第九話【逆さの封蝋】
王の命を受けた、その夜。
密偵『影』は、クラリネス侯爵邸の庭に身を潜めていた。
巡回する私兵の足音が遠ざかる。影は木の枝へ音もなく飛び移り、二階の窓を見上げた。
(さすがは筆頭侯爵の屋敷。正面から忍び込むのは、骨が折れそうだ)
厚いガラスの向こうには、机へ向かうエルザの姿があった。
王の前でまとっていた赤いドレスは、そのまま。
そばには、老執事が控えている。
エルザは二通の手紙を封筒に収め、それぞれの封じ目へ赤い封蝋を垂らした。
クラリネス家の紋章が刻まれた印章を、一通ずつ押し当てる。
スマホが普及した今も、高位貴族の重要な用件には、差出人の証しとなる封蝋付きの手紙が使われていた。
エルザが一通の封筒を指で示し、老執事へ何かを告げる。
窓に遮られ、声は届かない。
影は唇の動きへ目を凝らした。
『辺境伯』
それだけは、読み取れた。
エルザは続いて、もう一通を老執事へ渡した。しかし、横を向いた顔からは、何を言っているのかわからない。
(一通は辺境伯宛てか。もう一通は、どこへ送る?)
老執事が頭を下げ、二通の手紙を持って部屋を出た。
影は枝の上で、しばらく考えた。
辺境伯の居場所はわかっている。
あちらへ向かった手紙なら、後からでも探せる。
だが、もう一通は違う。使者を見失えば、誰と通じているのかもわからなくなる。
(先に、行き先のわからない方だ)
巡回する私兵が、再び庭へ入ってくる。
その足音に紛れ、影は枝を離れた。
──
翌朝。
侯爵邸の裏門から、二台の馬車が出発した。
一台は、辺境伯の領地へ続く街道へ。
もう一台は、別の方角へ。
影は迷わず、後者を追った。
王都を離れると、馬車は街道沿いに進み続けた。使者は一人。御者のほかに、護衛はいない。
(人目を避けたい用件か……)
影は道から外れ、木々の間を移動した。
まだ、手紙へ手を出すつもりはない。
届けた相手を確かめてからでも、遅くはなかった。
街道を半日ほど進んだ頃、馬車の行く手へ男たちが飛び出した。
「止まれ!」
剣や短槍を手にした、数人の野盗だった。
御者が慌てて手綱を引く。
馬がいななき、車輪が止まった。
「命が惜しけりゃ、金目のものを置いていけ!」
使者が馬車から降りた。震える手で鞄を差し出そうとして、地面へ落とす。
「ほ、ほかには、何も──」
「だったら、さっさと失せろ!」
使者は森へ逃げ込んだ。
御者も御者台から飛び降り、その後を追う。
影は木の上から見ていた。助けに入れば、姿を見られる。そもそも、使者を守るよう命じられてはいない。
「ちっ。大した金は入ってねえな」
野盗の一人が鞄を逆さに振る。小銭と封筒が、地面へ落ちた。
「貴族の手紙か。中に金でも挟んでねえのか?」
男は封を乱暴に破り、手紙を引き出した。
「……紙だけじゃねえか」
「手紙なんざ、何の足しにもならねえよ」
手紙が丸められ、道端へ落とされた。
破れた封筒は、街道脇の川へ投げ捨てられる。
赤い封蝋が一度だけ水面へ浮かび、流れに乗って遠ざかった。
影は舌打ちした。
だが、野盗たちがいる間は動けない。
男たちは鞄からわずかな金品を抜き取り、馬車を残して立ち去った。
足音が消えるのを待ち、影は地面へ降りた。
まず川を見た。封筒は、もう見えなかった。
(宛名を失ったか……)
道端の手紙を拾い、丸められた紙を慎重に広げる。
相手の名は、本文にも記されていない。
それでも末尾の署名を見れば、誰が書いたものかは確かだった。
エルザ・フォン・クラリネス。
影は本文へ目を戻した。
読み進めるうちに、眉が寄る。
最後の一行へたどり着いた時には、思わず息を呑んでいた。
(あの小娘……。とんでもないことを考えてやがる)
ただの婚約者への手紙ではない。
王へ差し出せば、エルザの身を左右する証拠になる。
だが、誰へ協力を求めたのかがわからない。
行き先を確かめるために追ったのに、手元へ残ったのは、差出人を裁くための手紙だけだった。
影は紙を丁寧に畳み、懐へ入れた。
(あとは、辺境伯だ)
影は王都へ戻らず、そのまま辺境伯の領地へ向かった。
──
数日後。
辺境伯の屋敷へ忍び込んだ影は、書斎を探っていた。
机の上。引き出し。書類を収めた棚。目的の手紙は、見当たらない。
暖炉には、新しい灰が残っていた。
(すでに、燃やされたか……)
廊下から、足音が近づく。影は壁際へ身を寄せた。
使用人の声が聞こえ、やがて足音が遠ざかる。
もう一度、机へ目を向けた時だった。端に置かれた空の封筒が目に入った。
赤い封蝋。
クラリネス家の紋章。
影は手を伸ばしかけ、止めた。
(……逆さ?)
紋章の上下が、逆になっていた。
貴族の間で、逆さに押された封蝋は、反逆の意思を示す合図となる。
あの娘は、ただの挨拶を送ったわけではない。
影は封筒を持ち上げた。
中には、何も残っていなかった。
(中身を燃やしても、これを残してしまったか)
少なくとも、エルザが辺境伯へ何かを持ちかけた証拠にはなる。
影は空の封筒を懐へ収め、書斎を出た。
──
玉座の間。
影が差し出した手紙を、王は黙って読んでいた。
「……なるほど。あの小娘なら、考えそうなことだ」
続いて、辺境伯の屋敷から持ち帰った封筒を取り上げた。逆さの紋章を、指先でなぞる。
「この手紙を、誰へ送った?」
「宛名のある封筒が川へ流され、確かめることができませんでした」
「使えぬ奴め」
影は深く頭を下げた。
「では、辺境伯へ送った手紙は?」
「すでに燃やされていたものと思われます。屋敷には、この封筒だけが残っておりました」
「何を持ちかけたのかは、わからぬということか」
「申し訳ございません」
王が、封筒を指先で弾いた。
「余へ忠誠を誓った足で、逆さの封蝋を送るとはな」
「ただちに、娘を捕らえますか?」
「まだだ」
影が顔を上げた。
「ですが、こちらの手紙が本物であれば──」
「余が決めることだ」
王は便箋を持ち上げ、光へかざした。
紙の上には、エルザの署名がある。
「ランダル家の権利は、まだこちらへ移されておらぬ。あの娘を今潰せば、取れるものまで取り損なう」
「申し出を、引き続きお認めになるのですね」
「忠誠を信じたのではない。欲を利用したのだ」
王の目が、影へ戻った。
「監視を続けろ。誰と通じているのか、今度こそ突き止めよ」
「御意」
「娘の動きだけではない。こちらへ届く報告とも、食い違いがないか確かめるのだ」
影はもう一度頭を下げ、玉座の間を去った。
王は、婚約と資金援助の契約書の写しを引き寄せた。その隣へ、密偵が拾った手紙を置く。
二枚の紙には、同じ娘の署名があった。
一枚は、ランダル家を奪うために。もう一枚は、エルザを捨てるため──。
王はその両方を、手元に残した。




