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05.縫い止められた(娘)


「この子、飼い猫が死んでから気がくるってしまってね、病院に閉じ込められたりもしてたのよ」


母は、さもおかしそうに笑いながら、客人にそう私を紹介した。

客人は、どう答えていいのかわからない、そう言いたげな表情で、曖昧に頷いただけだった。



◇◇◇◇


私の実家は、土地の時間に縫い留められていた。

舗装の割れ目から草が生え、雨戸のレールは歪んできちんと閉まらずにいる、誰に急かされるでもなく、ただ「在り続けている」建物であった。


そういう家の中に母はいた。

この家の歴史、土地の縁、血縁の序列、それらが絡まり合った結節点として。

娘である私は、その周縁を回る付属物のような位置に置かれていたのだと思う。


過疎という言葉は、外から貼られた説明にすぎない。

内部にいる者にとっては、減っていくのは人ではなく、選択肢である。

道、仕事、逃げ場、そして沈黙を破る理由。そのすべてが、少しずつ、しかし確実に失われていく。


私は無意識にショルダーバッグの内ポケットに指を入れ、アパートの鍵があるのを確かめた。

ついでに、帰りにバスと列車の時間も頭の中で反復する。

それだけで、少し呼吸が戻った。


ふと、大学生の頃からずっと送られてくる母からの荷物を思い出していた。

箱の中には、母の「正解」が詰まっている。

部屋の隅には「母の善意」の山が積まれ、増えていっている。



ある日、親類とも近所とも判別のつかぬ人物が訪れた。

それは、盆や正月に顔を合わせる人たちとは、また違う人だった。

目の前の客人も、季節の折々に見かける親戚の人たちと同様に、穏やかな言葉遣いと話し方をし、声を荒げることも、誰かを嘲るような物言いをすることもなさそうだった。


茶を出し、天気と作物と誰それの病の話を一巡させた後、母は不意に、私の方を見ずに言った。


「この子、私の末娘なんですけれどもね。精神が細すぎるのよ。

飼い猫が死んでから気がくるってしまってね、病院に閉じ込められたりもしてたのよ」


母は、さもおかしそうに笑いながら、隣の客人にそう私を紹介した。


紹介というより、余談のような調子だった。

それは軽く、冗談めいていて、場の潤滑油としては過不足のない音であった。

しかし、その言葉は刃となり、私の内側にまで届く。

それは鋭利な痛みというよりは、冷たい氷水を背筋に流し込まれたような、決定的な「拒絶」の感触だった。


私は、その場で否定もしなかったし、訂正もしなかった。

障子のさんにたまった薄い埃が、なぜか目についた。

事実かどうかを考える前に、その言葉が、私の外側…皮膚ではなく、もっと薄い何かがひやりとした。



昔から、そうだった。

本を読むようになった頃も、母のいう事には私は頷いただけだった。

注意ではなかったから、直す理由がなかった。



猫が死んだのは、もう何年も前のことだ。

その日のことは、よく覚えている。

体温が抜けていく感触と、自分の呼吸の音だけがやけに鮮明だった。

そして、確かに私は泣き続け、一時期、外界との交信を断った。


けれど「くるった」や「閉じ込められた」という事実などどこにもない。

それは母の頭の中で、私を自分の支配下に繋ぎ止めるために捏造された、便利な物語の一つに過ぎなかった。


母はそういった説明は一切しなかった。

ただ笑い話として消費できる形に整えられていた。

声の調子、語尾の伸ばし方、「閉じ込められたりもしてた」という、責任の所在を曖昧にする助詞の選び方。そのすべてが、私という人間 を一つの逸話に変換するための、周到な手つきであった。


