それでも朝は来る
朝が来た。
何度目の朝だろう。アスカが消えてから。数えていない。数える気になれなかった。朝が来て、昼が来て、夜が来て、また朝が来る。その繰り返しを——ただ、やり過ごしていた。
第七の園は、立っている。
傷だらけだった。南の壁は崩壊したままだ。市街地の三分の一が瓦礫に埋もれている。傲慢が踏み抜いた通りは巨大な溝になっていて、まだ修復が追いついていない。避難所のテントが増えた。園の住民のうち、家を失った者たちが仮住まいをしている。
でも——立っている。
空に浮かんでいる。落ちていない。浮遊機構は無事だ。園は生きている。
人々の日常が、少しずつ戻り始めていた。瓦礫の撤去作業。壁の補修。仮設の商店が通りに並び始めている。パン屋が——あの、園で一番おいしいパン屋が——再開した。店の壁にひびが入ったまま、窓ガラスが割れたまま、それでも石窯に火を入れて、パンを焼き始めた。
焼きたてのパンの匂いが、傷ついた通りに漂っている。
子供たちが走り回っている。瓦礫の隙間を駆け抜け、壊れた塀を飛び越え、笑い声を上げている。子供は——強い。大人が立ち直れずにいるときに、子供はもう笑っている。
エルドは——兵舎にいた。
詰所の自分の席に座って、窓の外を見ていた。南の空。あの日、黒かった空。今は——青い。晴れている。雲が流れている。何事もなかったかのように。
窓辺に、ヨナの鉢植えがある。白い花。名前のない花。
咲いている。
あの戦闘を生き延びた。兵舎は大きな被害を受けなかったから。窓辺の小さな鉢植えは——何事もなかったかのように、白い花を咲かせている。
エルドはその花を見ていた。
アスカが「かわいそうですね」と言った花。名前がないことを、かわいそうだと。
——名前がなくても、咲いている。
誰にも見られなくても。名前を呼ばれなくても。ただ、咲いている。
ドアが開いた。
ヨナだった。
杖をついている。松葉杖ではなく、木の杖。最終防衛戦で再び負傷し、今度は右脚にも損傷を受けた。完治するかどうかはわからない。戦闘はもうできないかもしれない。
でもヨナは——穏やかに笑っていた。
「おはようございます、エルドさん」
いつもの声。いつもの穏やかさ。
「……ああ」
エルドの声は掠れていた。ここ数日——いや、もっと長いかもしれない——ほとんど喋っていなかった。
ヨナが自分の席に座った。杖を壁に立てかけた。窓辺の花を見た。
「……元気に咲いてますね」
「ああ」
「水、あげていいですか」
「……ああ」
ヨナが立ち上がって、鉢植えに水をやった。いつもの仕草。丁寧に。花びらにかからないように。土だけに。
いつもの光景だった。
——一人、足りない以外は。
ヨナが席に戻った。しばらく黙っていた。二人で窓の外を見ていた。青い空。白い雲。
「……エルドさん」
「何だ」
「食堂、行きませんか。パン屋さん、再開したんですよ」
パン屋。あの、園で一番おいしいパン屋。木の実のパンを最初にアスカに勧めたヨナ。アスカが「おいしいです」と目を細めたあの店。
「……ああ」
二人で詰所を出た。廊下を歩く。ヨナが杖をつきながら、ゆっくり歩く。エルドはその速度に合わせた。急ぐ理由がない。どこにも——急ぐ理由がない。
食堂に着いた。
リーネがいた。
テーブルに座っている。髪を下ろしていた。いつもは束ねている髪が、今日は下りている。少し痩せた。目の下に隈がある。でも——目は、生きていた。
「……おはよ」
リーネの声は静かだった。以前のような明るさはまだ戻っていない。でも——消えてもいない。
「おはよう、リーネさん」
ヨナが隣に座った。エルドも座った。三人がテーブルにいる。
四人がけのテーブル。一つの席が——空いている。
誰もその席に触れなかった。椅子を片付けもしなかった。ただ——空いていた。空いたまま。
リーネがパンの皿をテーブルの真ん中に置いた。焼きたてのパン。いつもの丸いパン。
「パン屋のおばちゃんがさ、開店の日に——『あの白髪の子は元気? また来るかねえ』って」
リーネの声が——少しだけ、震えた。
「『おいしいおいしいって食べてくれる子でねえ、あんなに喜んでもらえると作りがいがあるよ』って」
