第三話 誰も座っていない
上に戻ろう、とは思わなかった。
戻ったところで、扉の外には錠が掛かっている。内側から掛け金に手は届かない。叫べば、隣の部屋の誰かが気づくかもしれない。でも、誰がこの時間にこの扉を開けてくれるだろう。三年間、刺さったままの鍵を、一度も回さなかった人たちが。
圭吾は、手すりを握り直した。錆びた鉄パイプは、ざらりと手のひらに食い込んだ。
階段は、まっすぐ下っていた。数えながら下りる。数えずにはいられなかった。六段、七段、八段。段の高さはどれも同じで、踏み面の幅も揃っている。どこかの工務店が、図面どおりに打った階段だ。
十段を過ぎたところで、頭上の天井が変わった。
倉庫の床下を抜けて、階段は奥の壁の下へ潜り込んでいく。見上げると、低い天井に、何本もの電線が束になって走っていた。新しい被覆の太いケーブルが、結束バンドで古い金具に留められている。
共用部のメーターは、たぶんここに繋がっている。
図面にない一メートルの正体は、この天井だった。地上から見れば、ただの壁の裏の隙間。でもその下には、地面の底へ続く竪穴が口を開けていた。
十六段目で、踊り場に出た。
コンクリートの、畳二枚ほどの平らな床。そこで階段は、向きを百八十度変えて、さらに下へ続いていた。
圭吾は、折り返しの一段目に足を下ろした。
そして、止まった。
低い。
さっきまでの段より、明らかに低い。足の裏が、予想した位置よりも先に、次の段を探して宙を泳いだ。手すりにしがみついて、体を支える。
ライトを向けた。
踊り場から下の階段は、まるで別のものだった。コンクリートの色が違う。上の段は灰色で、表面が滑らかだった。下の段は黄ばんで、ざらざらしていて、ところどころに砂利が浮き出している。段の高さも、ばらばらだった。十五センチの段の次に、二十二センチの段がある。その次は、十八センチ。
図面どおりに打たれたものではない。急いで、誰かが手で打った階段だ。
壁にライトを這わせると、木枠の跡が、横縞の模様になって残っていた。型枠に使った板の木目が、コンクリートにそのまま写っている。
その木目の上に、文字が刻まれていた。
釘か何かで、固まる前のコンクリートを引っかいたのだろう。かすれて、半分は読めない。それでも、いくつかの字は分かった。
「火氣嚴禁」。
旧字体だった。気ではなく、氣。厳ではなく、嚴。
その下に、もう一行。
「第■通信所」。
数字の部分だけが、削り取られたように潰れていた。
ここから、時代が変わった。
圭吾は、足の裏でそれを理解した。上の段は、アパートと一緒に作られたものだ。下の段は、それよりずっと古い。アパートのほうが、後から、この古い竪穴の真上に建てられた。わざわざ倉庫を置いて、床に蓋をつけて、入口を残す形で。
何十年も前に、誰かがここを塞がないと決めたのだ。
圭吾は、ばらばらの段を、一段ずつ確かめながら下りていった。
◇
階段の終わりは、唐突だった。
最後の段を下りると、足の下に、広い平らな床があった。ライトを前に向けても、光が向こうの壁まで届かない。
空気が、違った。
階段の途中よりも、ずっと温かい。そして、あの唸りが、もう遠くではなかった。すぐそこで、空間全体を低く満たすように鳴っている。
壁を探ると、手の届くところに、レバー式のスイッチがあった。古い、黒いベークライトの取っ手。押し上げると、重い手応えのあとで、天井の蛍光灯が、端から順番に点いていった。
ぱちん、ぱちん、ぱちん、と。
光が、奥へ奥へと走っていく。
体育館ほどの広さがあった。
天井は思っていたより高い。太いコンクリートの柱が、等間隔に並んでいる。柱の一本一本に、ペンキで番号が書かれていた。消えかけた白い字で、壱、弐、参。
空間の左半分は、時間が止まっていた。
木の机が、何列にも並んでいる。机の上には、黒い金属の箱が載っていた。前面に、つまみと、針の止まったメーターと、ひびの入った目盛りのガラスがある。通信機だ、と圭吾は思った。教科書の写真で見たことがある、真空管の、古い受信機。どの机にも、同じ形のものが一台ずつ。椅子は、ほとんどが倒れていた。
机の列の脇に、木箱がいくつか積まれていた。蓋に、黒い墨で文字が刷られている。「特別調査班」。その横に、朱の判で「極秘」。箱の一つは蓋がずれていて、中は空っぽだった。
壁際には、黒板があった。チョークの文字が、まだ薄く残っている。時刻と、数字の列。人の名前らしいものが、縦に並んでいる。名前の横には、どれも同じ二文字が書き込まれていた。
「未帰」。
その下に、カタカナ。読もうとして、やめた。読んではいけない気がした。
天井には、布で巻かれた古い電線が、蜘蛛の巣のように這っていた。
空間の右半分は、今だった。
黒いサーバーラックが、六台並んでいる。人の背丈ほどの、ガラス扉のついた棚。中で、青と緑の小さなランプが、絶え間なく点滅している。あの唸りは、ここから来ていた。冷却ファンが、何十個も同時に回っている音だ。
そして、左と右は、繋がっていた。
受信機の列のいちばん奥、ひときわ大きな一台の背中から、太い黒いケーブルが一本、床を這って、サーバーラックのほうへ延びていた。新しいケーブルだった。古い受信機の裏の端子に、どうやってか、無理やり繋がれている。
八十年前の機械が聞いているものを、今の機械が、記録し続けている。
圭吾は、喉の奥が乾いていくのを感じた。
