エピローグ 夜へ出ていく人
あの夜から、一週間が経った。
朝の六時四十分、北条圭吾は鍵を閉める。
鍵が回る音を確かめてから、廊下の奥に目をやる。習慣は、変わらなかった。突き当たりの扉の掛け金に、南京錠がぶら下がっている。鍵は、刺さったまま。風が抜けると、錠前と掛け金が触れ合って、かすかに、ち、と鳴る。
圭吾は、何も呟かずに駅へ向かう。
変わったのは、それだけだった。
会社では、相変わらず合わない数字を探している。在庫が二つ足りない。出荷記録の日付が一日ずれている。理由は、たいてい拍子抜けするほどつまらない。入力した人が、月曜と火曜を取り違えていた。それで、片づく。
合わない数字には、必ず理由がある。
それは今も、そう思っている。ただ、理由が分かったからといって、片づくとは限らないことも、今は知っている。あの錠前の理由は分かった。分かったうえで、あの鍵は、これからもずっと刺さったままなのだ。
◇
昼は、会社の裏の定食屋に行く。
カウンターのいちばん端に座って、日替わり定食を頼む。その日は、豚の生姜焼きだった。
店の奥の四人席から、笑い声がした。見ると、いつもの二人組だった。先輩らしい女性が、顔に全部出る人らしく、部長の話か何かで大げさに眉をしかめている。その向かいで、若い女性が笑っていた。
彼女の前には、レバニラ定食があった。
圭吾は、視線を自分の皿に戻した。
声はかけなかった。かける理由もなかった。あの年の瀬の昼に交わした言葉は、あれで十分だった。彼女は好きなものを好きなまま食べていて、自分はそれを、カウンターの端から見ている。それで、いい。
生姜焼きは、少しだけ生姜が強かった。
◇
週末の土曜日、朝のゴミ出しのときに、早瀬さんに会った。
アパートの前の道を、竹ぼうきで掃いていた。月に一度の、いつもの掃除だ。灰色の作業着に、紺のジャンパー。背筋は、まっすぐだった。
圭吾が会釈すると、早瀬さんも、ほうきを止めて会釈を返した。
それだけだった。
あの夜のことは、どちらも口にしなかった。早瀬さんは、ほうきの先で落ち葉を一か所に寄せ集め、圭吾はゴミ袋を集積所に置いて、部屋に戻った。
戻りがけに、廊下の奥をちらりと見た。
錠前は、いつもと同じ角度でぶら下がっていた。今夜も、早瀬さんは下りていくのだろう。ヘッドホンでは、もう祖父の声は拾えない。それでもカメラを回して、誰も座っていない椅子を、確かめる。
中には、何にもない。
その報告を、毎晩、誰に向けてしているのか。圭吾は、聞かなかった。
◇
その日の夕方、圭吾が駅前の本屋から帰ってきたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
一月の日は短い。空はもう、群青の底に沈みかけていた。目黒川沿いの道に街灯が点り、川面に細長い光の筋をいくつも落としている。
アパートの角を曲がったところで、一階のいちばん奥の手前の扉が開いた。
女性が一人、出てきた。
褐色の肌に、長い黒髪。髪は、今は丁寧に巻かれて、肩の上でゆるく揺れている。目元には、昼の光では見ない色が乗っていた。厚手のベージュのコートの前を、片手で押さえている。その隙間から、細かい光の粒を縫い込んだような、深い紫の生地が覗いていた。足元は、細いヒール。
郵便受けには、名前が一つだけ書いてあった。サリ。
サリさんは、鍵を閉めると、小さく息を吐いた。それから顔を上げて、圭吾に気づいた。
それから、彼女は微笑んで、会釈をした。
「こんばんは」
丁寧な、少しだけ語尾の柔らかい日本語だった。
「こんばんは」
圭吾も、会釈を返した。
サリさんは、ヒールの音を小さく鳴らしながら、アパートの前の道を歩いていった。目黒川を渡る橋の手前で、一度だけ、コートの襟を立て直す。その先には、五反田の方角の、夜の明かりが滲んでいた。赤や、白や、青の光が、低い雲の腹を、ぼんやりと照らしている。
彼女の背中は、その光のほうへ、まっすぐに遠ざかっていった。
◇
圭吾は、自分の部屋の前に立った。
鍵を取り出す。それから、いつものように、廊下の奥を見た。
蛍光灯が一本、ちらついていた。その下で、南京錠がぶら下がっている。鍵は、刺さったまま。真鍮の頭が、ちらつく光を、鈍く跳ね返していた。
今夜も、誰かが帰ってくるのを待っている。
そして今夜も、誰かが、夜の街へ出ていった。
圭吾は鍵を開けて、部屋に入った。扉を閉める直前、川のほうから、冷たい風が一度だけ廊下を抜けていった。
錠前と掛け金が触れ合って、かすかに、ち、と鳴った。
(了)




