第十話【婚約者の敗北を祈って】
それから数ヶ月後。
厚いカーテンを閉じた自室で、魔力通信のモニターだけが青白い光を放っていた。
机の端には、王へ届けた報告の控えが積まれている。
権利移転の準備は進んでいる。
そう信じさせるために、何度も書類を作り直した。
けれど、王と約束した数ヶ月は、もう終わろうとしていた。
『第一試合! 久遠アラタ、対、レオン・ランダル!』
画面の向こうは、神託都市オラクルの闘技場。
歓声の中へ、レオンが姿を現した。
背筋を伸ばし、大剣を携えた姿は凛々しい。あの日、援助を求めに来た時の疲れも、今は見えなかった。
何ヶ月も、剣を振り続けてきたのだろう。
わたくしから自由になるために。
レオンが優勝すれば、婚約を解消する。
その約束を破るつもりはなかった。
けれど今の彼が勝てば、また一人で何もかも救えると信じてしまう。
そのまま王へ立ち向かっても、あの人は試合の規則など守ってくれない。
わたくしは、胸の前で両手を組んだ。
どうか、負けて。
けれど、死なないで。
愛する人へ向けるには、あまりにも身勝手な祈りだった。
『身の程をわきまえよ。測定不能ごときが、私と同じ舞台に足を踏み入れるとは──』
レオンの声に、顔を上げた。
向かいに立つのは、黒髪の青年。
剣も盾も持たず、腰には小さなナイフだけが見える。
あの人が、久遠アラタ。
レオンは相手を、羽虫でも見るような目で眺めていた。
『あのマスターも焼きが回ったものだ。こんな者を生かしておくとはな。いや……その程度の能力だから片腕なのか』
中継の画面が、闘技場の入口付近へ切り替わった。
片腕の大男が、二人を見守っている。
その表情が、わずかに強張った。
「レオン……」
その人は、あなたを傷つけていないでしょう。
どうして、そんなことを言うの。
わたくしが問いかけるより先に、画面が二人へ戻った。
『……マスターの腕のことは、あんたには関係ないだろ』
アラタの声は低かった。
『事実を言ったまでだ。さっさと消えろ、欠陥品』
レオンが大剣を構える。
『……私の視界を汚すな』
幼い頃、身分など気にせず、名も知らぬ子供のために泥へ飛び込んだ人。
その口から、今の言葉が出ている。
息が詰まった。
そして、試合開始の銅鑼が鳴った。
レオンが踏み込み、大剣を頭上へ振りかぶる。
相手はナイフしか持っていない。まともに受ければ──。
アラタが動いた。
振り下ろされる刃を、わずかに体をずらして躱す。
すれ違いざま、小さなナイフが大剣へ触れた。
甲高い音。
鋼の塊であるはずの刃が、薄いガラスのように砕け散った。
『──なっ!?』
レオンが目を見開く。
無数の破片が光を反射し、闘技場の地面へ降り注いだ。
あの剣には、どれほどの時間が刻まれていただろう。
お母様を失っても。
誰から罵られても。
レオンが手放さず、振り続けてきた剣。
わたくしは、モニターへ身を寄せた。
『……剣を見ればわかる。それだけ努力できるのに、思いやりだけが欠けてるのは──なぜだ?』
アラタの静かな声が届く。
わかるの……?
家名でも、Aランクの力でもなく。
あなたは、あの剣を見て、レオンの努力がわかるというの?
