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第一話 刺さったままの鍵

朝の六時四十分、北条圭吾は鍵を閉める。


大崎駅から歩いて十五分。目黒川を渡って少し入った路地の奥に、そのアパートはある。二階建ての軽量鉄骨で、外壁は元はクリーム色だったのだろうが、今は雨の筋が縦に何本も走っている。一階に五部屋、二階に五部屋。圭吾の部屋は一階の、手前から二番目だった。


鍵が回る音を確かめてから、圭吾は廊下の奥に目をやる。毎朝の習慣だ。やめようと思ったこともあるが、やめられなかった。


廊下の突き当たりに、扉が一枚ある。


部屋番号はない。他の部屋と同じ、灰色の鉄の扉だ。ただ一つだけ違うところがある。扉の外側に掛け金がついていて、そこに南京錠がぶら下がっているのだ。


真鍮の、手のひらに収まるくらいの古い錠前。それだけなら、どこにでもある。


おかしいのは、その鍵穴に、いつも鍵が刺さっていることだった。


小さな真鍮の鍵が、錠前に刺さったまま、扉の前でわずかに揺れている。風が廊下を抜けると、錠前と掛け金が触れ合って、かすかに、ち、と鳴る。


抜き忘れだろう、普通は。


圭吾は毎朝、心の中でそう呟く。呟いてから、駅に向かう。


◇


住み始めて三年になる。


最初の一ヶ月は、本当に抜き忘れだと思っていた。誰かが倉庫を使って、錠を掛けて、鍵をそのままにして帰ったのだろう、と。そのうち気づいて、抜きに来るだろう、と。


二ヶ月目になっても、鍵は刺さったままだった。


管理会社の物件ページを開いて、間取り図を見た。突き当たりの扉は「共用倉庫」と書かれていた。倉庫なら、施錠したいのは分かる。共用の掃除道具や、買い置きの電球を、勝手に持ち出されたくないのだろう。


でも、それなら鍵は抜くはずだ。


刺さったままの鍵は、錠を掛けていないのと同じだ。誰でも回せる。回せば開く。施錠の意味がない。それなのに、錠前はいつもきちんと掛け金を通して、閉じられていた。


開けられないようにしてあるのに、誰でも開けられるようにしてある。


三ヶ月目に、圭吾は考えるのをやめた。少なくとも、やめたつもりだった。


◇


会社は大崎の駅ビルに近いオフィスタワーの十九階にある。中堅の物流システムの会社で、圭吾は倉庫管理ソフトの保守を担当している。仕事の中身は、ほとんどが「数字が合わない理由を探すこと」だった。在庫が三つ多い。出荷記録が一件足りない。誰かが入力を間違えたのか、システムの不具合なのか、それとも本当に箱がどこかに消えたのか。


圭吾はその仕事が嫌いではなかった。合わないものには、必ず理由がある。理由がわかれば、たいていのことは片づく。


昼は、会社の裏の定食屋に行く。


壁に貼られたメニューの短冊は、油で少し黄ばんでいる。カウンターと、四人掛けのテーブルが三つ。圭吾はいつも、カウンターのいちばん端に座る。日替わり定食を頼む。


年が明けて最初の週、運ばれてきた日替わりは鯖の塩焼きだった。


皿を見て、圭吾は年の瀬の昼を思い出した。


この店に通うようになって、もう五年になる。同じ時間、同じ席に座っていると、他の客の変化がよく見える。いつも三人で来ていた営業の若い男たちが、ある日から二人になった。毎日唐揚げを頼んでいた年配の男性が、ある日から焼き魚に変えた。


圭吾はそれを、ただ見ている。聞きはしない。三人目はどうしたのか。唐揚げはやめたのか。聞けば何かがわかるのかもしれないが、聞かれた側がそれを話したいかどうかはわからない。


