第四話 キーを抜かない錠
背もたれの温かさが、少しずつ引いていった。
圭吾は、ゆっくりと振り返った。
早瀬さんが、そこにいた。灰色の作業着に、紺のジャンパー。さっき廊下で見たのと同じ格好で、椅子から一メートルほど離れたところに立っている。右手に、小さな真鍮の鍵をつまんでいた。
上の錠に刺さっていたのと、同じ形の鍵。
「驚かせて、すみませんね」
早瀬さんは、穏やかに言った。
「でも、あなたが開けたんじゃありませんよ。あなたは、刺さっていた鍵を回しただけです。開けるかどうかを決めたのは、あなたですけどね」
圭吾は、何も言えなかった。喉が、乾ききっていた。
早瀬さんは、圭吾の脇を通り過ぎて、モニターの前に立った。画面には、止めたままの映像が残っている。誰も座っていない椅子。
「見ましたか」
「……はい」
「聞こえましたか」
「声が。何人か」
早瀬さんは、小さく頷いた。それから、モニターの横に置いてあったパイプ椅子を引き寄せて、ゆっくりと腰を下ろした。膝に手をついて、長い息を吐く。年相応の、疲れた老人の座り方だった。
「座りませんか。長い話になります」
圭吾は、あの木の椅子を見た。
「そっちじゃありませんよ」
早瀬さんは、少しだけ笑った。
「そっちは、誰も座らない椅子ですから」
圭吾は、壁際に倒れていた古い椅子を一つ起こして、早瀬さんの向かいに座った。
◇
ここは、陸軍の通信所だった、と早瀬さんは言った。
表向きは、そういうことになっていた。大崎は工場の町で、軍需工場がいくつもあった。その地下に通信所を掘るのは、不自然なことではなかった。
「でも、本当は違ったんです」
早瀬さんは、サーバーラックの向こう、薄暗い奥の鉄扉のほうへ目をやった。
「工事の途中で、あの扉が見つかった。古い下水の連絡口でした。その先を少し掘り進めたところで、壁が崩れた。崩れた先に、穴が開いていたんです」
「穴」
「洞窟ですよ。とても大きな」
早瀬さんは、両手をゆっくりと広げてみせた。
「地下の水が、何千年もかけて削った空洞だそうです。奥へ行くほど枝分かれしていて、どこまで続いているのか、誰にも分からなかった。東京の真下に、そんなものがあるなんて、誰も知らなかった」
当時の軍は、それを研究しようとした。
古い言い伝えがあった。この国には昔から、人ではないものが棲む場所がある。地の底の、光の届かないところに。そこに棲むものを従えることができれば、兵になる。死なない兵に。疲れない兵に。戦況が悪くなるほど、そういう話を本気にする人が、上のほうに増えていった。
「それで、人を送ったんです。洞窟の奥へ。調べに」
早瀬さんの声は、少しも揺れなかった。
「最初の何人かは、半日で戻ってきました。報告は、いつも同じだった。何もいない。何も見えない。ただ暗くて、広いだけだ、と。それで、もっと奥まで、もっと長く、と命令が変わっていった」
「……戻ってこなかった」
「ええ」
早瀬さんは、膝の上で指を組んだ。
「何もいない、と言って入っていった人たちが、誰も戻ってこなかった。迷ったのか、落ちたのか。それとも、何かがいたのか。人の目に映らないだけで、いるのかもしれない。いないのかもしれない。ただ、戻ってこなかった」
サーバーの唸りが、空間を満たしていた。
「そのうち、この受信機が、声を拾い始めた」
早瀬さんは、左側の机の列の、いちばん奥の大きな一台を指さした。黒いケーブルが、その背中から延びている。
「調査に入る人たちには、小さな無線機を持たせていたんです。それが、壊れたのか、電池が切れたのか、ある時から何も言わなくなった。それなのに、この受信機は、拾い続けた。向こうへ行った人たちの声を。毎晩、少しずつ。母親を呼ぶ声。謝る声。帰りたいという声」
カ……エ……レ……ナ……
さっき聞いた声が、耳の奥で、もう一度鳴った気がした。
◇
「私の父は、ここの通信兵でした」
早瀬さんは、言った。
