第三話 その頃辺境では
ヴァレンシュタイン辺境伯領は、ルミナリア王国の北端に位置する。
冬になれば厳しい雪と寒風が大地を覆い、魔物が山から下りてくることも珍しくない。そんな土地を治めるのが、三十八歳の辺境伯、ルーカス・ヴァレンシュタインだった。
黒髪に灰色の瞳。鍛えられた体躯に、感情をほとんど表に出さない整った顔立ち。
領地を狙う隣国の使者も、領民を軽んじる貴族も、彼の前では自然と背筋を伸ばす。
冷静沈着。厳格で容赦がない。
いつしか人々は、彼をこう呼ぶようになっていた。
――氷の辺境伯、と。
「それで、先日の商談についてですが」
領主の執務室で、ルーカスは目の前の商人を見据えた。
「提示された条件では、我が領に利がありません。交渉は決裂と判断します」
「お、お待ちください、辺境伯閣下! こちらも譲歩できる点はございます!」
「ならば、最初からその条件を提示すべきでしたね」
淡々とした声に、商人の顔が青ざめる。
ルーカスは一歩も譲らなかった。
やがて商人が諦めて退室すると、控えていた騎士が感心したように息を吐いた。
「さすがですな、閣下。あの商人、王都では相当なやり手だと聞いておりましたが」
「領民の利益を損なう条件を呑む理由はない」
「まったくです」
騎士は深々と頷く。
その直後、執務室の扉がノックされた。
「閣下。本日の郵便物をお持ちしました」
「入れ」
入ってきたのは、長年ルーカスに仕えている執事だった。
執事は机の上に書類を置き、その中から一通の封筒を取り出す。
「こちらは王都から届いたお手紙でございます」
「王都から?」
ルーカスが顔を上げた。
「はい。差出人は……アデライード様です」
がたん、と音がした。
椅子が倒れた音だった。
先ほどまで氷のように冷静だった辺境伯が、勢いよく立ち上がっていた。
「ア、アデライード?」
「はい」
「……アデライード様から?」
「そのように申し上げましたが」
執事は動揺するルーカスに冷静に返事をする。
「…そうか」
ルーカスはそんな執事の態度に冷静さを取り戻し、ゆっくりと椅子に座り直した。
そして、何事もなかったかのように咳払いをひとつする。
「……置いていけ」
「かしこまりました」
執事は封筒を机に置き、一礼して退室した。
扉が閉まると、ルーカスはしばらく封筒を見つめていた。
上質な紙に、整然と記された宛名。
アデライード。
その名を目にしただけで、ルーカスの胸の奥は苦しくなった。
彼女と最後に会ったのは、二十八年も前のことだった。
最初に会ったときにまだ四歳だった彼女は、好奇心旺盛で、よく笑う少女だった。
少しばかりお転婆で、ルーカスの後ろをついて回った。
花を摘んでは見せに来て、木に登ろうとして侍女に止められ、好奇心のまま作った菓子を彼に押しつけてきたこともある。
『ルーカス、これ食べてみて?』
『……これは、何だ?』
『お菓子よ!』
『お菓子……』
『おいしくない?』
『いや。……おいしい』
『本当? よかった!』
あのときの笑顔を、彼は今でも覚えている。
忘れられるはずがなかった。
十歳になった彼女の婚約が決まった日、二人の未来は大きく変わった。
相手は、この国の王太子。
彼女はいずれ王妃となることが決まり、王都へ移ることになった。
その日を境に、二人が顔を合わせることはなくなった。
手紙のやり取りもない。
ルーカスは一度たりとも、自分から連絡を取ろうとはしなかった。
彼女の立場を考えれば、当然のことだった。
幼い頃に親しくしていたとはいえ、彼女は王太子の婚約者となったのだ。
辺境伯家の嫡男であった自分が個人的な親しさを理由に接触を求めれば、余計な憶測を招くかもしれない。
ましてや、彼女に対する自分の想いは、ただの幼なじみという言葉では片づけられないものだった。
幼い頃から、彼女が好きだった。
彼女が笑えば嬉しかった。
自分の姿を見つけて駆け寄ってくれば、それだけで一日中幸せだった。
彼女がほかの誰かと結婚する未来など、想像したくもなかった。
それでも、彼女の幸せを願う気持ちだけは、何よりも確かだった。
だから、諦めた。
いや、諦めたつもりで、ずっと胸の奥にしまい込んできた。
王太子妃となり、やがて王妃となった彼女。
王宮から届く公式の報せに、その名を見つけるたび、密かに安堵した。
王妃として国を支えていると聞けば、誇らしく思った。
だが、その一方で、彼女が自分の知らない場所で、知らない誰かと笑っているのだろうと思うと、胸が痛んだ。
それでも、彼女が幸せならば、それでよかった。
そう思えるようになるまでに、ずいぶん時間がかかったけれど。
ルーカスは慎重に封を切った。
そこには、懐かしい名前とともに、整った文字で短い手紙が綴られていた。
『久しぶりね、ルーカス。
突然のお便りをお許しください。
実は、このたび王妃の座を退くことになりました。
今後の住まいを考えるなかで、幼い頃に過ごしたモルトのことを思い出しました。
またそちらの領地のほど近い場所に住むことになりますが、ご迷惑をおかけしないようにいたしますので、気にしないでいただければ幸いです。
アデライード』
「…………は?」
思わず声が漏れた。
王妃の座を、退く。
彼女が。
アデライードが。
ルーカスは手紙を持ったまま固まった。
何度読み返しても、文字は変わらない。
王妃を辞める。
そして、モルトに戻ってくる。
自分の領地の近くに。
ルーカスの胸は、痛いほどに鳴っていた。
会いたい。
会いたかった。
二十八年もの間、ただ一度でいいから、もう一度彼女に会いたいと思っていた。
けれど、いざその機会が訪れたとなれば、どうすればいいのかまるでわからない。
何を話せばいい?