◇
空間の真ん中に、椅子があった。
一脚だけ。左側の机に並んでいるのと同じ、古い木の椅子だ。背もたれの塗装が剝げて、座面が少しだけ窪んでいる。長い年月、誰かが座り続けた窪み方だった。
その椅子の正面に、三脚に載ったビデオカメラが置かれていた。家電量販店で売っているような、ごく普通のものだ。横に、小さなリングライト。椅子の脇には、マイクスタンドが一本立っていて、マイクの先が、椅子に座った人の口元の高さに向けられていた。
撮影スペースだった。
でも、何を撮るためのものなのか、分からなかった。背景もない。机もない。ただ、古い椅子が一脚あって、それにカメラとマイクが向けられている。
椅子の後ろの壁に、棚があった。
圭吾は、近づいた。
棚には、記録媒体がぎっしりと並んでいた。いちばん上の段には、金属のリールに巻かれた茶色い磁気テープ。その下に、カセットテープ。その下に、黒いビデオテープ。小さなデジタルビデオのテープ。そして、いちばん下の段に、外付けのハードディスクが何十台も。
どれにも、ラベルが貼ってある。
書かれているのは、日付だけだった。
いちばん古いリールのラベルは、黄ばんで、万年筆の字で「昭和二十年八月」とあった。いちばん新しいハードディスクのラベルは、今月の日付だった。
八十年分。
一日も、途切れていない。
サーバーラックの脇に、モニターが一台あった。黒い画面の上で、小さな再生マークが一つ、光っていた。最後に再生された映像が、止まったままになっているらしい。
見なければいい、と思った。
でも、指が、もうマウスに触れていた。
再生した。
画面に映ったのは、あの椅子だった。
今、圭吾の背後にある、あの古い木の椅子。同じ角度、同じ照明。カメラは、椅子を正面から映している。
椅子には、誰も座っていなかった。
三秒、五秒、十秒。何も起きない。空っぽの椅子が、ただ映っている。
モニターのスピーカーから、ざあ、という音が流れ出した。
雑音だった。古いラジオの、局と局の間に合わせたときの、あの砂嵐のような音。それが、少しずつ、波のように大きくなったり小さくなったりする。
その波の底に、何かが混じっていた。
声だった。
ひどく遠い。何重にも重なっている。男の声のようにも、女の声のようにも聞こえる。言葉になりかけて、ほどけて、また寄り集まる。
ザ……ア……サ……ン……
圭吾は、息を止めた。
画面の中の椅子は、空っぽのままだ。それなのに、マイクは、その空っぽの椅子の口元の高さで、声を拾っている。まるで、そこに誰かが座っていて、話しているみたいに。
……ゲ……ン……キ……デ……
……ス……マ……ナ……
途切れる。雑音が膨らむ。また、別の声が寄ってくる。さっきとは違う声だった。若い。ひどく若い。
……カ……エ……レ……ナ……
圭吾は、停止ボタンを押した。
画面の中の椅子が、止まった。スピーカーが、ぶつりと黙った。
空間には、サーバーの唸りだけが残った。
圭吾は、ゆっくりと振り返った。
本物の椅子が、そこにあった。蛍光灯の下で、窪んだ座面が、薄く光っている。誰も座っていない。
誰も、座っていない。
◇
水の音がした。
ぽつん、と、一滴。
空間の、いちばん奥からだった。
圭吾は、そちらを見た。サーバーラックの列の、さらに向こう。蛍光灯の光が、そこだけ届ききらずに、薄暗くなっている。
扉があった。
鉄の扉だった。上の倉庫の扉とは、比べものにならないほど大きい。高さは二メートルを超え、幅は大人が二人並んで通れるほど。表面は、赤黒い錆に覆われていた。錆が、ところどころで瘡蓋のように盛り上がり、剝がれかけ、その下からまた錆が覗いている。
かつて、塞がれていた跡があった。
扉の周りの壁に、太い角材を打ちつけていた釘穴が、いくつも黒く残っている。扉の表面には、鉄骨を横に渡して溶接した跡が二本走っていた。その鉄骨は、どちらも根元から焼き切られていた。切り口だけが、扉の錆とは違う色をしていた。誰かが後から、わざわざ開けられるようにしたのだ。
扉の下の隙間から、匂いが漂ってきた。
下水の匂いだった。腐った水と、泥と、それから、言葉にできない何か。甘いような、生臭いような。鼻の奥にこびりついて、離れない匂い。
水の音が、また、ぽつん、と鳴った。扉の向こう側で。
それから、圭吾は気づいた。
扉の取っ手の脇に、掛け金が溶接されている。そこに、南京錠が一つ、ぶら下がっていた。
上の倉庫のものと、同じ形の、真鍮の錠前。
鍵が、刺さったままだった。
かたん。
錠前が、揺れた。
風はない。この地下に、風が吹くはずがない。圭吾は、一歩も動いていない。それなのに、錠前が、掛け金の中で一度だけ、かたん、と揺れた。
扉の、向こう側から。
何かが、扉に触れたように。
圭吾は、後ずさった。一歩、二歩。背中が、何か固いものにぶつかった。
あの椅子の、背もたれだった。
「聞こえましたか」
声は、すぐ後ろからした。
圭吾は振り返らなかった。振り返れなかった。
階段を下りてくる足音は、しなかった。上の錠は、閉じていたはずだ。それなのに、その穏やかな声は、ほんの一メートルほど後ろから聞こえた。
「中には何にもないって、言ったでしょう」
早瀬さんの声だった。
「本当に、何にもないんですよ。誰も、座っていない」
背中に触れた椅子の背もたれが、温かかった。
ついさっきまで、誰かが座っていたみたいに。




