第二話 旅立ちの前に
謁見の間を後にしたアデライードは、王妃の私室へと戻っていた。
長年暮らしてきた部屋は、いつもと何ひとつ変わらない。
窓辺に置かれた花瓶には、今朝、侍女が生けてくれたばかりの花が飾られている。
机の上には、今日中に目を通す予定だった書類が積まれていた。
「明日、陛下と宰相、王宮秘書官と話し合いがしたいわ。調整をお願いできるかしら?」
アデライードは椅子に腰を下ろすと、まずは秘書官にそう声をかけた。
「かしこまりました」
秘書官はすぐに頭を下げ、部屋を出ていく。
なんとなくその背が見えなくなるまで目で追ってから、アデライードは机の上の書類に手を伸ばした。
この王国では、病院や孤児院など、主に福祉に関する施策が王妃の名の下に行われている。
また、地方の視察が必要な場合、王の代わりに王妃が赴くことも少なくない。そのため、視察先の資料や、過去の視察で対策を講じた事柄の経過報告などにも目を通す必要があった。
聖女ミレーヌは、九歳で魔力を発現し、その後、十六歳になる今日まで聖女と王妃になるべく教育を受けてきたという。
かといって、突然すべての公務をこなせと言うのは酷であろう。
アデライードは書類に目を通しながら、ミレーヌに引き継ぐものと、事務官など他の者に託すものとを頭の中で整理していった。
翌朝。
アデライードは、国王アルベルトの執務室を訪れていた。
室内にはアルベルトのほか、依頼したとおり宰相と王宮秘書官の姿もある。
「……本当に、離縁するつもりなのか」
開口一番、アルベルトは不機嫌そうに尋ねた。
「昨日も申し上げたとおりですわ」
「一晩考えてみて、思い直すことはなかったのか?」
「ええ。考えた結果、やはり離縁するのが最善だと思いました」
にこやかに答えるアデライードに、アルベルトは眉間のしわを深くする。
昨日は突然の提案に驚き、アルベルトにはまともに考える余裕もなかった。
しかし、一晩経って冷静になってみれば、妻の言葉をそのまま受け入れるわけにはいかないという思いが強くなっていた。
そもそも、十八年間連れ添った妻である。
王妃としての役目を果たしてきたことも、王宮の運営にどれほど尽力してきたかも、アルベルトは理解している。
だからこそ、簡単に手放せるはずがなかったし、アデライードもそうであるはずだと考えていた。
アルベルトは自分を落ち着かせるように一度深く息を吐いてから、アデライードに再度話しかけた。
「そもそも、聖女を王妃に迎えることと、お前が離縁することは別の話だろう」
「ですが、陛下は聖女様を王妃に迎える必要があるとお考えなのでしょう?」
「それは……」
「でしたら、わたくしが身を引くのが、最も円満な解決策だと思いますわ」
アデライードは、困惑するアルベルトとは違い、一貫して穏やかな口調を保ちながらも、決して主張を変えない。
アルベルトは言葉に詰まった。
確かに、アデライードが離縁すれば、ミレーヌを王妃に迎えることができる。
レオンは愛する婚約者と結婚できるし、婚約者の父である公爵への謝罪や調整なども必要がなくなる。
国王として考えれば、合理的な案であることは否定できなかった。
「……わかった。お前の意思が固いのなら、離縁については認めよう」
不本意そうに言いながら、アルベルトは宰相へと視線を向けた。
「ただし、手続きもある。すぐに王宮を出ていくというわけにはいかないだろう」
「もちろんですわ。引き継ぎには十分な時間を設けるつもりです」
アデライードがそう答えると、宰相が一歩前に出た。
「それでは、王妃殿下が担っておられる公務について、整理を進めましょう。各地の貴族との面会、慈善事業の監督、王宮行事の調整、それから……」
「隣国の王妃様方との書簡のやり取りもございますわ。年末の舞踏会については、招待客の選定をすでに始めておりますが、最終決定はまだです」
「そうでしたな。加えて、来月には北部からの使節団が……」
