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第二話 何にもない

扉の取っ手は、冷たかった。


廊下の空気は一月の夜そのもので、吐く息が白い。それなのに、扉の隙間から漏れてくる空気だけが、生き物の吐息のように湿って温かかった。


圭吾は扉を引いた。


思っていたより軽く、蝶番は音も立てずに回った。毎朝見ていたのに、開いたところを見るのは初めてだ。三年分の「抜き忘れだろう」が、急に行き場を失ったような気がした。


中は暗かった。


手探りで壁を撫でると、入ってすぐ右の高さに、古いトグル式のスイッチがあった。上げると、天井から下がった裸電球が、二、三度瞬いてから点いた。


用具入れだった。


広さは一畳半ほど。左の壁にスチールの棚があって、トイレットペーパーの買い置き、洗剤のボトル、軍手の束、電球の箱が並んでいる。右の壁にはモップが二本と竹ぼうき、青いポリバケツ。奥の壁際に、折り畳んだアルミの脚立が立てかけてある。床には、玄関マットのような緑色のゴムマットが一枚、ほぼ床いっぱいに敷かれていた。


どこのアパートにもある、ありふれた共用倉庫だった。


圭吾は、少しだけ笑った。


三年間、気にしていたものの正体が、モップとトイレットペーパーだった。刺さったままの鍵は、たぶん管理人が鍵を持ち歩くのを面倒がっただけだ。メーターが回っていたのも、どこかの配線がこの部屋を通っているだけかもしれない。合わない数字には、必ず理由がある。理由はたいてい、拍子抜けするほどつまらない。


そう思いながら、圭吾は奥の壁を見た。


そして、笑うのをやめた。


近い。


扉から奥の壁まで、どう見ても一メートル五十ほどしかない。廊下の突き当たりから建物の外壁までの距離を、圭吾は外を歩くたびに目で測っていた。外から見たこの建物の奥行きなら、倉庫はもっと深いはずだ。少なくとも、あと一メートルは。


廊下で足りなかった一メートル。倉庫で足りない一メートル。


図面のどこにもない畳一枚分が、この奥の壁の向こうか、あるいは。


圭吾は視線を落とした。


温かい空気は、壁からではなく、足元から来ていた。ゴムマットの縁が、わずかに浮いている。そこから立ちのぼる空気が、裸電球の下で、ほんの少しだけ揺らいで見えた。


「中には何にもないですよ」


声は、真後ろからした。


圭吾は振り返った。心臓が一度、喉のあたりまで跳ねた。


廊下に、老人が立っていた。


八十近いだろうか。背は低く、灰色の作業着の上に紺のジャンパーを羽織っている。白髪は短く刈り込まれ、頬はこけているが、背筋だけはまっすぐだった。右手に、懐中電灯を一本提げている。


管理人だった。月に一度、廊下を掃いている姿を見たことがある。名前は、確か早瀬といった。


足音は、聞こえなかった。


廊下の床は古いリノリウムで、大学生のスニーカーでさえきゅっと鳴る。圭吾は扉の前に立っていて、背中は廊下に向いていた。それなのに、この老人がいつからそこにいたのか、まるで分からなかった。


「すみません」


圭吾は、自分でも驚くほど早く謝っていた。


「扉が開いていたので。錠も、落ちていて」


「ええ、ええ」


早瀬さんは、穏やかに頷いた。


「電球を替えに来てね。閉め忘れて、そのまま上に行っちまった。年を取るとこれだ」


早瀬さんは扉の前まで歩いてきた。今度は、足音がした。ゆっくりとした、普通の老人の足音だった。


圭吾の横に並ぶと、早瀬さんは倉庫の中を一度だけ見渡した。棚、モップ、バケツ、脚立。それから、床のマット。その視線が、マットの上でほんの一瞬だけ止まって、すぐに離れたのを、圭吾は見ていた。


「ほらね。何にもない」


早瀬さんは手を伸ばして、電球のスイッチを下ろした。倉庫の中が暗くなる。扉を押して閉め、床に転がっていた南京錠を拾い上げた。慣れた手つきだった。掛け金に錠を通し、手のひらで押し込む。かちり、と小さな音がして、錠が閉じた。