エルドは黙っていた。
「……知らないんだよ、おばちゃんは。アスカが——何者だったかも。何があったかも。ただ、パンをおいしそうに食べる女の子だって——それだけ」
リーネが目を拭った。手の甲で。乱暴に。
「それだけでよかったんだよね。アスカは——それだけで、嬉しかったんだよね。パンがおいしいって。それだけで」
ヨナが黙って頷いた。目が潤んでいた。
エルドは——パンを手に取った。
齧った。
味がした。温かかった。いつもの味。いつもの温度。
——おいしい。
その感想が、胸の中に落ちた。おいしい。パンがおいしい。
アスカが「おいしい」と言った味だ。アスカが目を細めた味だ。アスカが——好きだった味だ。
おいしい。
その一言が——涙になった。
エルドの目から涙が落ちた。パンを持ったまま。口の中にパンの味が広がったまま。温かいまま。おいしいまま。涙が頬を伝った。
何も感じなかった男が。パンの味で泣いている。
リーネが——泣いた。エルドの涙を見て。もらい泣きだ。ヨナも——目元を拭った。
三人が食堂で泣いていた。パンを食べながら。焼きたてのパンの匂いの中で。
しばらくして——リーネが鼻をすすった。
「……弟がさ。昨日、聞いてきたんだよ。『姉ちゃん、あの白い髪のお姉ちゃんはどこ行ったの? また遊びに来る?』って」
リーネが苦笑した。泣き笑いの顔。
「『遠くに行ったよ』って答えた。嘘じゃないでしょ。遠いよ。もう——手が届かないくらい遠い」
ヨナが静かに言った。
「弟さん、無事でよかったですね」
「……うん。父さんも母さんも。避難船に乗れた。——アスカのおかげで」
リーネの声が——硬くなった。
「私の家族が生きてるのは、アスカが死んだからだ。——それを、一生背負って生きていくんだと思う」
重い言葉だった。リーネの中で——アスカの死は、永遠に消えない傷になっている。感謝と罪悪感と悲しみが混ざった、複雑な傷。
「でも——忘れない。アスカのこと。絶対に。弟が大きくなったら、話すよ。あんたを守ってくれた人がいたんだよって。白い髪の、パンが大好きな、すごく強くて——すごく優しい人がいたんだよって」
リーネが——笑った。涙を流しながら。
守りたかったものは、守れた。弟の笑顔。両親の命。家族の日常。全部——守れた。
でもそのために——アスカが失われた。
リーネはその事実を、一生抱えて生きていく。忘れずに。背負いながら。
食事が終わった。三人が食堂を出た。
リーネは家に帰った。「弟に飯作ってやんなきゃ」と言って。歩いていく背中は——少しだけ、いつものリーネに戻っていた。完全にではない。でも——戻ろうとしている。
ヨナはエルドの横を歩いていた。杖をつきながら。ゆっくりと。
「エルドさん」
「何だ」
「少し——歩きませんか」
二人で歩いた。兵舎を出て、瓦礫の通りを抜けて、市場を通り過ぎて。
市場は再開し始めていた。仮設の屋台が並んでいる。人々が行き交っている。まだ数は少ない。でも——動いている。生きている。
あの焼き菓子の店は——半壊していた。壁が崩れている。でも店主がテーブルを一つだけ出して、菓子を並べ始めていた。
ヨナがそれを見て、少しだけ微笑んだ。
「……あの店も再開したんですね」
「ああ」
「アスカさんが好きだったやつ。蜜漬けの果実の——」
ヨナが言葉を切った。エルドの顔を見たから。
「……すみません」
「いい。——続けろ」
「……買って、いきますか?」
エルドは少し迷って——頷いた。
焼き菓子を二つ買った。一つをヨナに渡した。もう一つを自分で持った。
齧った。
甘い。酸っぱい。香ばしい。——あの味だ。アスカが目を見開いた味。「こんな味、初めてです」と言った味。
おいしかった。
おいしくて——また、泣きそうになった。堪えた。飲み込んだ。パンと一緒に。涙と一緒に。
二人は展望広場に向かった。
広場は——無事だった。柵が少し歪んでいるが、立っている。ここからの景色は変わらない。空。雲海。遠くの園。
柵に寄りかかった。二人で。空を見た。
午後の空が広がっている。青い空。白い雲。風が穏やかに吹いている。