「そちらについては、先方の希望日程を確認したうえで、陛下の予定と調整する必要があります。秘書官、先方から届いている書簡を確認しておいてください」
「かしこまりました」
王宮秘書官が手元の書類に目を落とし、慌ただしく書き留めていく。
アデライードは次々と必要事項を挙げていった。
公務の内容だけではない。
誰に連絡を入れる必要があるのか。どの貴族との関係に配慮すべきなのか。毎年の行事であっても、担当者が変われば進め方が変わるものは何か。
それらを一つずつ確認していく。
宰相も秘書官も、彼女が担ってきた仕事をよく理解していた。
だからこそ、引き継ぎに必要な項目が増えるたび、二人の表情は徐々に険しくなっていく。
「……これは、なかなか骨の折れる作業になりそうですな」
宰相が書類の束を見下ろし、苦笑した。
「そうですね。少なくとも、一月で終わる量ではありません」
秘書官も同意するように頷いた。
「わたくしも、できる限り協力いたしますわ。何もかも一度に変える必要はありませんから、優先順位を決めて進めていきましょう」
「ありがとうございます、王妃殿下」
二人は深く頭を下げた。
アルベルトは、その様子を黙って見つめていた。
アデライードがどれほど多くの仕事を担ってきたのか、彼は知っている。
知っているからこそ、彼女がいなくなった後のことを考えると、頭が痛くなる。
しかし、それ以上に気にかかることがあった。
「……アデライード」
「はい、陛下」
アデライードの名を呼べば、いつもどおりの穏やかな声で返事が返ってくる。
先ほど離縁を決めたことが、まるでなかったかのように思えてくるほどだ。
「お前は、王宮を出たあと、どうするつもりなのだ?」
アデライードの顔を見つめながら、アルベルトはそう尋ねた。
アデライードは少しだけ目を丸くしたあと、穏やかに微笑む。
「これから考えますわ。ただ、しばらくは静かな場所で暮らしたいと思っております」
「静かな場所、か……」
アルベルトは、それ以上何も言えなかった。
妻が王宮を去る。
その事実が、自分の中でまったく現実味を帯びていなかった。
公務の引き継ぎと並行して、離縁に伴う財産の整理も進められることになった。
王妃としての立場を失えば、当然ながら、これまで自由に使えていた王宮の施設や予算を利用することはできなくなる。
けれど、アデライードには、王妃になる前から持っていた財産がある。
公爵家から持参した財産に加え、母方の祖母から受け継いだ資産。そして、王妃となってからも個人の財産として管理してきた資金があった。
「アデライード工房の収益については、これまでどおり殿下の個人資産としてお受け取りいただけます」
さらに、彼女にはもう一つ、継続的な収入源がある。
財務担当者の説明に、アデライードは頷いた。
アデライード工房は、彼女が王妃となってから立ち上げた事業の一つだ。
刺繍や織物の技術を持ちながら、働く機会に恵まれない女性たちを支援するために始めたものだった。
当初は小さな工房にすぎなかったが、職人たちの技術と品質が評判を呼び、今では王宮や貴族からの注文も多い。
職人の育成や生活支援に必要な資金を確保したうえで、事業から得られた利益の一部は、アデライード個人の資産として積み立てられている。
王妃の名を冠していたが、人材や運営費などを王宮で管理していたわけではなく、独立した経営になっている。
そのため、現状を維持したままでよいと判断されたようだ。
アデライードは一つ頷いてから話を進めた。
「わかりました。宝飾品などは、王妃になってから購入したものは置いていきます。リストとの照合を、わたくしの侍女と一緒に宝飾部の方と行ってもらえるよう手配をお願いします」
「宝飾品につきましては、国宝に指定されているもの以外は、アデライード様がお持ちになるようにとのことです」
「あら……」
しかし、財務官の言葉に、アデライードは目を丸くした。
「陛下から贈られたものにつきましては、陛下個人の資産から購入されております。王妃の予算から購入したものにつきましても、陛下の資産で補填されるそうです」