知っていることと、聞かないこと。圭吾にとって、その二つは矛盾しなかった。


年末に、一度だけ例外があった。


先輩らしい女性といつも二人で来て、決まってレバニラ定食を頼む若い女性がいた。秋のある頃から、彼女はそれを頼まなくなった。唐揚げを頼んで半分残し、焼き魚を頼んで箸が進まず、そういう昼が何週間も続いた。圭吾はそれを、カウンターの端から見ていた。見ていただけだった。


年の瀬の昼、彼女は一人で来て、圭吾の隣に座った。少し迷ってから、レバニラ定食を頼んだ。


そのとき、自分でも驚くほど自然に、言葉が出た。


「今日は、それなんですね」


彼女は目を丸くして、それから「好きなんです」と言った。ちょっと食べられなかった時期があっただけで、と。何かを一つ、どこかに置いてきたような声だった。


圭吾はそれ以上、何も聞かなかった。聞かなくていいと思った。食べられなかった時期のことは、彼女のものだ。


あの日の自分の前にあったのも、鯖の塩焼きだった。隣でレバーを口に運ぶ彼女を横目に、圭吾は鯖の身を丁寧にほぐしていた。


同じ皿を前にして、圭吾は箸を割った。


鯖の塩焼きは、あの日と同じ味がした。


◇


アパートの住人とは、顔を合わせれば挨拶をする程度の仲だ。


ある日曜の朝、ゴミを出しに出たとき、二階に住む年配の女性と一緒になった。小柄で、いつも花柄のエプロンをしている。名前は確か、郵便受けに「大河内」とあった。


「おはようございます」


「あら、おはようございます。今日は燃えるゴミでよかったのよね」


「はい、日曜は燃えるゴミです」


話の流れで、圭吾は少しだけ踏み込んでみた。


「あの、一階の奥の扉なんですけど。南京錠に、鍵が刺さったままなの、ご存じですか」


大河内さんは一瞬きょとんとして、それから「ああ」と頷いた。


「倉庫でしょう。管理人さんが使ってるんじゃないかしら」


「刺さったままだと、錠の意味がないですよね」


「そうねえ。言われてみればそうかもしれないわね」


それで終わりだった。彼女は気にしていなかった。言われてみれば、という程度の関心で、それ以上は何も続かなかった。


別の日には、一階の端に住む大学生と鉢合わせた。イヤホンを片耳だけ外して、軽く頭を下げてくる青年だ。


「奥の扉? ああ、鍵刺さってるやつ。なんか変ですよね」


「変ですよね」


「でも倉庫っしょ。開けたことないっすね。なんか、開けちゃいけない感じするし」


彼はそう言って、またイヤホンをはめた。


開けちゃいけない感じ。


誰でも開けられるのに、誰も開けない。大学生も、大河内さんも、たぶん他の住人も。三年間、あの鍵は一度も回されずに、そこにある。


俺ほど気にしてる人はいないんだな、と圭吾は思った。


それは少し安心でもあり、少し不安でもあった。気にしすぎなのは自分の性分のせいで、扉のせいではない。そう思えれば、話はそこで終わる。


でも、本当にそうだろうか。


◇


一月の最初の週の夜、圭吾はノートパソコンで、もう一度あの間取り図を開いた。


理由はなかった。強いて言えば、仕事始めの一日、合わない数字を追いかけていたせいかもしれない。夜になっても、頭がまだ何かを探していた。


一階部分の図面。手前から一〇一、一〇二、一〇三、一〇四、一〇五。廊下がまっすぐ奥に延びて、突き当たりに「共用倉庫」と書かれた小さな四角がある。図面上では、廊下の長さは十四メートル六十。各部屋の間口は二メートル七十で、五部屋分を足すと十三メートル五十。残りの一メートル十が、倉庫の手前の余白ということになる。