「十九でした。毎晩、ヘッドホンをつけて、あの受信機の前に座っていた。拾った声を、書き取るのが仕事だった。上の人たちは、奥の様子を知りたがっていたけれど、声はそんなことは話さない。家族の名前を呼ぶだけです」
八月の、ある日。
ラジオで、天皇陛下の声が流れた日の夜だった。上官たちは、書類を燃やすのに忙しかった。研究は、なかったことになる。記録は全部、消される。扉は、埋められることになった。
その夜、父は、一人で受信機の前に座っていた。
「ある声を、拾ったそうです」
早瀬さんは、そこで一度、言葉を切った。
「若い声ではありませんでした。四十くらいの、男の声。その人は、娘の名前を呼んでいました。何度も、何度も。それから、言ったんです」
早瀬さんの唇が、わずかに震えた。
「ちゃんと食べろよ、と」
圭吾は、黙っていた。
「父は、その声の主を知っていました。洞窟の奥へ送られた中で、いちばん年上だった人です。出かける前の晩に、娘の写真を見せてくれた、と。父は戦後、その人の娘さんを探しました。半年かかったそうです。見つけ出して、声のことを伝えた」
「……その、娘さんが」
「私の母です」
早瀬さんは、静かに言った。
「節子と言いました」
◇
だからこの家は、扉を埋めなかった。
父は、終戦の混乱の中で、軍の人間がいなくなった土地を、どうにか手に入れた。軍が扉に溶接していった鉄骨を、一本ずつ焼き切った。扉の上に、竪穴を残して、蓋をして、その上に家を建てた。家が古くなって、アパートに建て替えるときも、倉庫の床に、蓋を残した。
「待っていたんです。母の父が、帰ってくるのを」
早瀬さんは、鉄扉のほうを見た。
「何もいない、と言って入っていった人です。何もいない場所から、帰ってくるかもしれない。そう思って、毎晩、ここで声を記録した。父が死んでからは、母と私が。母が死んでからは、私が」
「五十年」
「もう少し長いですね」
早瀬さんは、少しだけ笑った。
「あの椅子は、向こうから何かが渡ってきたときのためのものです。父の代からの、言い伝えのようなものですけどね。こちらへ来るものは、まずあの椅子に座る。だから毎晩カメラを回して、確かめる。誰も、座っていないことを」
「中には何にもない」
圭吾は、思わず言っていた。
「ええ」
早瀬さんは頷いた。
「あれは、私の毎晩の報告です。今夜も、何にもない。誰も、座っていない。誰も、帰ってきていない」
異常なし、という意味だった。
そして同時に、今夜も帰ってこなかった、という意味でもあった。
「鍵を抜かないのは」
圭吾は聞いた。もう、聞かずにはいられなかった。
「祖父のためです」
早瀬さんは、手の中の真鍮の鍵を見下ろした。
「もし、帰ってこられたとき。こちら側から閉ざされていたら、あんまりでしょう。錠は掛けます。何が来るか分からないから。でも、鍵は抜かない。いつでも、開けられるように。下の扉も、上の扉も」
開けられないようにしてあるのに、誰でも開けられるようにしてある。
三年間、合わなかった数字が、ようやく合った。
◇
「最近、聞こえないんです」
早瀬さんは、自分の右の耳に触れた。
「年ですね。高い音から、だんだん抜けていく。受信機の声は、ただでさえ遠い。もう、雑音と区別がつかない。この何年か、祖父の声を、私は一度も拾えていない。拾えていないだけなのか、もう、声がしないのか。それも、分からない」
早瀬さんは、圭吾を見た。
「あなたは、あの錠を三年間、毎朝見ていましたね」
「……知ってたんですか」
「抜き忘れだろう、って、口が動いてましたよ」
圭吾は、何も返せなかった。
「気にする人は、めったにいないんです。みんな、言われてみれば変かもね、で終わる。開けちゃいけない気がする、で終わる。それでいい。そういうふうに、できてるんです、あの錠は。でもね、あなたみたいに、ずっと気にし続ける人が、たまにいる」
