4 昔の
翌日。
いつも通りの、紫子と登校する朝だ。自分の通学リュックを背負い、彼女の軽い鞄と弁当箱を持って、送迎の自家用車で学校に着いた。
今年のクラスは違うから、紫子の机に鞄と弁当を置いてから、三つ離れた自分の教室に入った。
「おはよう。」
「おはよう、今日はいい天気だね。」
前の席の里依が振り返って、笑顔を見せた。
「天気予報だと、週末の祭りまで天気は崩れないらしいよ?」
「うん、らしいね。」
「金曜がリハーサルだから、しっかり練習できるのは明日までになるねぇ。うちは、例年とそうは変わらない感じでいけてるけど、提灯の方はどう?」
里依は鳴り物の組だ。
「間に合わせる。物量が半端なく多いけど!」
とは、二列向こうの柑埜の返答である。
「みこし隊は、今日がむし籠つくりの追い込みじゃないかな? 晴れたから、外で糊も絵具も使えるし。乾くのも早くなるし。」
組み立て終わった骨組みが多目的ホールに置かれていた。
「そうなるな。舞手さんたちは?」
応じたのは「むし篭」---みこし組の唯志で、舞組の泉水が応じる。
「ふりは入れた。ただ、まだ番手と対が確定じゃない。」
諮ったわけでもないのに、組長が全員同じクラスの出になった。舞手組は、実数より多く集めらておの、対舞に選ばれなければ前座の群舞となる。今年は一学年下までが候補となっているから、例年より狭き門だろう。
「対の呼吸もあるから、早く発表してほしいんだけど。」
組長に選ばれるくらいだから、泉水の番手はかなり上になるのだろう。紫子が大舞に選ばれるのなら、その対を務めるのはきっと彼だ。
「ぼくは昨日かな、と思ってたんだけど、何か終わりごろに、師範とか協会の人たちがバタバタし始めて、稽古もなし崩しに終わるし、」
昨日、という言葉に、組長同士の情報交換を聞いていた紗子がぴくりと肩を震わせた。
「・・昨日、蜃吐がなかった? 」
本当は、そうではないが今は他に言い表しようがなく、
「蜃吐?いつ?」
「全体の終了時間くらい?」
「・・あったかな?」
泉水は首を傾げた。え、と紗子が目を瞠る。
「建物、揺れて・・たよね?」
中からの悲鳴も聞いた。
「うーん、・・あったか?」
気づかなかった、と他の組長たちは言うが、それは当たり前だ。異変があったのは、あの館のまわりだけ・・。
「けが人が出たとか・・慌ただしかったのはどうして?」
「来客だったらしいよ? ぼくたちは見かけてない。」
そこで泉水は、ちょっと困ったような思い出し笑いをした。
「ぼくたちが大変だったのは、おひめさまが、いない!って大騒ぎされたことかな?」
「え・・っと、それはごめん、」
その剣幕が想像できて、紗子は言葉に詰まってしまった。
それで会話は切れて、誰かが「・・鳴る、」と呟いたのを追いかけて始業の鐘が鳴り響いた。
いつもなら職員室の打ち合わせで、あと五分はあとにくる担任が今日に限って、鳴り終わるのを待てないとばかりに戸を引いて入室してきた。
始業の鐘から十分後が朝のHRの開始時刻で、その間は「朝の読書タイム」だから、担任教師は早く来ても(うるさくしていなければ」、時間までは事務的なことをして待っているものだが、
「今日は読書はなしにしてくれ。挨拶を。」
と促されて、早々にHRが始まった。出席確認と健康観察の後、担任は生徒を見渡し改まった声で言った。
「転入生を紹介します。」
ガラ、と戸を開けたのは廊下で付き添っていたらしい学年主任だ。促されて入室してきたその生徒に紗子は目を見開いていく。
「橘樹衛心だ。よろしく。」
緊張を感じさせず、教室をぐるりと見渡したその視線は、紗子のところで少し長く留まっていた・・気がした。
カンカンカンカン・・・!!
鐘が鳴っている。昏い空の下、けたたましく鳴る鐘に追い立てられているよう。息がつけない。足がもつれる。
息が苦しい!