私は私自身の言葉で語る権利を失った。

母の口を通じて、笑い話として処理された。


相手の人は、困ったように視線を外し、相槌も短く、早々に話題を変えた。

母は満足そうだった。場が和んだ、とでも言いたげに。


けれども、私の内側にあった何かが、音もなく、しかし決定的に剥がれ落ちていった。

母の背後に広がる、何十年と変わらぬ旧家の重苦しい鴨居や、煤けた仏壇の匂いが、急激に私を押しつぶそうとしてくる。

呼吸ができなくなるのを感じた。

座っている畳がひんやりと感じた。障子越しに、外は陽が注いであたたかそうに見えた。


母に愛されていなかったわけではない。


世間一般の物差しを当てれば、私は間違いなく「大事に育てられた娘」だろう。


それでもこの家に戻ると、幼い頃から何度も聞いてきた冷たい言葉を、私はなぜか先に思い出してしまう。

母は何も言っていないのに。

ここでは、今もそれが正しいのだという気さえする。


教育を疎かにされたこともなく、理不尽な暴力に怯えた記憶もない。

気まぐれに送られてくる服や、体調を気遣うぶっきらぼうな言葉。

それらはすべて、母なりの愛だったのだと思う。


母は不器用で、正しい距離の測り方を知らなかっただけだ。

大事にされていなかったわけでもない。

そこまで理解している自分が、確かにいる。


けれど理解と納得は、いつも同じ速度では歩いてくれない。


何が足りなかったのかを言葉にしようとすれば、輪郭はたちまちぼやけてしまう。

それでも、確かに空白はあった。

心は理屈で畳めない。


別の角度から見れば、私はただの我儘な人間なのだろう。

「贅沢な悩みだ」と切り捨てられ、大人になりきれず駄々をこねているだけだと、そう思われることも分かっている。

鏡の中の自分さえ、そんな私を冷ややかに蔑んでいるのだから。


だからこそ、この胸の奥に溜まった泥のような重たさを、私は誰にも差し出すことができない。


ふと、よくない考えがよぎる。

母が欲しかったのは、血の通った私ではなく、

自分の理想を体現する「お人形」だったのではないか。


思えば、私は母に褒められた記憶がない。


テストの点数は「当然の義務」として処理され、私の意志で選んだ道は、母の美意識に沿わない限り静かな沈黙によって否定された。


見返してやらねばなんね…そう言われ続けたが、誰を相手に、何をもって、という部分だけが、いつも抜け落ちている。


私は、母に反対された記憶よりも、 私の考えそのものが話題に上った記憶のなさを思い出していた。

進路も、価値観も、迷いも。

それらは是非を問われる以前に、最初からまな板に載っていなかった。


母にとって重要だったのは、 私が何を思うかではなく、 私が「どう見えるか」だった……。



だから、今、私は理解した。

この家では、私は生きている者ではない。家を正当化するための材料なのだと。


この家は、私がいる場所ではない。

母もまた、私の内側を見ようとはしない。


その理解は、怒りでも悲しみでもなく、降り積もる雪のごとき静けさと、水に浸された布が沈むような重さを伴っていた。


そうして、ひとつの判断が静かに降りてきた。


ここに属するのを、やめよう。

母の言葉と、この家の時間から。


それは、荷物をまとめ、反論の言葉をあげるような大げさな決別ではなく、ただ重力の向きが変わったという感覚に近かった。


私は、独りになる。

しかしそれは、誰かに定義され、笑いに変換される独りではない。

私自身の重さを伴い、選び取ったものだ。



客人が帰った後、湯飲みを洗う水が少し冷たかった。



◇◇◇◇


母は今も、その家にいる。

家も、変わらずそこに在るだろう。

まるで世の中の時間から置いていかれているかのごとく。

この家が時間を支配しているかのごとくに。


家を離れてから、ようやく分かったことだが。

あの家では、人は住むのではなく、属する。

生まれた者は名簿に書き込まれ、家の履歴の一部として保存される。

進学も就職も結婚も、個人の移動ではなく、家の延長線上の出来事として処理されてきた。



母はよく言った。

「ここはね、逃げ場がないからいいのよ」


その言葉の主語が誰であるのか、私は長く考えなかった。

だが今ならわかる。

それは土地の話ではない。人間の話だった。


私が家を離れようとすると、母は理由を尋ねなかった。

代わりに、過去を持ち出した。祖父の名、曽祖父の話、戦後に家を守った女たちの逸話。

どれも、ここに留まった者の記録ばかりで、去った者については、まるで最初から存在しなかったかのように語られない。


家は記憶を選別する。

残る者を正しく、去る者を無効にする。

その選別作業を、母は誠実に遂行していた。


今も、母は私を呼び戻そうとする。

季節の便り。

誰それが亡くなった話。

家の修繕の相談。

どれも直接的な命令ではない。だが、それらはすべて、「あなたはまだここに属している」という確認作業である。


私は応じない。

拒絶もしない。ただ、家の論理に自分を接続しない。

それだけだ。


土地は動かない。

家も動かない。

だが私は、そこに縫い止められる必要はない。


孤独は、相変わらず私のそばにある。

けれどそれは、奪われたものではない。

家と母と土地のすべてから距離を取った結果として、静かに残った空白である。


私はその空白を、自分の居場所として選び取っている。




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