2 花橘の
最終学年としては、本当は片付けを確認後、次回の進行と当日までの作業工程を話し合わなくてはならないのだが、柑埜も他のメンバーも冗談めかして、
「オヒメサマがこっちに戻されると大変だから、発破かけといて。」
と、チャイムより早く、紗子が抜けることを黙認さえしてくれた。
神楽の習練場として今回、特別に開放されたのは、校舎からかなり離れたところの建物だ。紫子が受け取った地図を見ても、まったくピンとこなかった。普段、生徒が行くのは、校庭を挟んだ部室棟までだ。その向こうの林は、告白スポットだとか呼び出しスポットだとか、噂はかくあれど、日常で向かう場所ではないし、林の中に道があるなんて知らなかった。
いつもなのか、今回の事があってなのかは分からないが、整備されている。チャイムと同時に紫子が出てきたらたいへん、とばかりに紗子はほとんど全力疾走である。これが、午前中のシャトルランよろしく、息も乱さず走りきることができた。
まるで、常に自分の中にどこからかパワーが注入されているようだ、と思う。
林を抜けると一気に視界は開けた。
練習場所というからには校地内なのだろうが、まず立派な門が紗子を迎えた。古風な板塀が林と敷地を隔てる。
門扉は開け放たれており、一見無作為風の、幾何学な敷石が続いている。
敷石の左右には、灯篭や庭木が配置されており、ひと際目につくのは、建物の左右に植えられた、桜と橘の木だ。特に橘は、右近の橘もかくやとばかりの見事な枝ぶりだ。祭りが行われる神社の神木にひけをとらないのではなかろうか。
橘をじっくりと見上げ、その向こうに建つ館に目を向ける。練習場所というから、何となく体育館のような建物をイメージしていたが、甍も立派な、歴史を感じさせる、大きな屋敷だった。学校の中におけるこの建物の役割はよく分からないが、きっと記念的な意味があるのだろう、と勝手に結論付けて、もう一度橘を振り向いた。
背負ってきたかばんは、玄関に続く階段の端に置いて、木に近づいた。瑞々しい葉も、しなやかな幹も、堂々とした枝も、目を惹きつけてやまない。丸みを帯びた蕾がかしこについていて、開花したらさぞ見事だろう。
建物の中からは微かに鳴り物の音が聞こえてくる。
部室棟の前を抜けた時、終了のチャイムが微かに届いていたから、習練は延長されているのだろう。何と言っても祭りの一番の華なのだから、熱が入るのは当然のことだ。
紗子は丸く調えられた、大きく嵩のある木の周りをぐるりと回った。どの角度から見てもよい枝ぶりの木だ。たくさんの蕾は、満開の花になって、たわわに黄金の実をつけることだろう。
不思議に慕わしい思いがする、と後ろ手を組んでいた手を解いて、紗子は両手を木の幹へと伸ばした。
神社の橘は、祭りの季には祭主と舞手しか触れないという不文律があるが、ここは神社ではない。けれど、何となく、ためらわれた。
でも、少しでも心を添わせたい思いが尽きなくて、ぎりぎりのところに手を添わせた。
ホトホトホト・・、と木の中から声が響いた。びく、と目を瞠った瞬間、木の葉を揺らして、灰色の体で胸元に細い縞模様が入った鳥が飛び出してきた。
ホトホトホトホト、と鳴きながら、紗子の周りを近く遠く、円を描くように飛んで、そしてまた木の中に飛び込んでいった。
鳥が飛び出した時、その勢いで千切れた葉が一枚、二枚、風にふわりと乗って、伸ばしたまま固まっていた紗子の指の先を、僅かにかすめる。
その緑を見つめて、----りーん、と耳に響いたのは高い、音。
耳鳴り? いや、鈴の音? ・・いいえ。
かちり、と鳴ったのは、錠前。そのイメージ。リーンリーン、と震える、幻視。鍵がまわる、のではなく、自壊する、・・ような。
「紗子!」
霧散した。
玄関ポーチで仁王立ちしている紫子を振り仰ぐ。
「なにをぼーっとしているのよ!」
紫子は顎をつん、と上げた。
「帰るわ。」
と、何百回と繰り返された言葉を受けて、紗子の視界は一気に現実になる。
トントン、と階段を下りてきた紫子から通学カバンを受け取る。厚い鞄なんてみっともない、と紫子の通学カバンは瀟洒なレースを重ねた生地で作られていて、小さなペンケースとルーズリーフだけが入っている。
「そちらは?」
稽古着を包んだ風呂敷包は抱えたままだ。
紫子はちら、と建物の二階窓の方へ目をやった。
「・・いいわ。大事な扮装を自分でお持ちにならないなんて、とか言われるのは癪。」
