第五話 その頃神殿にて
王妃がその座を退く。
その言葉を聞いたとき、ミレーヌは胸の奥で小さく歓声を上げた。
ようやく、このときが来たのだ。
ミレーヌが聖女としての適性を見いだされたのは、九歳のときだった。
ルミナリア王国では、聖と光の魔力をもつ女性を聖女とするしきたりがあった。
聖女には、特別な奇跡を起こす力があるわけではない。
建国に携わった女性がこの二つの魔力を持っていたという伝承から、いつしか、そのような女性は聖女と呼ばれるようになったのだ。
魔力を持つ者はそれほど多くなく、その大半は貴族である。
さらに、二つの魔力を併せ持つ者は少なく、尊い存在として大切にされてきた。
魔力を持つ者は、魔石に自らの力を込めることができる。
魔石は、込められた魔力の性質に応じて、さまざまな用途に利用される。
聖の魔力は、魔獣を遠ざけたり、穢れを浄化したりする働きを持つ。
光の魔力は、傷の回復を促し、植物の成長を助ける。
どちらも、人々の暮らしを支える大切な力だ。
光の魔力を込めた魔石は明かりに、聖の魔力を込めた魔石は浄化や魔獣避けの補助に使われることがある。
魔石は、人々の生活を便利にする貴重なものだった。
ミレーヌは九歳でその適性を見いだされて以来、聖女としての教育を受けてきた。
礼儀作法、歴史、政治、社交。
王妃となるために必要な知識も、幼い頃から叩き込まれている。
自由に遊ぶ時間も、好きなことに夢中になる時間も、ほとんどなかった。
けれど、ミレーヌはそれを不幸だとは思っていない。
これまで努力してきたのは、すべて未来のためだ。
聖女として生まれた自分には、それにふさわしい地位が与えられるべきなのだから。
王妃になれば、今よりもずっと華やかな生活が待っている。
美しい衣装に、宝石。
誰もが自分に敬意を払い、望むものを手に入れられる立場。
それこそが、長年の努力に対する報いだと、ミレーヌは考えていた。
「……ふふ」
ベッドと机しかない質素な部屋で聖典を書き写しながら、ミレーヌは華やかな世界いる自分をイメージして、笑みをこぼした。
王妃が退くことになったのなら、あとは自分がその座に就くだけだ。
王太子レオンが公爵令嬢エレノアとの婚約を守ることになったのは、少々気に入らなかった。
けれど、レオン自身がエレノアとの結婚を望んでいるのなら、無理に夫にする必要もない。
ミレーヌにとって大切なのは、王太子の妻になることではなかった。
王妃になること。
その地位さえ手に入るのなら、夫が国王であろうと、王太子であろうと、大きな問題ではない。
「まあ、いいわ。王妃になれるのなら、それで」
ミレーヌは満足げに微笑んだ。
そんな折、部屋を訪れたのは大司教だった。
「ミレーヌ様。少々、お話がございます」
「大司教様。どうぞ、お掛けになって」
ミレーヌは一脚しかない椅子から立ち上がり、大司教に席を勧めた。
大司教は礼をしてから、その椅子に腰を下ろす。
「王妃陛下の退位については、陛下との間で話がまとまったと伺っております」
「ええ。そう聞いていますわ」
「ただし、国王陛下が再婚について正式に発表されたわけではございません。今後のことについては、まだ慎重に進める必要があります」
ミレーヌはわずかに眉を寄せた。
「でも、聖女が王妃になるのは昔からの決まりでしょう?すぐに話を進められるのではなくて?」
「長く受け継がれてきた伝統ではございます。しかし、伝統を実際の形にするには、相応の手順が必要です」
「……そうですわね」
納得したように頷いたものの、ミレーヌの心には小さな焦りが残った。
王妃の座が空くのなら、自分がそこに入るのは当然のことではないのだろうか。
なぜ、こんなにも慎重にならなければならないのか。
そんな疑問を抱くミレーヌに、大司教は静かに語りかけた。
「ミレーヌ様。王妃となられれば、聖女としての務めに加え、王妃としての務めも担うことになります」
「もちろん、心得ておりますわ」
「王宮での務めだけではありません。民の暮らしにも目を向け、国王陛下を支えていかなければなりません」
「わたくしなら大丈夫です。これまで、ずっとそのために学んできたのですから」
ミレーヌはそう言い切って胸を張った。
大司教はその姿を眺め、満足げに微笑む。
「準備に時間が必要であれば、静かに待つ。それもまた、王や民を支えるために必要なことなのです」
大司教がそう説くと、ミレーヌは今度こそ納得したように頷いた。
「わたくしは、聖女としても王妃としても、皆様の期待に応えてみせますわ」
大司教は満足そうに目を細める。
「頼もしいお言葉です」
ミレーヌは物覚えがよく、魔力量も多い、非常に優秀な聖女であった。
きっとよい王妃になれるであろうと、大司教は確信している。
だが、大司教が彼女に期待しているのは、それだけではない。
聖女が王妃となれば、教会と王家の結びつきは今以上に強くなる。
それは、長年教会が望んできたことだった。
大司教は、教会の権威が強まることこそ、国を安定させる一助になると考えていた。
王家と教会が同じ方向を向けば、民もまた、伝統に従って安心して暮らせる。
彼がそう信じているからこそ、聖女が王妃となることには大きな意味があった。
彼女が王妃となれば、教会にとっても新たな時代が始まるのだ。
「それでは、今後の準備については、改めてご連絡いたします」
「ええ。お待ちしておりますわ」
大司教はそう告げると、椅子から立ち上がり、部屋をあとにした。
ミレーヌは大司教を見送ってから扉を閉め、窓辺へと歩み寄った。
聖女と大司教が暮らす神殿からは、王宮の庭園が見渡せる。
庭園は夕暮れの光に照らされていた。
あの場所を、これからは自分が歩くことになるのだろう。
美しい衣装をまとい、宝石を身につけ、誰もが自分に敬意を払う。
そう思うと、胸が弾んだ。
長い年月をかけて積み重ねてきた努力が、ようやく報われるのだ。
ミレーヌは、まだ見ぬ未来に思いを馳せながら、静かに微笑んだ。