鍵は、刺さったままだった。


早瀬さんは、それを抜かなかった。指先で鍵の頭を一度だけ撫でて、そのまま手を離した。


「あの」


聞くつもりは、なかった。


圭吾は人に何かを聞かない。それが自分の決まりのようなものだった。でも、口が勝手に動いていた。


「鍵、抜かないんですね」


早瀬さんは、錠前から目を上げた。


それから圭吾を見た。目の色が、思っていたより若かった。濁っていない。こちらの奥の奥まで、静かに測ってくるような目だった。


「抜かなくていいんですよ」


それだけ言って、早瀬さんは笑った。皺が深く寄って、優しい顔になった。


「おやすみなさい。寒いから、早くお休みなさい」


早瀬さんは懐中電灯を提げたまま、廊下を戻っていった。階段のほうへ曲がって、見えなくなる。足音は、角を曲がったところで、ふっと途切れた。


階段を上る音は、しなかった。


◇


部屋に戻っても、眠れなかった。


布団に入って、天井を見上げる。暖房の音が低く唸っている。圭吾は、さっきの会話を、頭の中で一行ずつ並べ直していた。仕事で、ログを一行ずつ読み返すときと同じように。


中には何にもないですよ。


最初の一言は、それだった。


圭吾は何も聞いていない。中に何があるのかと尋ねたわけではない。扉の前に立って、床を見ていただけだ。それなのに早瀬さんは、聞かれる前に答えた。


何にもない。


変な言い方だった。倉庫には、モップもバケツもトイレットペーパーもあった。物は、ちゃんとある。「大したものはない」なら分かる。「掃除道具しかない」でもいい。でも早瀬さんは、何にもない、と言い切った。


まるで、別の何かのことを言っているみたいに。


それから、電球を替えに来た、という話。


倉庫の電球は、点けたとき、二、三度瞬いた。替えたばかりの電球は、あんなふうに瞬かない。棚の上の電球の箱も、封が切られていなかった。


閉め忘れて上に行った、とも言った。でも早瀬さんは、このアパートには住んでいない。管理人室もない。月に一度、どこからか来て、廊下を掃いて帰っていく人だ。上に行く用事が、あったのだろうか。夜の九時半に。


そして、階段を上る足音がしなかったこと。


圭吾は寝返りを打った。


一つずつなら、全部説明がつく。電球は替える前に呼び出されたのかもしれないし、二階の誰かに用があったのかもしれない。足音は、自分が聞き逃しただけかもしれない。年寄りの言葉選びに、意味なんてないのかもしれない。


でも、合わない数字が、一晩で五つも六つも並ぶことはない。


システムの保守を十年近くやってきて、圭吾が学んだことがひとつある。小さな不整合が一つなら、それは入力ミスだ。二つなら、偶然かもしれない。三つ以上が同じ場所に固まっているときは、そこに誰かが何かを隠している。


抜かなくていいんですよ。


あの言葉だけは、嘘をついていない声だった。


抜かなくていい。抜いてはいけない、ではなく、抜かなくていい。鍵を刺したままにしておくのは忘れているからではなく、そうしておくことに意味があるのだと、やんわり教えられたような気がした。


開けられるようにしておく。けれど、開けるかどうかは、そちらに任せる。


時計を見ると、午前一時を回っていた。


圭吾は布団から出た。


◇


廊下は、さっきよりも冷えていた。


蛍光灯は、相変わらず一本だけがちらついている。圭吾はスウェットの上にダウンを羽織り、スマートフォンのライトを点けて、廊下の奥へ歩いた。床の傾きが、靴下越しに足の裏に伝わってくる。