紗子は自分のカバンは背負って、さっさと門に向かっていく紫子を追いかけた。
「他の人は?」
屋敷からはまだ音楽が続いている。
「自主練するらしいわ。」
「稽古は順調だった?」
「みんな下手よ。」
みんなは、全員なのか、当人以外なのか判然としなかったから、当たり障りなく返した。
「紫子さんが一番うまい?」
「ええ、もちろん。」
胸を張った彼女は、でも、と唇を尖らせた。
「《町並保存協会》が連れてきた講師が最悪。偉そうで。澄ましてて。」
「・・いつもは、学校の先生じゃなかった?」
「大祭だから。振りも、少し・・かなり違ってて。」
「そうなんだ。大祭ってやっぱり大事なのかな。」
「とびっきりの晴れの場で、わたくしこそが一番の舞手に相応よ!」
紫子は背筋を伸ばした。
「うん、頑張って。」
紗子は、紫子の負けん気を理解していて、彼女が口にするからには、必ずそうなるだろうと純粋に思った。
「わたくしが選ばれるよう、紗子も協力してもらうから!」
とは、いったい何事かというと。
「お嬢さまがピアノのお部屋にって。」
紫子の家族(平日は紫子ひとりのこともある)への夕食の提供が終わった後、台所の脇の小部屋で、使用人たちと一緒に食事を取る。家族メニューより皿数は減るが、同じに作られて取り分けられた賄だから、とてもおいしい。朝食もメニューに関しては同様で、ただしこちらは登校時間の関係で一人で取る。昼は弁当だが、その時の気分で、紫子がメインを肉か魚か選べるように二つ準備されて、選ばれなかった方が紗子のものになる。
----とはいえ。紗子は時々夕食のその席につけない。
食事が終わった 紫子から呼び出されるからだ。
紗子は居候だが、使用人ではないから厨房仕事を手伝う義務はないが、片付かないと食事を取れないから、テスト前でもなければ、自室から早めに降りてきて、明日の下ごしらえを手伝ったり、鍋を洗ったり、食器を準備したりしていることが多い。そこへ、主一家の配膳をしていた女性が、紫子からの伝言を持ってきた。
「分かりました。」
拒否権はない。
「ちょっとピリピリしておいでだから、軽くつまんでからいきなさいな。」
と、シューマイやお浸しの小鉢を出してくれた。
「ご飯はおにぎりにして、お汁はスープジャーに入れて置いておくから、終わったら取りに来て。」
「ありがとうございます。」
ささ、と口に入れた紗子は、厨房を出ていった。
「まあ、気の毒さね?」
紗子の境遇について、使用人の口の端に上るのは定期的なことで、特に今は新年度だ。新顔の使用人もいる。
「事故で両親を亡くしたんですよね?」
「ええ。若い人はあまり覚えていないかも知れないけれど、以前に----ああ、もう十年になるなんて、時間は早いわ----大きな爆発事故が起きたのよ。」
「知ってます。あまりに被害が甚大で、災害級の火災だったと、うちの両親が話してくれました。」
「空が真っ暗になって、吃驚したものだよ。」
「現場である町の南側は今でも立ち入り禁止ですね。」
他人事の口調なのは、道路が断たれているからだ。惨状については偶然にも目にすることはない。
「火事の時に人体に有害な物質が飛散して、危険だからとかで。」
「幸いに当日は避難がうまくいって、死傷者は燃えた面積に比べたら奇跡のように少なかったのは幸いだけれど、ゼロではなくて、紗子さんのご両親もその犠牲者というわけ。紗子さん自身も、お小さかったし気を失っていたらしいから、よく覚えていないのはまあ、幸いかな?」
本来ならば養護施設に収容されるところを、この家に引き取られることになったのは、
「奥様がお友達だから、でしたっけ?」
「いえ、だんなさまのお仕事仲間じゃなかったかしら、」
もしくはそのどちらもで。もう、十年も経つから、古参の記憶も曖昧だ。
「お嬢様のお話相手にもなるだろうと。」
食事を終えた古株の職員は席を立つ。片付けは若手の仕事だ。流し場に立ちながら、先の話について、彼らなりの感想を口にする。
「お話相手って、イイ言葉だよね。」
古参の者はさも美談のように言ったけれど。
「そうだよね、自分の時間はお嬢さま次第って。」
成人で、自分で決めた仕事内容ならばともかく。
使用人でもないが家族扱いでもない。
親を亡くした----しかも、災害と認定される事故だ----子供には公庫から、適切な学費と生活費が支給されているはずだ。夫妻が補填しているところはあるかもしれないが、曖昧な立場で、恩を着せられているように感じられる。しかも、察するに未就学児の頃から。
