7 香ぞする
香を焚きしめた白の浄衣。髪は緩やかに結い上げて、習練場の橘の木からいただいた花枝を簪とする。
祭の当日である。
舞殿前は大盛況だ。虫かごのみこしも提灯行列も支度を終えて、時を待っている。
「本当に、わたしが舞うの?」
正装で座しながら、三の舞から二の舞に映った舞台を見つめてなお、訝しげであった。
「わたし、一度も練習に参加していないのだけれど、」
「まあ、香子さま。わたくしと毎晩練習していたではありませんか。」
丁寧な口調の紫子には、まだ慣れない。失われていた記憶の中で、いつも側にいた面影を認めてはいるのだが。
紫子の両親も、屋敷の使用人の多くも、学校の教師や級友の何人かも、橘正の家人だと知らされて・・姫様、と呼ばれることに、戸惑いが先に立つ。
「ねぇ、やっぱり紫子さんが出た方がいいんじゃないかな?」
往生際悪く、繰り返した。
「わたしなんかが突然出たら、皆吃驚するし、選ばれて練習していたのは紫子さんなわけだし?」
「紫子とお呼びくださいませ。」
と、何度目か分からない釘を差されてから、
「わたくしではもともと力不足でございました。もう、お話してしまいますけど、わたくしが香子さまに舞をお伝えしていたのは、今日舞っていただくためでした。」
「どういうこと?」
「突然、腹痛に襲われて七転八倒した挙句に、わたくしの代わりに踊りなさい! わたくしに恥をかかせるんじゃないわよ!と。」
言いそうなことではあったけれど、公式行事の大舞台で、いくら何でもそんな我儘が通るとは思えない。本当は?との意を込めて、じっと見つめたけれど、紫子は微笑むだけで言葉を続けはしなかった。
「----ゆっくり馴染んで、と申し上げたいところなのですが、」
二の舞の終盤にさしかかり、待機のために立ち上がる。衣装を再確認しながら、紫子が言った。
「どうぞ受け入れてくださいませ。わたくしたちは、この日のをずっとお待ちしていたのです。」
「・・うん、」
自分では見えない左の肩の後ろに、知らなければ分からないくらいに薄くなった小さな傷跡がある。かつての襲撃の日に、噛まれた痕が癒えたものだ。
ムシに噛まれると、スス病を発症することがある。患部が黒くなり、全身に広がる。独特の匂いを発して、ムシの目印になる。発症確率としては高くないが、当時、香子の傷を確認した橘正の時鳥たちは、香子が傷ものとして軽く扱われたり虐げられたりすることも恐れたことも、香子を匿ったことの理由の一つという。
「あなたさまはもう紗子ではございませぬ、わたくしたちの、この叉始祇の町を導かれる香子さまでございます。」
「うん、」
守られる側から守る方にならねばならない。
ムシ送りの、この舞台がその始まりであり、表れであるのだ。
舞台の向こうに対の衣装を纏った衛心が立っている。香子が小さく手を振ると、ぎょっとしたように目を瞠り、目を反らしてしまった。あちらの付き添いの男性が、呆れたように軽く天を仰いで小突いている。
「妥当な縁組ではございますけれど、」
紫子は少し不服そうだ。
「香子さまは、あの方で宜しいのでしょうか? 本当に?」
「えーくんは好きだったし、・・橘樹くんは少し面倒くさそうで怖い感じもしたけれど、」
彼は、紫子の家改め香子の家に招かれて、大急ぎで一番いい部屋への引っ越し準備でまとめられた紗子の荷物の一番上に、小さな木彫りの犬を見つけて・・、泣いたのだ。幼い彼が、幼い自分への土産に作ったと知った。(橘正の焼け跡で、奇跡的に燃え残っていたので紫子の父が持ち帰ってきたところ、香子が気に入って放さなかったらしい。)
絆は細くとも、繋がっていたのだ。
「たぶん、仲良くやれると思う。」
ムシ払いの祭りを終えた後、正式に橘の、樹繋の乙女に任じられれば、衛心とともに「競」なる儀式に参加するために、樹界に赴くことになるという。
叉始祇の町を食い破ろう狙うムシたちが襲ってくるのなら、この祭りの時ではないかと時鳥たちは予測を立てていた。もっとも、守護が弱まるときだからだ。
先に香子に答えた台詞は一部正しい。身代わりになるつもりの一番舞だった。衛心の登場で、正しいかたちに進んだことは認める----良いところを搔っ攫われた気がするのもするので、つい言ってしまう。
「香子さまはお優しいから心配ですわ。高飛車で不遜な振る舞いばかりでした女の事もあっさりと受け入れてしまわれるくらいですもの。」
「紫子さんは、一生懸命で真っすぐなひとだと思っていたよ?」
そして、それは間違っていなかったと微笑む香子に、
「ま、本当にお心が広くて、自慢の主ですわ!」
と、紫子は頬を赤らめた。
「そういうわたしに育ててくれたのは皆でしょう?」
とどめである。紫子は強く拳を握って宣言した。
「ようございます。これまで通り、わたくしがしっかり目を光らせれば良いことですもの。本町にも、競にも、もちろん、わたくしをお連れくださいますでしょう?」
「それは、紫子さ、紫子が来てくれたら心強い、よ?」
満足そうに頷いた紫子が、おもむろに膝まづいた。
「かしこみてまいらせたまえ」
始まりの鈴が鳴る。
「橘は」
と、衛心の在る西側が唱える。
「花にも実にも見つれども」
と、香子の立つ南側が唱える。
「いや時じくに」
と、社が立つ東側が唱える。
「なほし見が欲し」
と、ムシ送りのみこしが向かう北側が唱える。
たくさんの、たくさんの目が見ているけれど。
衛心と目があって、衛心がいるのなら、
----大丈夫と思った。
「いやさかに」
「いやさかに」
香子はゆっくりと扇を頭上へと上げていく。外側を向いているから見えないが、衛心も同様に。
扇が振れるたび、足で踏みしめるたび、空から地から、光(と認知される)が体を巡り、また界へ還っていく。観客は、それを橘の蕾が次々に咲いていくさまと、常より深い香りによって識る。それは、境内だけではなく、町全体へ水紋のように広がり、町を包んでいったのだ。
溢れていく光は波紋のように波打ち、外へ外へと、光の密度はを上げながら、高い波のように町全体を洗っていく。町は白い光の海の中に沈んだようで、その中で次々に蕾をほころばせていく橘の白い花は更に強い光を帯びて、星のようにきらきらと輝いた。
境のサカキが、水しぶきを受けて瑞々しく光り、境界をくっきりと浮かび上がらせる。
「この橘を時じくの香久のこのみと名付けけらしも」
和歌は『万葉集』大伴家持作。
本編はここまで。外伝のようなもの(補完)が続きます。
ちなみに、「ヤナギ町」の二人が➱←のようなバランスだとすると、こちらの二人は⇨⇦だと思ってます。でも、競に出るのも出ないのも任せるよ~な自由な柳と比べて、五樹家(橘・桐・檜・杉・槇)として競にでて当然みたいな橘で、芽が出ずにいた衛心は屈折率が高い・・感じでしょうか。でもお坊ちゃんで、環境的には愛されていますので、あとはとても素直になるでしょう。
あと、完璧な余談ですが、紫子は香子より実は年上なのです。




