第四話 大切な人々
母が王妃の座を退く。
その決定を聞いてから、レオンの胸にあるのは申し訳なさだった。
自分が聖女との結婚を拒んだために、母は王妃の座を退こうとしている。
もし自分が聖女との結婚を受け入れていれば、母は今までどおり王妃として暮らしていけるのだ。
しかし、どうしてもエレノアを愛する気持ちを消すことも、彼女との未来を諦めることもできなかった。
「……母上に、申し訳ないな」
一人、自室のソファに座りながら、レオンはそう呟いた。
自然と、これまでの母との思い出が蘇ってくる。
王太子として判断に迷ったときも、父には話しにくいことがあったときも、母はいつだって話を聞いてくれた。必要な助言をくれることもあれば、ただ黙って話を聞いてくれることもあった。
母が宮殿を離れれば、今のように思い立ったときに顔を見に行くことも、何気ない会話のついでに相談することも難しくなるだろう。
そう考えた途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
十八にもなって、母がそばにいてくれることを、どこか当たり前のように思っていたのかもしれない。
もう子どもではない。いずれ父の跡を継ぐ身なのだから、いつまでも母に頼っているわけにはいかない。
そう思う一方で、これから先、何かに迷ったとき、自分は誰に話を聞いてもらえばいいのだろうと考えてしまう。
レオンは小さく息を吐き、浮かんだ思いを振り払うように背筋を伸ばした。
今は、母の決断を無駄にしないためにも、自分にできることを考えなければならなかった。
数日後、レオンは母の私室を訪れた。
王妃としての引き継ぎが始まってから、母は以前にも増して忙しそうだった。自分が知る限り、母はいつだって忙しかったけれど、今はその仕事を誰かに引き継ぐための準備まで加わっている。
それでも、訪問を告げると、母はすぐに時間を作ってくれた。
「レオン、どうしたの?」
「少し、お話ししたくて」
母は微笑み、向かいの椅子を勧めた。
こうして向かい合って座ることも、これからは今までどおりにはいかなくなるのだろうか。
そんな考えが頭をよぎり、レオンはわずかに視線を落とした。
「母上は、本当に後悔なさらないのですか?」
「何を?」
「王妃の座を退くことです。……僕が聖女との結婚を断ったせいで、母上まで」
「レオン」
アデライードは、彼の言葉を遮るように名前を呼んだ。
「あなたのせいではないわ」
「ですが……」
「私は私の考えで決めたの。あなたが気に病む必要はないのよ」
穏やかな声だった。
責める響きは、少しもない。
だからこそ、レオンは言葉に詰まった。
自分の決断が、母の人生を変えてしまったのではないか。
そんな疑念は消えなかったけれど、これ以上問い詰めれば、母を困らせてしまう気がした。
「……これからは、どちらにお住まいになるのですか?」
「北の領地にある、実家の屋敷よ。幼い頃に過ごした場所なの」
「そこで、何をなさるのですか?」
尋ねてから、レオンは少しだけ後悔した。
母が王妃の座を退いたあと、何をして過ごすのか。
そんなことを、母が王妃を辞める原因を作った自分が聞いてもいいのだろうか。
しかし、アデライードは気分を害する様子もなく、少し考えてから、ふっと微笑んだ。
「そうね。庭を散歩したり、本を読んだり……朝寝坊をしてみるのもいいわね」
「朝寝坊、ですか?」
「ええ。王宮では、そういうわけにもいかないでしょう?」
悪戯っぽく笑う母に、レオンは思わず目を瞬かせた。
王妃としての母は、いつもきちんとしていた。朝は誰よりも早く起き、予定を確認し、誰かのために動いていた。
そんな母が、朝寝坊を楽しみにしている。
それだけのことなのに、レオンは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……たしかにそうですね」
「でしょう?」
本当は、もっと聞きたいことがあった。
母はこれから幸せに暮らせるのだろうか。
王妃ではなくなった母は、どんな毎日を送るのだろうか。
けれど、どれも口にすることができなかった。
代わりに、レオンは小さく息を吸った。
「母上。僕は……これからも、母上に会いに行ってもいいのでしょうか」
口にしてから、急に恥ずかしくなる。
十八にもなって、そんなことを尋ねるなんて。
アデライードは驚いたように目を見開いたあと、柔らかく笑った。
「もちろんよ。あなたは私の息子なのだから」
「……ありがとうございます」
「手紙も送ってちょうだいね。あなたの話を聞くのを、楽しみにしているわ」
その言葉に、レオンはようやく笑みを浮かべた。
「はい。必ず」
レオンは立ち上がり、少し迷ったあと、母のそばへ歩み寄った。
そして、そっと母の手を引いて立ち上がらせ、そのまま抱きしめた。
普段なら、こんなことはしなかったかもしれない。
もう子どもではないのだから、と照れくさく思ってしまうだろう。
けれど、今だけは。
「……レオン?」
「すみません。少しだけ、このままで」