普通の子どもの暮らしをしていない、ことに、
「不自由に気が付いていない・・のが、救いでもあり、」
哀れだ。しかし、彼らも野次馬的な立場でしかない。
最後は重くなった口から、細い吐息を吐いて、紗子のためのおにぎりにラップをかけると、彼らは厨房の灯りを絞って、今日の業務を終えたのだ。
「見ていなさい、」
と、紫子は言った。ピアノ練習室、防音になっている部屋だ。
「それで、不格好だと思ったら言うのよ?」
「分かった。でも、」
伴奏のための鈴を渡された紗子は首を傾げた。
「わたし、見ていいの?」
基本の舞は、全員が習得すべきものだ。しかし、祭りの舞はその先にあって、選ばれた舞手だけのものだ。
年ごとに異なる、捧げられる神聖なもの、として直伝されるものをこう軽々と、その時でもないのに触れていいのだろうか。
「----紗子は舞手に選ばれなかった。」
「うん。」
「来年は私たちの世代に権利はない。」
「うん。」
「つまり、知っても問題はないわ!」
言い切られて、紗子は僅かに首を傾けたが、引かないだろうと察して、受け取った鈴を鳴らして、
「このくらいのテンポ?」
ちゃんと聞けば、ピアノで再現もできるが、漏れ聞いたくらいでは拍子をとるのがせいぜいだ。
「ありがとう。紗子がいてくれて心強いわ。舞の習練場にも付き添いが認められたせいいのに。」
例年、行列組に一緒に参加して、彼女の希望がうまく通るように調えるのが紗子の役割だった。
紫子はずっと立派な(重い)提灯を携えるから、介添えが必要で、結果黒子のように付き従うことになるのを、柑埜らは紫子の横暴と憤る。
強い光があるほど、その影に入って、人目につかずにいられることに、紗子が安堵してきたことに誰も納得してくれない。
「----紫子さん、左の手首を返した時の角度がよくない気がします。」
不特定多数の中にいることが、何といえばいいのか、----苦手だ。
「そう? これでは?」
紫子は数拍戻って、やり直す。
「はい。」
今年はどうしよう、と思っている。ドクターストップでもかからない限り、祭りへの参加は町民の義務だ。特に、最高学年は行列の先頭で・・。
いつの間にか、鈴が止まっていた。名を呼ばれて、はっとする。咎められることはなかった。紫子はじっと紗子を見て、
「もう少しテンポを上げて?」
とだけ言った。
紫子もその両親もこの家の家人たちも柑埜も級友も下級生も先生も、目が合っても恐ろしくは思わない。見られることではない、目につくこと----見つけられること・・・、?
「----わたくし、ちょっと思いついたことがあるのよ?」
小一時間の練習の後で、紫子が目を輝かせて言い出した。
「わたくしは大舞の舞手になるでしょ?」
自信に溢れている。言い切った。
「今年は大祭というプレミアがかかったとしても、舞手自体は毎年出るもので、今年の舞手ってだけではわたくしには役不足ではない?」
「・・はい?」
「舞を終えたら、続けて行列の先頭を歩くのよ。勿論、舞の装束からは着替えて、とびっきりの衣装と今まで一番の提灯を下げて。二つの御役目を果たすわたくしを皆は目に焼き付けて、わたくしは語り継がれるでしょう!」
「・・いや、紫子さん、さすがに難しいんじゃ、」
大舞の終了とともに、火鉦行列は出発するのが、定例のスケジュールだ。
「一人一役をする、とは言うけれど、一人二役してはいけないというきまりはないわ。ええ、お父様にお願いするわ! 娘の晴れ舞台が増えて嬉しくない親はいないでしょ? 」
橘浦の当主は、三人官人と呼ばれる、お社の名誉職についているが。
「そうと決まれば、早急に行列用の衣装を注文しなくては。舞の装束は支給品だから、つまらないったらなかったけれど。ああ、楽しみができたわ。」
父親に電話するのだろう。端末を手に取った紫子は、紗子に退出するようにドアを示した。
「おまえはまだ衣装を用意していないわよね?」
「・・うん、」
紫子もいないし制服(と支給の法被)で済まそうと思っていた。
昨年は、紫子が善い魔女の扮装でレースと宝石の華やかなティアラをつけ、紗子は悪い魔女の黒いローブとつばの大きな尖った帽子姿で参加した。紫子の提灯は馬車のかたちで、一抱えもあったから、杖型の小さな提灯だった紗子が支える形となった。
「一緒にあつらえるわ! 楽しみにしていなさい。」
とりあえず、明日の提灯組が大嵐に放り込まれることは確定した。




