがあった。でもそれは——絶望ではなかった。


「でも——生きてます」


 ヨナが空を見上げた。


「守れなかったかもしれない。何もできなかったかもしれない。でも——生きてる。アスカさんが守ってくれた場所で。アスカさんが残してくれた朝の中で」


 ヨナがエルドを見た。


「エルドさんも——生きてます」


 エルドは何も言わなかった。


「一人じゃないですよ」


 ヨナの声が——温かかった。


「僕がいます。リーネさんもいます。——一人じゃない」


 一人じゃない。


 その言葉が——エルドの胸の中に、沈んでいった。深い場所に。ヨナの言葉はいつもそうだ。静かに、深く、確実に届く。


 エルドは——ヨナを見た。


 杖をついた、痩せた、小柄な男。戦えない体。傷だらけの体。でも——穏やかな目をしている。失った痛みを抱えながら、それでも他人を想える目をしている。


 第七話で、ヨナは言った。「僕は弱いよ。でも弱いからって、諦めたくはないんだ」。


 あの言葉が——今も、生きている。


「……ヨナ」

「はい」

「……ありがとう」


 ヨナが笑った。穏やかに。


「こちらこそ。——エルドさんに、ありがとうって言ってもらえるなんて。前は想像もできませんでしたよ」


 前は。数ヶ月前。エルドが空っぽだった頃。「ありがとう」も「ごめん」も「うるさい」も言わなかった頃。何も感じず、何も伝えず、ただそこにいただけの頃。


 今は——違う。


 変わった。アスカが変えた。


 その変化は——アスカがいなくなっても、消えなかった。


 五歳のとき、エルドは全てを失って空っぽになった。全てを閉じて、何も感じなくなった。


 今——また、失った。アスカを失った。


 でも今度は——空っぽにならなかった。


 閉じなかった。


 痛い。苦しい。悲しい。会いたい。声が聞きたい。笑顔が見たい。全部が——痛い。全部が、胸を裂くように痛い。


 でも——閉じない。


 閉じたら——アスカが残してくれたものが、消えてしまう。パンの味。夕焼けの色。「おいしい」の声。「綺麗ですね」の横顔。「ここにいます」の温もり。涙の温度。手のひらの感触。全部が——閉じたら消える。


 だから閉じない。痛くても。苦しくても。


 アスカが残したものを——抱えて生きる。


 それが——エルドにできる、唯一のことだ。


 風が吹いた。展望広場の風。穏やかな風。


 ヨナが隣にいる。何も言わず。ただ隣に。二人とも喪失を抱えている。二人とも——それでも、ここにいる。


 ヨナの存在が——微かな光だった。エルドは一人ではない。リーネもいる。ヨナもいる。失ったものは大きい。でも——残ったものもある。


 空が——色づき始めた。


 午後の光が傾いて、夕焼けが始まろうとしている。雲海の端が橙色に染まり始めている。


 ——綺麗ですね。


 アスカの声が——聞こえた気がした。


 聞こえるはずがない。もうどこにもいない。でも——エルドの中に、あの声がある。あの横顔がある。あの「綺麗ですね」が。


 消えていない。


 体は消えた。コアは砕けた。跡形もなく。でも——エルドの中に、アスカは残っている。


 パンの味を覚えている。夕焼けの色を覚えている。焼き菓子の甘さを覚えている。笑顔を覚えている。涙を覚えている。手の温もりを覚えている。


 全部が——ここにある。


 アスカが教えてくれたもの。世界に色があるということ。パンがおいしいということ。夕焼けが綺麗だということ。誰かの隣にいたいと思えるということ。守りたいと思えるということ。