アデライードは一瞬驚いたものの、すぐに息子の背中へ腕を回した。
「ええ。もちろん」
その声を聞きながら、レオンは目を閉じた。
この温もりを、忘れたくないと思った。
レオンが去ったあと、アデライードはしばらく扉を見つめていた。
あの子も、いつの間にか大きくなった。
幼い頃は何かあるたびに母のもとへ駆け寄ってきたのに、最近では自分の中で考え、王太子としてどう振る舞うべきかを優先することが増えていた。
そんな息子が、あのように抱きしめてくるとは思わなかった。
少し照れくさくて、けれど、嬉しかった。
母として、あの子の成長を見守ることができた。それだけで、十分に幸せなことだったのかもしれない。
そう思いながら、アデライードは窓辺へと歩いた。
翌日、今度はエレノアが訪ねてきた。
「王妃陛下、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。どうぞ座って」
エレノアは勧められた椅子に腰を下ろしたものの、どこか落ち着かない様子だった。
やがて、意を決したように顔を上げる。
「このたびは……本当に申し訳ございません」
「何がかしら?」
予想していなかった謝罪に、アデライードは目を丸くした。
「私とレオン殿下が婚約しているせいで、陛下が王妃の座を退かれることになってしまいました」
エレノアは膝の上で両手を握りしめた。
「私たちがもっと別の道を考えていれば、こんなことにはならなかったのではないかと……」
「エレノア」
アデライードは、責めるつもりなどないと伝えるように、静かに彼女の手に触れた。
「あなたが自分を責める必要はないのよ」
「ですが……」
「私は自分で決めたの。あなたとレオンが望む未来を、諦める必要はないわ」
エレノアの瞳が揺れる。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ。二人が互いを大切に思っていることは、私も知っているもの」
アデライードは微笑んだ。
「だから、これからもレオンを支えてあげてね。あの子は責任感が強いぶん、何でも一人で抱え込んでしまうところがあるから」
「はい。私にできることなら、何でも」
アデライードの願いに、エレノアは力強く頷いた。
「ふふ。何でも、というのは少し大げさね。あなた自身が無理をしてしまっては意味がないわ。二人で支え合っていけばいいのよ」
自分を気遣う言葉に、エレノアはようやく少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとうございます」
「それから、もし困ったことがあったら、いつでも私のところへいらっしゃい。王妃でなくなっても、あなたたちのことを大切に思う気持ちは変わらないわ」
「王妃陛下……」
「アデライード、と呼んでくれてもいいのよ。これからは、今までより少し気楽に話せるようになるかもしれないわね」
エレノアは目を丸くし、それから、はにかむように笑った。
「……はい。アデライード様」
「ええ」
その笑顔を見て、アデライードも微笑んだ。
レオンとエレノアが、これから幸せな人生を歩んでいけますように。
それは、母として願うことだった。
その夜、アデライードは庭を眺めながら、自分とアルベルトの関係について思い返していた。
自分とアルベルトは、恋愛結婚ではなかった。
婚約が決まったのは、アデライードが十歳のとき。王太子妃となるための教育が始まり、十六歳で結婚した。
当時の自分にとって、それは受け入れるべき人生だった。
王家に嫁ぐこと。
王妃として国を支えること。
夫となる人を支え、次代の王を育てること。
そうした役割を果たすのが、自分の務めなのだと思っていた。
しかし、王妃教育につまずき、何もかも投げ出してしまいたくなったこともある。
覚えることは多く、求められる水準は高い。
何をしても足りないような気がして、自分には務まらないのではないかと不安になった。
そんなとき、アルベルトが声をかけてくれた。
『アデライードならできるはずだ』
特別に慰めるような言い方ではなかった。
ただ、彼は当然のことのようにそう言った。
自分ならできると、信じてくれていた。
あの言葉があったから、もう少し頑張ってみようと思えたのだ。
結婚し、戴冠して王となったアルベルトは、威厳を保ち、判断を誤らず、周囲に弱みを見せないようになった。
けれど、アルベルトの自室で二人きりになると、ふっと気が抜けたようにぼんやりしていることもあった。
次に食べるナッツを決められず、ぼんやりと悩むアルベルト。
その手にアデライードが適当なものを選んで乗せれば、彼は素直にそれを口にする。
そんな姿は、事務秘書官には想像もつかないのではないだろうか。
玉座に座っているときよりも身近に感じられるアルベルトの姿を思い出し、アデライードは思わず笑みをこぼした。
そして、そんな彼にもう会えないのかと思うと、少しだけ寂しさも込み上げてきた。
レオンとエレノアだけではない。
アルベルトの幸せも願いながら、アデライードは静かに目を細めた。