——ここに、四人で立っていた。
リーネが「いい天気だったね」と言った場所。ヨナが「楽しかったですか?」と聞いた場所。アスカが「綺麗ですね」と呟いた場所。エルドが——「悪くない」と言った場所。
今は——二人。
ヨナが隣にいる。杖を柵に立てかけて。穏やかな顔で空を見ている。
「……エルドさん」
「何だ」
「僕は——守れませんでした」
ヨナの声は静かだった。
「最終防衛戦で、また怪我をして。戦闘続行不能で。アスカさんが行くのを——見送ることすらできなかった。後方で寝てただけでした」
ヨナの手が——杖を握りしめた。
「守りたかったのに。何もできなかった。また——何もできなかった。第三の園のときと同じです。手が届かなかった」
ヨナの目に——痛みがあった。でもそれは——絶望ではなかった。
「でも——生きてます」
ヨナが空を見上げた。
「守れなかったかもしれない。何もできなかったかもしれない。でも——生きてる。アスカさんが守ってくれた場所で。アスカさんが残してくれた朝の中で」
ヨナがエルドを見た。
「エルドさんも——生きてます」
エルドは何も言わなかった。
「一人じゃないですよ」
ヨナの声が——温かかった。
「僕がいます。リーネさんもいます。——一人じゃない」
一人じゃない。
その言葉が——エルドの胸の中に、沈んでいった。深い場所に。ヨナの言葉はいつもそうだ。静かに、深く、確実に届く。
エルドは——ヨナを見た。
杖をついた、痩せた、小柄な男。戦えない体。傷だらけの体。でも——穏やかな目をしている。失った痛みを抱えながら、それでも他人を想える目をしている。
第七話で、ヨナは言った。「僕は弱いよ。でも弱いからって、諦めたくはないんだ」。
あの言葉が——今も、生きている。
「……ヨナ」
「はい」
「……ありがとう」
ヨナが笑った。穏やかに。
「こちらこそ。——エルドさんに、ありがとうって言ってもらえるなんて。前は想像もできませんでしたよ」
前は。数ヶ月前。エルドが空っぽだった頃。「ありがとう」も「ごめん」も「うるさい」も言わなかった頃。何も感じず、何も伝えず、ただそこにいただけの頃。
今は——違う。
変わった。アスカが変えた。
その変化は——アスカがいなくなっても、消えなかった。
五歳のとき、エルドは全てを失って空っぽになった。全てを閉じて、何も感じなくなった。
今——また、失った。アスカを失った。
でも今度は——空っぽにならなかった。
閉じなかった。
痛い。苦しい。悲しい。会いたい。声が聞きたい。笑顔が見たい。全部が——痛い。全部が、胸を裂くように痛い。
でも——閉じない。
閉じたら——アスカが残してくれたものが、消えてしまう。パンの味。夕焼けの色。「おいしい」の声。「綺麗ですね」の横顔。「ここにいます」の温もり。涙の温度。手のひらの感触。全部が——閉じたら消える。
だから閉じない。痛くても。苦しくても。
アスカが残したものを——抱えて生きる。
それが——エルドにできる、唯一のことだ。
風が吹いた。展望広場の風。穏やかな風。
ヨナが隣にいる。何も言わず。ただ隣に。二人とも喪失を抱えている。二人とも——それでも、ここにいる。
ヨナの存在が——微かな光だった。エルドは一人ではない。リーネもいる。ヨナもいる。失ったものは大きい。でも——残ったものもある。
空が——色づき始めた。
午後の光が傾いて、夕焼けが始まろうとしている。雲海の端が橙色に染まり始めている。
——綺麗ですね。
アスカの声が——聞こえた気がした。
聞こえるはずがない。もうどこにもいない。でも——エルドの中に、あの声がある。あの横顔がある。あの「綺麗ですね」が。
消えていない。
体は消えた。コアは砕けた。跡形もなく。でも——エルドの中に、アスカは残っている。
パンの味を覚えている。夕焼けの色を覚えている。焼き菓子の甘さを覚えている。笑顔を覚えている。涙を覚えている。手の温もりを覚えている。
全部が——ここにある。
アスカが教えてくれたもの。世界に色があるということ。パンがおいしいということ。夕焼けが綺麗だということ。誰かの隣にいたいと思えるということ。守りたいと思えるということ。