早瀬さんは、膝に手をついて、立ち上がった。モニターの横の棚から、古いヘッドホンを一つ取り出した。黒い革の耳当てが、ひび割れている。
「私には、跡継ぎがいません。この先、誰かが、ここを」
「継げません」
圭吾は、早瀬さんが言い終える前に言った。
自分でも、はっきりした声だった。
「僕は、ここには住めない。毎晩、ここに下りることもできない。そういう人間じゃないんです」
早瀬さんは、黙って圭吾を見ていた。
「僕は、聞くだけです」
圭吾は、早瀬さんの手の中のヘッドホンを見た。
「聞いて、それを、あなたに返すことならできます。一度だけなら」
早瀬さんの目が、少しだけ細くなった。
それから、ヘッドホンを、圭吾の手に載せた。
◇
受信機の前の椅子に、圭吾は座った。
八十年前、十九歳の通信兵が座っていた椅子だった。座面が、少しだけ窪んでいた。
ヘッドホンをつける。早瀬さんが、受信機の古いつまみを、ゆっくりと回した。
雑音が、耳の中に流れ込んできた。
ざあ、という砂嵐。波のように膨らみ、しぼむ。その底で、いくつもの声が寄り集まり、ほどけていく。母を呼ぶ声。誰かに謝る声。どれも遠く、どれも若い。
圭吾は、目を閉じた。
聞こうとはしなかった。ただ、耳を開いておいた。定食屋のカウンターの端で、誰かが何を頼み、何を残し、どんな顔で箸を置くのかを、ただ見ているときと同じように。
どれくらい、そうしていたか分からない。
雑音の波が、ふっと、引いた。
その引き際に、声が一つ、残った。
若くなかった。低く、少しかすれていた。急いでもいなかった。夕飯の前に、台所にいる娘に向かって、居間から話しかけるような声だった。
……節子。
圭吾は、息を止めた。
……節子。
……ちゃんと、食べろよ。
それだけだった。
声は、また雑音の波に呑まれて、ほどけて、聞こえなくなった。
圭吾は、ヘッドホンを外した。
早瀬さんが、すぐそばに立っていた。何も聞かなかった。ただ、圭吾の顔を見ていた。
圭吾は、聞いたままを、伝えた。
「節子、と二回。それから、ちゃんと、食べろよ、と」
早瀬さんは、長いあいだ、動かなかった。
それから、ゆっくりと、深く、頭を下げた。
顔を上げたとき、皺の深い頬が、濡れていた。
「母の名前です」
それだけ言って、早瀬さんは、もう一度、頭を下げた。
奥の鉄扉の錠は、揺れなかった。
◇
階段を上ったのは、明け方の五時過ぎだった。
ばらばらの段を一つずつ確かめて、踊り場で揃った段に変わり、竪穴の天井の下をくぐって、倉庫の床の四角い穴から顔を出す。蓋は、早瀬さんが下から閉めると言った。
扉は、開いていた。
外の掛け金に、南京錠がぶら下がっていた。口を開けたまま。鍵は、刺さったまま。
圭吾は、廊下に出た。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってきた。一月の、夜明け前の空気だった。地下の湿った温かさが、体からすっと剝がれていく。蛍光灯は、相変わらず一本だけがちらついていた。
廊下には、誰もいなかった。アパートは、まだ眠っていた。どこかの部屋で、目覚まし時計が一度だけ鳴って、すぐに止まった。
圭吾は、自分の部屋の前に立った。鍵を取り出す。それから、もう一度だけ、廊下の奥を振り返った。
倉庫の扉は、閉まっていた。
掛け金に、南京錠が掛かっていた。早瀬さんが、上がってきて閉めたのだろう。いつの間に、とは思わなかった。
鍵は、刺さったままだった。
真鍮の頭が、夜明けの薄い光を、鈍く跳ね返していた。
圭吾は、何も呟かなかった。
抜き忘れではないことを、もう知っていた。
あの鍵は、今日も、誰かが帰ってくるのを待っている。
圭吾は自分の部屋の鍵を開けて、中に入った。少しだけ眠ってから、いつもの時間に、会社へ行こうと思った。昼には、定食屋のカウンターの端に座ろう。日替わりが何かは、まだ分からない。
それで、いい。