圭吾はしばらくその数字を見ていた。


それから立ち上がり、引き出しからメジャーを出した。


夜の十一時に、廊下の長さを測る。我ながら馬鹿げていると思った。でも、合わない数字を合わない数字のまま放っておくほうが、圭吾には難しかった。


足音を立てないように廊下に出る。蛍光灯が一本、ちらついていた。自分の部屋の扉の端から、隣、その隣と、メジャーの爪を引っかけながら少しずつ進む。


途中で気づいた。廊下の床は、奥に行くほどわずかに傾いている。ビー玉を置けば、たぶん奥へ転がっていく。


突き当たりの扉の前に立ったとき、メジャーは十五メートル六十を指していた。


図面より、一メートル長い。


圭吾は数字を二度見た。測り直した。結果は同じだった。


一メートル。廊下の幅が一メートル二十だから、畳にしてほぼ一枚分。図面にない空間が、どこかにある。


あるいは、図面が間違っているだけかもしれない。古いアパートだ。改装のときに、壁の位置がずれたのかもしれない。


そう考えながら、圭吾は目の前の扉を見た。


南京錠が、すぐそこにある。


近くで見るのは初めてだった。錠前の本体は黒ずんで、掛け金の縁には赤い錆が浮いている。ただ、刺さったままの鍵の頭だけが、なぜか鈍く光っていた。何度も指でつままれた金属の光り方だ。


誰かが、これを頻繁に回している。回して、開けて、また閉めて、それでも鍵は抜かずに帰っていく。


圭吾は手を伸ばしかけて、やめた。


回そうと思えば回せる。鍵はそこにあるのだから。でも、手が動かなかった。刺さったままの鍵が、指先に薄い膜のように触れてくる。開けてもいい、と言われているのか、開けるな、と言われているのか、分からなかった。


ふと、扉の脇の壁に目が行った。共用の電気メーターが並んでいる。各部屋の分と、共用部の分。共用部のメーターの円盤が、回っていた。


夜の十一時過ぎだ。廊下の蛍光灯は一本きり。それなのに円盤は、自分の部屋のメーターよりも速く、静かに回り続けていた。


圭吾はメジャーを巻き取り、部屋に戻った。


その夜は、なかなか眠れなかった。


◇


それから一週間、圭吾は何もしなかった。


朝、鍵を閉める。奥の扉を見る。抜き忘れだろう、と呟く。会社で合わない数字を探し、定食屋で日替わりを食べ、夜に帰ってくる。メーターのことは、考えないようにした。


変わったのは、帰り道の一点だけだった。アパートの角を曲がるとき、扉を見る前に、ほんの少し息を止めるようになった。


一月の第二金曜日。部署の小さな新年会を一次会で抜けて、圭吾が帰ってきたのは夜の九時半だった。冷たい風が目黒川のほうから吹いてきていた。


角を曲がった。息を止めた。廊下の奥を見た。


扉が、開いていた。


ほんの十センチほどだ。中は暗く、何も見えない。そして足元、扉の前の床に、南京錠が落ちていた。


掛け金から外されて、口を開けたまま、横倒しになっている。鍵は、やはり刺さったままだった。三年間一度も抜かれなかった鍵が、廊下の床の上で、蛍光灯の光を鈍く跳ね返していた。


誰かが開けたのだ。開けて、そのまま、閉めなかった。


圭吾は自分の部屋の前で立ち止まった。鍵はもう手の中にある。部屋に入って、扉を閉めて、見なかったことにすればいい。他の住人と同じように。言われてみれば変かもしれないわね、くらいの距離で。


風が廊下を抜けた。


奥の扉が、きい、と音を立てて、もう少しだけ開いた。


中から漏れてきたのは、空気だった。外の冷たい風とは違う、湿った、少しだけ温かい空気。地下鉄の駅の階段を下りるときに吹き上げてくる、あの空気によく似ていた。


圭吾は鍵を握ったまま、廊下の奥へ歩き出した。


一歩ごとに、床がわずかに奥へ傾いていく。

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