5 ひとの
「不愉快だわ。」
迎えの車に乗り込んだ後、紫子はイライラした様子で言った。
「賢しらぶって不躾きわまりないわ。デリカシーとか分別とか、どこかに落としてきたのかしら。」
「あの転入生と、紫子さんはどこで知り合ったの?」
初対面という感じではなかった。
「転入生・・そうね、転入生。おまえのクラスに、」
苛立たし気に呟いたのち、
「習練場よ。彼は舞手の組に入ったの。」
「祭りは週末なのに!?」
参加は必須だから、となれば、ぶっつけでもなんとかなる提灯の組だろう。
「心配ないわ。」
「物凄く上手かった?」
「----祭りの前に、転校するでしょうから。」
聞き間違いかと首を捻る紗子を前に、紫子はため息をつく。
「というのに、おまえに難癖をつけてどうしようというのかしら。」
「え? 転校してきたのに、すぐ転校していくの?」
漸く紫子の言葉を解析して、紗子は首を傾げた。
「何しに来たの?」
「・・何しに来たのかしら。」
窓の外----流れていく夕闇の街路か、窓に映るその姿か----を、しばらく見遣ったのち、
紫子は運転席に行先の変更を命じた。
「あんまり頭にきたから、甘いものが食べたくなったわ。モールでケーキセットでも食べましょう。パフェでも良くてよ?」
車内に自分の通学カバンは置いて、紗子は紫子のカバンをもってショッピングモールにお供することになった。他所からは、気ままなイメージの紫子だが、実際のところ、こういう突発的な行動は珍しい。
「パンケーキもありかしら。果物と生クリームたっぷりの。」
「夕飯が入らなくなるよ?」
「大丈夫よ。お夜食にリメイクしてもらうから。」
店名一覧のパネルの前で、熟考すること暫し。
「----決めさせてあげるわ。」
それは偉そうに投げてきた。即断独断型のイメージだが、こんな風によく委ねてくる。
「・・温かい紅茶が飲みたいから、ケーキセットがある方では?」
「よろしくてよ。」
学校の活動以外は別として、プライベートでは紫子としか出歩くことはない。紫子が供をさせていると柑埜らは声高に非難するが、こんな感じで、紫子が行きたいところばかりに行っているわけではない。
ケーキ店はモール内でも端に近い場所だった。その向かい側に本屋があった。紫子が店頭のポスターに目を止めて立ち止まる。
紫子が愛読するシリーズ最新作が発売されていた。いつもなら、使用人に買い出しついでに求めさせておくところが、さすがに舞の稽古が立て込んで、失念してしまったようだ。
「ちょっとだけよろしいかしら?」
否はない。
平積みされている新刊を手に取り、
「では会計を、」
「待ってる。」
紗子が自身で選んで本を買ったのはいつだったか。とはいえ、読書しないわけではなく、読書家の紫子から、これは良かったとお薦めされてくるもので十分事足りてしまうのだ。
「…そう?」
付き添わないのが不満そうだ。
「表紙、眺めて待ってるから、」
本屋に来ることもないから、台上にきっちりと並べれている新刊の、予備知識がない中で。タイトルと帯とイラストで、内容を想像しはじめていたから、そう言った。
紫子が十冊とか買うなら付き添いありだが、文庫本一冊だ。
「そうね、おまえもたまには自分で選んでみるのも良いでしょう。」
「買うつもりではないけど?」
「表紙みて、どんな話かなと考え、想定通りか試してみる読み方をジャケ買いというのよ。試してみたい本があれば言いなさい。」
本読みと非本読みの溝を感じるやり取りであった。
「…ここを動かないこと。」
「うん。…あ、お財布。」
ひとの鞄を開けるのは、するべきことではないから、そのまま差し出した。
紫子は躊躇い。レジと新刊コーナーの間に視線ん行き来させてから、受け取った。
「直ぐに戻りますから。ここにいて、」
念押しして。早足でレジに向かった。
本当に見失うような距離でもなく、障害物もない。紫子がフォーク並びのレジ列の後ろに付いたのを確認してから、紗子は平台に視線を落とした。
サイズも厚さもバラバラの書籍は、どういう基準で並べる位置は決められているのだろう。平台の上、ぴったりに収まっている様子はパズルみたいでもある。
ジ、と左耳が聞いた。
あの、夢で聞く音に似ている、と思った瞬間、総毛が立つ感じがあって、左右を慌てて見回した。
何も飛んではいなかった。
ジ、ジ、ジ、…音は続く。
聞こえているのは紗子だけなのだろうか。新刊コーナーを、並ぶように見ている人も、周辺の書棚を眺めている人も、特段変わった様子はない。
ジ、ジ、ジ、ジ、ジジジジ、ジ…音が増していく。
唇を引き結びながら、何処からか見極めようと、もう一度辺りを見る。そして、隣に立つ人の袖口に止めた。
目を反らして、----もう一度、見た。見間違いであってほしかった。
袖の、
----内側から。
黒い・・長い触角を蠢かせる虫がはい出てきたのだ。
真っ黒な体色で、長く、屈曲した触角がうぞうぞと動き、がっしりとした脚には大きな鉤爪。頭は台形で、大きな顎と半円状の複眼、体は逆二等辺三角形。大きさは硬貨を二枚並べたくらいか。
ポトリ。
袖からこぼれて、本と本の隙間に落ちる。それを茫然と見ているうちに、また袖口から別の黒い虫がはい出て、それはまるで壊れた蛇口が滴を落とすようで、瞬く間に平台の上を無数の黒い虫が這いずり回る。この世のものとも思えぬ異様さに、固まっていた紗子が漸く後ずさり、その隣にいた人の姿を----全身を視界に入れて、膝が崩れそうになったのを、どうにか堪えた。
隣で本を眺めていたのは、何の変哲もないスーツ姿の男性だった、はずだ。
なのに、いまスーツを着て立っているのは、まるで一瞬で、総ての水分が抜けて、乾いた皮が骨に張り付いた----ミイラだった。
そして、それは一人ではなく、本屋のあちこち、いや、このモールのあちこちで起こったことのようで、館内に流れていた陽気な音楽は、今や遠く近くから重なり合う悲鳴にかき消されていた。
ミイラは、その袖口から黒い虫が落ちるほどに、さらに薄くなっていき、そうして、かたちさえ崩れた。革靴の上に、すとんと衣服が落ちて、その中から更に虫が這い出してくる。
ジジ、ジジジ・・耳障りな音。
震えて、しなる触角。最初は無秩序に這いまわっていた虫たちが、じわじわ同じ方向を向きだす----すなわち、紗子のほうを。
ジ、ジ、ジジジジジジ。羽の部分が浮く。飛ぶ? 飛びかかる?