『思いやるには──小さすぎる存在だからだぁ!』
レオンが叫んだ。
後ろへ飛び退き、空いた手を突き出す。
『王火槍陣!』
頭上に、数百もの炎の槍が浮かび上がった。
逃げ場を残さない、広範囲の攻撃。
『消し飛べえええっ!』
炎の雨が降る。
爆音と共に画面が赤く染まり、アラタの姿が見えなくなった。
駄目。
レオンに、人を殺してほしいわけではない。
わたくしは両手をほどき、机へついた。
炎の中から、人影が現れる。
アラタだった。
ただ、歩いている。
炎の槍が落ちる直前、ほんのわずかに進む方向を変える。
その足元で炎が弾け、肩のそばを赤い光が通り過ぎた。
一歩。
また、一歩。
歩みが止まることはない。
『嘘だろ……歩いているだけだぞ……?』
観客の声が漏れた。
わたくしも、息をすることを忘れていた。
偶然ではない。
まるで、あの人にだけ安全な道が見えているようだった。
『ば、馬鹿な!? なぜ当たらない!』
レオンがさらに魔法を放つ。
炎が広がる。
それでも、アラタは避ける。
レオンが大きく腕を振り、次の魔法を放とうとした時には、すでに目の前へ立っていた。
『ひっ──』
後ずさろうとしたレオンの足がもつれた。
尻もちをついた体へ、アラタがかがむ。
ナイフの刃が、首筋へ当てられた。
「やめて……」
声が、勝手にこぼれた。
もう、十分でしょう。
負けたのだから。
お願い。
その人を、殺さないで。
闘技場は、静まり返っていた。
レオンが動かない。
アラタも、刃を引かない。
『……その小さすぎる存在に、マスターは頭を下げてくれたぞ』
静かな声だった。
『お前の小さなプライドなんかより、ずっと大きな人だ』
レオンの唇が動いた。
『……参った』
かすれた声だった。
肩から力が抜ける。
その姿を確かめ、アラタがナイフを離した。
『しょ、勝者──久遠アラタ!』
わたくしは机の縁を、強くつかんだ。
レオンは、まだそこにいる。
首へ手を当て、呆然と座り込んでいる。
生きている。
「ああ……」
息が震えながら抜けた。
画面の向こうでは、戸惑う声が上がり始めていた。
『レオンは、Aランクだぞ……』
『あの男、ナイフ一本で……』
誰の目にも、言い訳のできない敗北だった。
大剣も、魔法も、家名も。
レオンがすがっていたものは、何一つアラタへ届かなかった。
けれど、あの人はレオンの命を奪わなかった。
「ありがとう……」
モニターへ、震える指先を伸ばす。
アラタはレオンを見下ろしていたが、笑ってはいなかった。
剣の傷から、努力を見つけてくれた人。
その言葉が届いたなら、レオンはまだ、自分の強さ以外にも目を向けられるかもしれない。
わたくしは画面に映る彼を見つめた。
レオン。
あなたが弱いから、負けてほしかったのではないの。
一人で強くあろうとして、壊れてしまうのが怖かった。
もう一度、誰かと笑ってほしい。
その隣に、わたくしがいなくても。
──
同じ中継を、王城でも一人の男が見つめていた。
王は歓声の響くモニターを消し、傍らに控えていた近衛隊長ガイゼルへ顔を向ける。
「ランダル公爵を捕らえよ」
ガイゼルが、わずかに目を見開いた。
「しかし陛下。武闘会が終わるまでは、ランダル家への断罪を行わぬと、クラリネス令嬢へ──」
王は、机の上に置かれた逆さの封蝋を指先で転がした。
「余は、捕らえぬとは約束しておらぬ」
「……公爵様を、どちらへ?」
「王城へ連れてこい」
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「処刑の準備をしておけ」
「公表はなさいますか……?」
「必要ない」
ガイゼルは一瞬だけ迷い、やがて頭を下げた。
「……御意」
──
試合後の映像へ切り替わったところで、モニターを消した。
薄暗い画面に、自分の顔が映る。
泣いているくせに、口元には笑みが浮かんでいた。
愛する人が敗れたことに、安堵している。
レオンが知ったら、きっと、ますますわたくしを嫌うだろう。
コンコン──。
扉が鳴った。
「お嬢様。よろしいでしょうか」
「少し待ってちょうだい」
涙を拭った。
もう一度、拭った。
それでも、頬へ新しい涙が落ちてくる。
わたくしは顔を上げ、長く息を吐いた。
二度と、人前では泣かない。
あの夜の誓いを繰り返し、扇子で口元を隠す。
「ええ。入ってちょうだい」
爺が静かに入ってきた。
わたくしの赤くなった目元を見て、わずかに眉を下げる。
「レオン様は、数日後に船で王都へ戻られる予定です。お迎えの馬車をご用意いたしましょうか」
「ええ。港からランダル公爵邸まで、丁重にお送りして」
「かしこまりました」
爺が頭を下げる。
「……お嬢様も、公爵邸へ向かわれるのですね」
「そうよ」
扇子の向こうで、唇を引き結んだ。
負けたレオンは、約束を守るために帰ってくる。
わたくしと結婚し、クラリネス家のために生きるつもりで。
だから今度は、わたくしがその約束を壊す。
「赤いドレスを、用意しておいて」
爺の目が、かすかに揺れた。
「承知いたしました」
それだけ答え、一度深く頭を下げる。
「その日は、私もお供いたします」
「爺……」
「理由は、お尋ねいたしません」
穏やかな声だった。
わたくしはうなずき、机へ目を戻した。
積み上げた報告書。
王を待たせるための嘘。
レオンを遠ざけるための婚約。
そのすべてが、彼の帰還で終わりへ向かう。
次に会う時、わたくしは婚約破棄を突きつける。
彼が王都を離れる時、わたくしが足かせにならないように。
わたくしは、薄暗くなったモニターへ両手を重ねた。
レオンが生きている。
そのことだけに安堵しながら。
彼が帰るべき家から、たった今、父親が奪われたことも知らずに──。