まるで波の中を走るように足が重い。
繋いだ手の先、肩越しに振り向いた顔は、見取る間もなくまた前を向く。何か言われたが聞き取れなかった。
風が頬をかすめる。いや、風ではない。ブ・・ッと背筋を冷たくなぞり上げる、羽音だ。
階段を踏み外したような落下感とともに、びくっと体は跳ね上がって、目が覚めた。転寝していたことに気づいた。
久しぶりに・・あの、夢だった。恐らく、災害に遭遇した時の、思い出せない記憶のかけらだ。
真っ暗な空と追ってくる何かと、一緒に逃げているだれか。父だろうか、母だろうか。自宅は焼失したそうで、持ち出せたものは何もない。紫子の両親がもらって保存していた、幼い紗子と両親の写真が数枚、燃えてしまった(と聞く)家の庭に落ちていたという、小さな子供の工作だろう、たぶん犬の木彫り。自室の棚に飾ってあるそれだけが、災害以前につながるよすがだった。
幼い子供には負荷が大きすぎるから、記憶を閉じたのでしょうというのが、当時の医師の診断だ。であるのなら、やがては思い出す時が来るのだろうか。
父と母と過ごした幼い日々のことを----その最期のことを。昔はただ怖い夢だったが、確かに少しずつ、客観的な視点になってきている気がする。
ある時突然思い出すかもしれないし、一生ないかもしれない。定期的なカウンセリングではいつもそう言われる。また、
「あなたが必要だと求められた時には、きっと。」
とも。
カン、カン、カン・・屋敷の中から鉦の音が聞こえてくる。響きは全く違うが、呼び水になったに違いない、鉦が聞こえ始めたということは、クライマックスが近い。紫子の自主練姿を脳裡に思い浮かべているうちに、手がリズムを取って、いつの間にか返したり、伸ばしたり、ふりをなぞっていた。
鉦が止んで、鈴が鳴りだした。どうやら今日はまだ終わらないようだ。
紗子は立ち上がった。玄関を見上げて、窓辺に人影がないのも確認して、さらに用心して、橘の木の向こうにまわった。
伴奏しながら見ているだけだったのに、瞼の内側に見る紫子のとおりに体が動いている感じがして、くるりくるり、さらりさらり、ふわりふわりと紗子は舞を続けていく。
顎を上げれば、夕方の紫が入った雲、
「橘の、」
緑の梢、
「匂ふあたりのうたた寝は、」
咲き初めようとする白い花、花、花・・・、
「夢ぞ昔の、」
『「袖の香ぞする。」』
声が重なって、紗子はぴた、と動きを止め、勢いよく振り向いた。
昨日と同じだ。いつから、いたのだろう。幹の逆サイドに、転入生が立っていた。
「・・え、と。暇、なんで、適当に?」
舞手候補直伝なのに、部外者に漏らしていたと思われては紫子が不利になる。
衛心は暫し黙っていた。視線に耐えられなくなったのは、紗子だ。
「あー、転入生、」
「衛心だ。」
「…橘樹くん、」
教室でも、ちらちらとは確認していたが、
「えー、昨日はごめんなさい。まさか、」
「いい、」
ぶっきらぼうに遮られた。
「おれの自制不足がもともとの原因だ。」
同級生の泉水も、堅い話し方をする人物だが、さらに堅苦しく、重みを感じる口調だった。
「水波紗子、」
「はい?」
転入一日目、教室での接点はないはずなのに、フルネームで呼ばれた。
「おまえは養家で虐げられていると聞いた。」
「・・は?」
びっくりした。固まっていると、
「養家の娘に小間使いのように使われているのだろう? 登下校時には荷物を持たされ、いまもこうして待たされ、自由な時間は殆どないとか。」
「・・ご心配なく、」
紗子は衛心と向き合った。紗子は学年でも後ろから数えた方がいい身長だが、その紗子をして顎を上げて見上げなければならない。
「だれから、なにを聞いたか知らないけど、不当に虐げられているとは思ってない。」
「言っても仕方ない、ということか?」
「違う。自分の部屋もあるし、お小遣いも毎月もらっているし。」
「帰宅後は使用人と一緒に働いているんだろう?」
「お手伝い、家族内でもするでしょ。」
分かっている、という目はなんなのだ。
「幼い弟妹や高齢の祖父母ならともかく、同年齢の家族の荷物を毎日持たされる理由は?」
「----話をする理由はない。」
「やはり、言えないだけか。」
「だから、そんなんじゃなくて!」
「叉始祇の町の者は見て見ぬふりかもしれぬが、おれには通用しない。告発しても、おまえが決して不利になることは、」
同級生の口から出てくる台詞とは到底思えないものだったが、唐突な話題であったからその違和感に気づいたのは随分とあとのことだ。
「だから、違うって言っている!」
「従う理由があるのなら話せ。」
「話す理由がないって言っているの!」
「わたくしが重い荷物を持つことを医師から止められているから、ですわ。」
稽古が終わって退館してきたところの紫子が割って入った。
「・・舞扇は難なく使いこなしていたようだが?」
「ええ。あの重さがせいぜいで、少し無理をするともう夜は眠れないくらいになります。でも、必ず通学カバンを持参する必要がありますから、必要最低限の鞄にして、かつ彼女の厚意で体面を保っているのです。」
「その理由は?」
「橘樹さまならお分かりでしょう? 瑕疵は価値を下げますもの。」
紫子は紗子に薄い鞄を渡しながら言った。
「納得していただけない感じでしたから、やむを得ず申し上げましたけど、いくら何でも僭越ではありません? …わたくしを辱めたとして、婚姻を申し込んでいただきたい、くらいに?」
「え!? 紫子さん、この人に嫁ぐの?」
彼女はまだ許婚を持たないが。
「そのくらいに、繊細な話という意味。わたくしたちはうまくやっておりますの。興味本位の口出しはおよしになって?」
紫子は顎を上げた。
「では使用人に付き添わせればいい。彼女は客分、被保護者であって付き人ではないのだから。」
「家族で助け合う、のはいけないのですか?」
「家族?」
衛心は鼻で笑った。
「食事を一緒に取らぬなかでか? 辛うじて、新年だけは同じ卓を囲むようだが、普段はお前たち家族が先に食べ、彼女は使用人とともに食べるのだろう?」
「・・問題ない、と思うけど。」
「ええ。それで大丈夫。」
責められていることに不安な色を揺らした紗子へ紫子は宥めるような視線を向け、それは綺麗な一礼をしたのだ。
「遠来の、貴き方。興味本位の憶測をどうぞ口になさいませんよう。物申されたいのであれば、どうぞ正式に父に。このような形では混乱するだけです。」
下げられた紫子の頭部から、その背後で困惑して視線を動かす紗子へ、彼は視線を滑らせ、
「・・・分かった。」
と、一言を残し、館の中へと去っていった。
話内の和歌は、「新古今和歌集」藤原俊成女 になります。