「そんなの、申し訳ないわ」
財務官の思いもよらない言葉に、アデライードは首を振った。
「……大変僭越ながら申し上げますが、こちらは受け取っていただいた方が、陛下もお喜びになるかと存じます」
財務官は少し言いにくそうにしながらも、そう答えた。
「そうなの?」
「はい」
「そう……。でも、そんなには必要ないから、陛下から贈られたものだけいただいていこうかしら」
「ええ、そうなさいませ」
戸惑いながらもアデライードが受け入れると、なぜか財務官は満足げに頷いた。
その日の午後、アデライードは実家である公爵家を訪れた。
父である公爵は、娘から離縁の話を聞くなり、厳しい表情で眉をひそめた。
「……お前は、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「もちろんです、お父様」
「王妃の座を退くということが、どういう意味を持つのか、わかっているのかと聞いているのだ!」
公爵の怒声が、応接室に響く。
娘が王妃となったことは、公爵家にとって大きな誇りであり、政治的にも重要な意味を持っていた。
それを自ら手放すというのだから、簡単に納得できるはずもなかった。
「陛下との関係はどうする? 王家とのつながりは?お前が離縁したことで、余計な問題が起こる可能性もあるのだぞ」
「ですから、そうならないように進めております」
「何?」
アデライードは、終始落ち着いた声で説明した。
聖女ミレーヌを王妃に迎えるという国王の希望は、彼女が身を引けば叶えられること。
レオンは王太子の地位を維持し、エレノアとの婚約も続けることができること。
王位継承に関する問題も生じないこと。
「陛下が望まれたことを、わたくしが退くことで実現できるのです。王家と公爵家が、無用な争いを起こす必要はありませんわ」
「……それは、そうかもしれんが」
「それに、レオンが王太子のままでいられるならば、そこまでお父様にとっても悪い話ではないでしょう?」
公爵は、言葉を詰まらせた。
孫が次代の王となる。
そうすれば、娘が王妃でなくとも、現在の公爵家の地位は揺るがないであろう。
「もちろん、わたくしが王妃の座を退くことで、さまざまな憶測が流れる可能性はあります。ですが、聖女様を王妃に迎えるため、自ら身を引いたという経緯が正しく伝われば、民衆からも理解を得られるのではないでしょうか」
「……お前は、そこまで考えているのか」
「考えずに決められることではありませんもの」
公爵は深いため息をつき、椅子の背もたれに身を預けた。
しばらく黙り込んだあと、重い口を開く。
「それで、お前はこれからどうするつもりなのだ?」
出てきたのは、娘の今後を心配する言葉だった。
アデライードは父の愛を感じ、表情を緩める。
そして、思い出の地を口にした。
「北の辺境に近い、モルトにある館で暮らしたいと思っています」
「モルトだと?」
公爵は、意外そうに目を見開いた。
「王都を離れて、あのような遠い場所で暮らすというのか?」
「ええ。幼い頃に過ごした場所ですもの。懐かしいですし、静かに暮らすにはちょうどよいと思いますわ」
王妃時代には振り返ることもなかったが、今後の生活を考えたときに浮かんだのは、まだ王太子の婚約者となる前に過ごしていた頃のことだった。
「……あの場所が、そんなに気に入っていたのか」
「はい」
木々の間を駆け回った日々。
草花を摘み、野原で遊び、日が暮れるまで友人たちと過ごした時間。
ただ、アデライードという一人の少女として、毎日を楽しんでいた頃。
「……そうか」
公爵は、娘の顔をじっと見つめた。
娘はいつも穏やかであったが、今の表情を見れば、王妃であった日々には、こうした柔らかさがなかったことがわかる。
「お前がそう決めたのなら、止めはせん」
この先、娘がより幸せになることを祈りながら、公爵はアデライードにそう告げた。