扉の前に立った。


南京錠が、掛け金に閉じている。鍵は、刺さったまま。


圭吾は、初めてそれに触れた。


指先が、鍵の頭に触れた瞬間、思わず手を引きそうになった。


温かかった。


一月の夜の、暖房の届かない廊下で、真鍮の小さな鍵が、人肌くらいに温かい。ついさっきまで、誰かがずっとつまんでいたみたいに。


圭吾は、廊下を振り返った。誰もいない。階段のほうも、静まり返っている。


鍵を、回した。


思っていたより、軽かった。かちり、と小さな音を立てて、錠の口が開いた。掛け金から外して、手のひらに載せる。ずしりと重い錠前の中で、鍵だけが、まだ温かかった。


それだけのことだった。鍵はそこにあった。誰にでもできる。


それなのに、何かの境目を、自分の指で一つ、ほどいてしまったような感覚があった。


圭吾は、錠前を掛け金の脇にぶら下げたまま、扉を開けて中に入った。電球は点けなかった。スマートフォンのライトだけで十分だった。


ゴムマットの上に、そっと足を乗せる。


一歩目。硬い。コンクリートの感触だ。


二歩目。同じ。


三歩目、部屋の中央より少し奥で、足の裏の感覚が変わった。


沈む、というほどではない。ほんのわずかに、たわむ。下にあるのがコンクリートではなく、何か別のものだと、足の裏が教えてくる。踏み直すと、かすかに、こん、と乾いた音がした。中が空洞のときの音だった。


圭吾は、しゃがみ込んだ。


マットの端を掴んで、めくる。ゴムが重い。棚の脚に引っかかったバケツを脇に寄せて、マットを扉のほうへ半分ほど丸めた。


ライトを向ける。


床に、四角い線があった。


コンクリートの床の中に、六十センチ四方ほどの鉄の板が嵌め込まれている。表面は錆びて赤茶色になり、縁の隙間から、あの湿った温かい空気が、細く立ちのぼっていた。板の手前の端に、指を掛けるための窪みがある。窪みの中だけが、あの鍵の頭と同じように、鈍く光っていた。


何度も、誰かの指が触れた光り方。


圭吾は、窪みに指を掛けた。


思っていたより、軽かった。蓋は、蝶番で奥側に繋がっていて、持ち上げると、ほとんど力を入れずに起き上がった。誰かが油を差しているのだ、と思った。何年も、何十年も。


下から、空気が吹き上げてきた。


温かい。湿っている。古いコンクリートと、埃と、それから、かすかに電気の匂いがした。家電の裏側に顔を近づけたときの、あの焦げる手前のような匂い。


ライトを向ける。


階段があった。


コンクリートの、幅の狭い階段が、奥の壁の下へ潜り込むように、まっすぐ下へ続いている。手すりは錆びた鉄パイプで、壁に打ち込まれた金具に支えられていた。十段先までは見えた。その先は、ライトの光が届かずに、闇に溶けていた。


耳を澄ます。


何かが、鳴っている。


ずっと遠く、地面の底のほうで、低い唸りが続いていた。冷蔵庫のモーター音を、何十倍にも引き延ばしたような音。止まらず、途切れず、ただ一定の高さで、鳴り続けている。


共用部のメーターが、夜中も回り続けていた理由。


図面にない一メートルの理由。


何にもない、と言い切った、あの声の理由。


全部が、この下にある。


圭吾は、蓋の縁に手をついたまま、しばらく動けなかった。


戻ればいい、と思った。蓋を閉めて、マットを戻して、錠を掛け直して、部屋に帰る。鍵は刺したままにして。明日の朝も、六時四十分に鍵を閉めて、扉を見て、抜き忘れだろう、と呟けばいい。それで、何も変わらない。


聞かずにいられる人間だと、自分では思っていた。


でも、聞かずにいることと、見なかったことにすることは、たぶん違う。


圭吾は、階段の一段目に足を下ろした。


コンクリートは、靴下越しに、ほんのりと温かかった。


二段目。三段目。ライトの光が、階段の先の闇を少しずつ削っていく。頭が、床の高さより下に沈んだ。見上げると、四角く切り取られた倉庫の天井と、消えたままの裸電球が見えた。


五段目に下りたときだった。


頭の上の、ずっと遠くで、小さな音がした。


かちり。


錠の口が、閉じる音。


圭吾は、息を止めて、上を見上げた。


四角い穴の向こうの倉庫は、暗いままだった。扉は、閉まっていた。自分で閉めた覚えは、なかった。


掛けられたのだ、と分かった。


扉の外側の、あの南京錠が。


鍵は、きっと今も、刺さったままなのだろう。

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