浮いた、と目を瞠ったのと、平台の真ん中に何かが飛んできて落ちたのは同時だった。
「紗子!!」
それは、レースを重ねた瀟洒な、紫子の通学カバンだ。
鞄が落ちた周辺の虫たちが、ひっくり返り、あるいは、ざざっと波が引くように遠ざかった。
「しっかりして!」
紫子が走り寄ってきて、紗子の手を取った。
「大丈夫!? 噛まれていない?」
「うん、大丈夫。・・紫子さん、これ、」
「まさか、こんなところで孵化が起きるなんて。わたくしが、こんなところに連れてきてしまうなんて、」
断末魔の痙攣をしながらも、本能的にこちらににじりよろうとする虫を、紫子のローファーが踏みつぶす。
「ああ、虫よけが足りない。なんたる体たらく!!」
自らを罵ったのち、覚悟を決めた目で紗子の手を引いて走り出した。
「孵ったばかりで、まだ飛べないものが多い。今なら、何とか、いや、何とかいたします!」
本屋を出て、通路へ。
異変はやはり建物全体で起きているようで、通路にも黒い虫が筋のように流れている。
這いずってくる虫を蹴りよけ、ジジジ、と跳ねてくるものを、携帯していた扇で叩き落す。
「・・あれ、」
「ご覧にならないように!」
同じように、逃げ惑う人々に黒い虫が群がっていく。
足から這い上られ、肩から背中に吸い付かれ、頭から首の方へ塗りつぶすように。人々は必死に振り落とそうとするが、焼け石に水だった。黒い部分が増えた人は、動きが遅くなり、真っ黒にたかられた、座像、立像が、あちこちにでき始めた。
「・・これ、は、」
体の奥で、何かが揺れる。
黒。・・埋め尽くされた。目。瞬いて----。
見つかった。
怖くないように、言われたとおりに、隠れていたのに。
足が止まっていた。先を走っていた紫子が動かなくなった紗子によって、がく、とバランスを崩し、慌てて振り向いた。
涙の膜が瞠ったままの目に広がっていくのに、息を飲む。
ジジジ、ジジジ。まるで黒いカーテンのように群れを為して迫ってくる。
バサリ、と布を被せられた気配に、紗子は我に返った。
「・・紫子さん?」
白いシャツ姿の紫子が、顔を覗き込んでいた。手に、彼女の扇が握らせられる。
「---決して、御身に触れさせはしません。お逃げください。」
知らぬ表情で、紫子は言った。
綺麗に整えられいる紫子の爪が、自らの腕を強くひっかいた。血が、紫子の白い腕を伝っていく。
血に反応したのか、ジジジジ、と音が高くなった。
「あちらへ、外へ向かってください。この騒ぎを聞きつけて、助けが必ず参ります。暫しだけ、ご辛抱を。」
紫子が、紗子から離れる。すると、二人を包もうとしていた黒のカーテンは、紫子のほうにずれていく。それを確認して、紫子は口の端を上げた。
笑った。
「紫子さん!?」
だれかのそれと紫子のそれが、重なる。
紫子は、黒いカーテンの中に自ら飛び込んだ。
「走って!!」
全身に黒い虫を纏わせ、白い顔だけを浮かび上がらせた紫子の決死の声に押されるように、紗子は後ろへ下がり、そうして、・・よろよろと走り出した。
「助け・・呼んで、こないと。」
間に合うのだろうか。戻って、紫子から虫を払う方がいいのではないか。肩越しに振り向くと、もう埋め尽くされて、真っ黒なトンネルのようになった空間しか見えなかった。
ああ、と紗子は扇を握りしめる。
また。何も。また。何も。
ぐるりぐるりと言葉がせりあがって、体の中でいっぱいになる。
悲しい。怖い。悔しい。
気持ちが溢れて、溶け合って。
本屋の奥は、こじんまりとしたキッズスペースになっていて、その突き当りが非常口(階段)だ。
ジジジジジジ、と追ってくるが、紗子に取り付く寸前で何かに酩酊したように方向を失って落ちていく。理由は、・・扇と紫子の上着な気がした。彼女の鞄が本屋で虫を退けたように。
緑のドア。丸窓。
着いた、と思った。だが、その丸いガラスの外側に、びっしりと黒い虫がたかっていた。
まさか、モール内だけではなく、町にも虫が溢れているというのか。
絶望のまま振り返ると、紗子の寸前まで、壁も床も、宙も、虫が埋め尽くしている。
カンカンカンカン・・!
カンカンカンカンカン・・!
鐘の音は、現実の音か。
それとも。
自分の中の、過去の音か。
視界を塗りつくす、黒・・・!!
このタイプの虫は苦手です。あしからず。