彼女は自分のことを覚えているだろうか。
いや、覚えているからこそ、手紙をくれたのだろうか。
それとも、昔の知り合いとして挨拶をしただけかもしれない。
そもそも、王妃の座を退くとはどういうことだ。
彼女は望んで王宮を離れるのだろうか。
それとも、何か事情があるのだろうか。
もし、つらい思いをしているのなら。
もし、誰かに傷つけられたのなら。
そこまで考えたところで、ルーカスは強く目を閉じた。
「……落ち着け」
彼女はまだ何も語っていない。
勝手に想像して、勝手に心配して、勝手に思い詰めるなど、あまりにも失礼だ。
まずは、事情を知る必要がある。
王妃がその座を退くなど、王家にとっても国にとっても小さな出来事ではないはずだ。
それなのに、手紙には詳しい事情が何も書かれていない。
ルーカスは呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、先ほどの騎士が戻ってくる。
「お呼びでしょうか、閣下」
「王都の情報を集めてほしい」
「王都、ですか?」
「ああ。王宮で何が起きているのか、王妃殿下が王妃の座を退かれることになった経緯を調べてくれ。公式発表だけではなく、可能な範囲で実情も確認してほしい」
騎士は目を丸くした後、表情を引き締めた。
「承知しました。何か特別な事情が?」
「まだわからない。辺境に何か被害があるとは思わないが、事情を知らずにいるわけにもいかないだろう」
「かしこまりました」
騎士は一礼した。
「それから、情報を集める際には慎重に。王妃殿下のお名前を不用意に出すことのないようにしてくれ」
「承知いたしました」
騎士が退室しようとした、そのとき。
「……ああ、待て」
ルーカスは思わず騎士を引き止めた。
「はい?」
「いや……」
しかし、次の言葉が出ずに言いよどんでしまう。
彼女がモルトに戻ってくるのなら、何か困ったことがあったときに力になれるよう、準備をしておきたい。
屋敷の修繕が必要かもしれない。
生活に必要なものが足りないかもしれない。
王宮での暮らしと、領地での暮らしは違う。
いや、彼女には自分の領地もあるのだから、そんな心配は必要ないのかもしれない。
そもそも、勝手にあれこれ準備をすれば、迷惑に思われる可能性だってある。
「……いや、何でもない。下がっていい」
結局、ルーカスは何もしないことを選んだ。
「はっ」
騎士は一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、素直に退室する。
ルーカスは1人になった部屋で、深く息を吐いた。
会いたい。
けれど、彼女が自分を頼ってくれるとは限らない。
まだ詳しい事情はわからないが、彼女が王妃としての務めを終え、ようやく自由を手にしたのだとしたら。
その新しい人生に、自分の想いを押しつけるつもりはなかった。
彼女が望むなら、力になろう。
困っていることがあれば助けよう。
けれど、それ以上を求めてはいけない。
彼女が笑って暮らせること。
それが、ルーカスの何よりの願いだった。
「……閣下」
再び扉がノックされた。
「入れ」
入ってきたのは、長年ルーカスに仕えている年配の執事だった。
「昼食のお時間でございます」
「もうそんな時間か」
「はい。それと、先ほどは王都からのお手紙が届いておりましたが、何かございましたか?」
「……いや。昔の知り合いからの手紙だ」
「左様でございますか」
執事はそれ以上、詳しく尋ねなかった。
ただ、主人の顔を見て、ほんのわずかに目を細める。
ルーカスは気づかなかった。
いや、気づいていたが、気づかないふりをした。
「……何だ」
「いえ。閣下がそのように落ち着かないご様子なのは、珍しいと思いまして」
「落ち着いている」
「そうでございますか」
執事は穏やかに微笑んだ。
「それならば、よろしゅうございました」
その言い方が妙に気になったが、ルーカスは追及しなかった。
執事が退室すると、彼は引き出しを開けた。
もう一度、手紙を取り出す。
整った文字。
かつて知っていた少女の面影を探しても、そこにはもう、幼い頃の拙い筆跡など残っていない。
十八年もの間、王妃として生きてきた女性の文字だった。
自分の知らない場所で、彼女はどれほどのことを学び、経験し、乗り越えてきたのだろう。
彼女の人生に、自分の知らない時間が積み重なっている。
当たり前のことなのに、それがひどく寂しかった。
「……立派になられたのだな」
ぽつりと呟く。
そして、手紙の最後の一文を読み返した。
『気にしないでいただければ幸いです』
「……気にするに決まっているだろう」
誰にも聞かれないよう、小さな声で呟いた。
二十八年間、ずっと気にしていた。
そして、これからも。
ルーカスは手紙を大切に封筒へ戻した。
胸の奥にしまい込んできた想いは、十八年経った今も、少しも色褪せてはいなかった。