「ただし、何かあればすぐに連絡しなさい。どれほど遠くにいようと、お前は私の娘なのだからな」
「お父様……ありがとうございます」
アデライードは、潤みそうになった瞳を隠すように、深く頭を下げる。
公爵は気恥ずかしそうに咳払いをすると、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、その館はヴァレンシュタイン辺境伯の領地にも近かったはずだな」
「ええ。そうですわ」
「……お前、まさか」
どこか嬉しそうなアデライードを見て、公爵が思わず呟いた。
「まさか、何でしょう?」
アデライードは、その呟きに不思議そうに首を傾げる。
公爵は何か言いたげに口を開き、結局、深いため息をついた。
「いや……お前が元気に暮らせるのなら、それでよい」
公爵は、今でも覚えていた。
幼い頃、娘がどのような顔で辺境伯家の少年の話をしていたのか。
しかし、本人はすっかり忘れているらしい。
それならば、今は何も言わずにおこう。
どのような道でも、今のアデライードなら幸せを掴めるだろうから。
王宮へ戻ったアデライードは、夕食を終えると自室へと下がった。
今日は父とも話ができた。
離縁後の住まいも決まり、財産の整理も進んでいる。王宮での引き継ぎにはまだ時間がかかりそうだが、少しずつ先が見えてきた。
北の辺境。
幼い頃に過ごした、懐かしい場所。
そこへ戻るのだと思うと、不思議と心が弾んだ。
そして、もう一つ。
あの場所には、幼い頃に親しくしていた少年がいる。
ルーカス・ヴァレンシュタイン。
今では立派な辺境伯となった彼とは、十歳で王太子との婚約が決まって以来、一度も連絡を取っていない。
もちろん、彼の活躍については耳にしている。
北の辺境を治める優れた領主であり、領民からも慕われているのだという。
彼は今、どのような暮らしをしているのか。
昔のように笑うのか。
それとも、すっかり大人びて、幼い頃のことなど忘れてしまったのか。
アデライードは、ふと考えてしまった自分に苦笑した。
「……別に、彼に会いに行くわけではないのに」
幼い頃に過ごした場所に戻り、静かに暮らしたい。それだけのこと。
そこまで考えて、ふと心配が頭をよぎった。
元王妃が自分の領地の近くに越してきたら、謀反を疑われているのかと、相手に警戒させてしまうのではないだろうか。
「先にお手紙を差し上げるべきかしら?」
誰にともなく呟き、アデライードは机に向かった。
便箋を一枚取り出し、羽ペンを手に取る。
ところが、いざ書こうとすると、何から伝えればよいのかわからなかった。
久しぶりの挨拶?
それとも、先に突然の離縁について説明するべきだろうか?
「困ったわ……」
王妃として、各国の王族や貴族に手紙を書くことには慣れている。
それなのに、幼い頃の友人に宛てる手紙一つで、こんなにも悩むことになるとは思わなかった。
しばらく考えた末、アデライードはようやくペンを動かした。
『久しぶりね、ルーカス。
突然のお便りをお許しください。
実は、このたび王妃の座を退くことになりました。
今後の住まいを考えるなかで、幼い頃に過ごしたモルトのことを思い出しました。
また、そちらの領地にほど近い場所に住むことになりますが、ご迷惑をおかけしないようにいたしますので、気にしないでいただければ幸いです。
アデライード』
書き終えた手紙を読み返す。
ずいぶんと砕けた文章になってしまった。
王妃ではないアデライードがどのように手紙を書いていたのか、すっかり忘れてしまっていることに、思わず笑いが込み上げてくる。
しかし、彼ならば許してくれるだろうと考えることにして、アデライードは封筒を取り出した。
封蝋を施し、宛名を記す。
届け先は、ヴァレンシュタイン辺境伯邸。
手紙を託す準備が整うと、アデライードは封筒を両手で持ち、しばらく眺めた。
王妃ではなく、ただのアデライードとしての手紙である。
彼女の新しい人生は、静かに動き始めていた。