全部が——エルドの中に、生きている。
アスカは——アスカが望んだ通りに——エルドの中にいる。
「……ヨナ」
「はい」
「帰るか」
「はい。——帰りましょう」
二人は展望広場を後にした。
兵舎に向かう道を歩く。ヨナが杖をつきながら。エルドがその横を歩きながら。
通りの途中で、子供たちが走り回っていた。笑い声。泣き声。また笑い声。
瓦礫の間に——花が咲いていた。青い花。あの日、アスカと二人で見つけた花。
エルドは足を止めた。花を見下ろした。
——小さな花だ。瓦礫の隙間から、必死に顔を出して咲いている。踏まれるかもしれない。明日には枯れるかもしれない。でも——今、咲いている。
咲いている。それだけで。
エルドはしゃがみ込んだ。花を見た。近くで。
——綺麗だな。
思った。声には出さなかった。でも——思った。花が綺麗だと。
アスカが教えてくれたのだ。花が綺麗だということを。空が綺麗だということを。パンがおいしいということを。生きていることが——大事だということを。
エルドは立ち上がった。
前を向いた。
兵舎が見えている。リーネはもう家に帰っている。弟に飯を作っている。ヨナが隣にいる。明日も朝が来る。パン屋が開く。詰所に集まる。ヨナが花に水をやる。リーネが喋る。エルドが黙って聞く。
——一つだけ、空いた席がある。
その席は——ずっと空いたままだろう。椅子を片付けることはない。あの場所はアスカの場所だ。誰にも座らせない。
でも——空いているからといって、いないわけではない。
エルドの中に——いる。
一歩、踏み出した。
その一歩の中に——アスカの笑顔があった。
あの笑顔。最後に見た、本当の笑顔。仮面ではない。嘘ではない。怖くて、悲しくて、死にたくなくて、帰りたくて——でも、幸せで。全部を抱えたまま、微笑んでいた。
あの笑顔が——エルドの中にある。
一歩。また一歩。歩いている。生きている。
悪魔はまだ地上にいる。崩落はまだ続くだろう。世界は救われていない。園はまだ脅かされている。明日が安全だという保証はどこにもない。
でも——ここに、生きている人たちがいる。
傷だらけの楽園に。それでも光が差す場所に。
リーネが弟の手を引いて歩いている。リーネは泣きながら笑っている。守りたかったものは守れた。その代償を背負いながら。でも——守れた。
ヨナがエルドの隣を歩いている。杖をつきながら。穏やかに笑いながら。「守れなかったかもしれない。でも、生きてる」。弱い男は——最後まで、諦めなかった。
エルドが歩いている。空っぽだった男が。何も感じなかった男が。今——全てを感じながら歩いている。痛みも。悲しみも。そして——温もりも。
全部を抱えて。
全部を背負って。
それでも——歩いている。
傍から見れば——バッドエンドだ。
最強の兵器は失われた。世界は依然として脅威の中にある。主人公は愛する人を失い、悲しみの中にいる。何も解決していない。何も救われていない。
でも——アスカは満足して逝った。
怖かった。死にたくなかった。帰りたかった。でも——幸せだった。少しでも愛し合えた。それだけで幸せだった。守りたいものができた。自分の意志で選べた。満足の笑顔で——逝けた。
エルドは喪失を抱えて、それでも生きることを選んだ。
五歳のときのように全てを閉じて空っぽになることを——しなかった。痛みを抱えて。悲しみを抱えて。アスカが残した温もりを抱えて。生きることを——選んだ。
楽園は崩れた。
でもそこに——確かに、何かがあった。
朝日が——第七の園を照らし始めた。
傷だらけの街に。瓦礫の山に。仮設のテントに。再開したパン屋に。走り回る子供たちに。泣きながら笑うリーネに。穏やかに微笑むヨナに。
そして——歩き続けるエルドに。
光が、差している。
アスカが守った光が。
その光の中を、エルドは歩いていく。一歩。また一歩。
どこへ向かっているのかはわからない。明日が何を持ってくるかもわからない。
でも——歩いている。
生きている。
アスカの笑顔を、胸の中に抱えて。
——それでも、朝は来る。
『それでも、朝は来る』 了