 全部が——エルドの中に、生きている。


 アスカは——アスカが望んだ通りに——エルドの中にいる。


「……ヨナ」

「はい」

「帰るか」

「はい。——帰りましょう」


 二人は展望広場を後にした。


 兵舎に向かう道を歩く。ヨナが杖をつきながら。エルドがその横を歩きながら。


 通りの途中で、子供たちが走り回っていた。笑い声。泣き声。また笑い声。


 瓦礫の間に——花が咲いていた。青い花。あの日、アスカと二人で見つけた花。


 エルドは足を止めた。花を見下ろした。


 ——小さな花だ。瓦礫の隙間から、必死に顔を出して咲いている。踏まれるかもしれない。明日には枯れるかもしれない。でも——今、咲いている。


 咲いている。それだけで。


 エルドはしゃがみ込んだ。花を見た。近くで。


 ——綺麗だな。


 思った。声には出さなかった。でも——思った。花が綺麗だと。


 アスカが教えてくれたのだ。花が綺麗だということを。空が綺麗だということを。パンがおいしいということを。生きていることが——大事だということを。


 エルドは立ち上がった。


 前を向いた。


 兵舎が見えている。リーネはもう家に帰っている。弟に飯を作っている。ヨナが隣にいる。明日も朝が来る。パン屋が開く。詰所に集まる。ヨナが花に水をやる。リーネが喋る。エルドが黙って聞く。


 ——一つだけ、空いた席がある。


 その席は——ずっと空いたままだろう。椅子を片付けることはない。あの場所はアスカの場所だ。誰にも座らせない。


 でも——空いているからといって、いないわけではない。


 エルドの中に——いる。


 一歩、踏み出した。


 その一歩の中に——アスカの笑顔があった。


 あの笑顔。最後に見た、本当の笑顔。仮面ではない。嘘ではない。怖くて、悲しくて、死にたくなくて、帰りたくて——でも、幸せで。全部を抱えたまま、微笑んでいた。


 あの笑顔が——エルドの中にある。


 一歩。また一歩。歩いている。生きている。


 悪魔はまだ地上にいる。崩落はまだ続くだろう。世界は救われていない。園はまだ脅かされている。明日が安全だという保証はどこにもない。


 でも——ここに、生きている人たちがいる。


 傷だらけの楽園に。それでも光が差す場所に。


 リーネが弟の手を引いて歩いている。リーネは泣きながら笑っている。守りたかったものは守れた。その代償を背負いながら。でも——守れた。


 ヨナがエルドの隣を歩いている。杖をつきながら。穏やかに笑いながら。「守れなかったかもしれない。でも、生きてる」。弱い男は——最後まで、諦めなかった。


 エルドが歩いている。空っぽだった男が。何も感じなかった男が。今——全てを感じながら歩いている。痛みも。悲しみも。そして——温もりも。


 全部を抱えて。


 全部を背負って。


 それでも——歩いている。


 傍から見れば——バッドエンドだ。


 最強の兵器は失われた。世界は依然として脅威の中にある。主人公は愛する人を失い、悲しみの中にいる。何も解決していない。何も救われていない。


 でも——アスカは満足して逝った。


 怖かった。死にたくなかった。帰りたかった。でも——幸せだった。少しでも愛し合えた。それだけで幸せだった。守りたいものができた。自分の意志で選べた。満足の笑顔で——逝けた。


 エルドは喪失を抱えて、それでも生きることを選んだ。


 五歳のときのように全てを閉じて空っぽになることを——しなかった。痛みを抱えて。悲しみを抱えて。アスカが残した温もりを抱えて。生きることを——選んだ。


 楽園は崩れた。


 でもそこに——確かに、何かがあった。


 朝日が——第七の園を照らし始めた。


 傷だらけの街に。瓦礫の山に。仮設のテントに。再開したパン屋に。走り回る子供たちに。泣きながら笑うリーネに。穏やかに微笑むヨナに。


 そして——歩き続けるエルドに。


 光が、差している。


 アスカが守った光が。


 その光の中を、エルドは歩いていく。一歩。また一歩。


 どこへ向かっているのかはわからない。明日が何を持ってくるかもわからない。


 でも——歩いている。


 生きている。


 アスカの笑顔を、胸の中に抱えて。


 ——それでも、朝は来る。


『それでも、朝は来る』 了

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