第八話【王と悪女の取引】
玉座の間へ入ると、王の手元には、見覚えのある書類があった。
ランダル家への資金援助を記した契約書。その写しだ。
玉座から見下ろす王の目は、蛇のように冷たい。
「援助をやめよ」
呼吸が止まりかけた。
「婚約も解消しろ。今ならば、そなたの父親の責任までは問わぬ」
王は、わたくしの背後へ目を向けた。
扉の両脇に立つ近衛兵たちは、微動だにしない。
お父様まで、巻き込まれる。
レオンとの婚約を結んだ時から、わかっていたことだった。
わたくしは頭を下げなかった。
「それでは、陛下が損をなさいます」
「……何?」
「陛下は近いうちに、ランダル家を反逆罪で断罪なさるおつもりなのでしょう?」
王の眉が、わずかに動いた。
否定はしない。
わたくしは激しく打つ心臓を押さえ込み、何もかも見抜いているような笑みを作った。
「ですが、今すぐ兵を差し向けるのは、あまり得策とは思えません」
「余に意見するつもりか?」
玉座の間を満たす空気が、一気に冷たくなる。
「まさか。陛下の御手を汚さず、より多くを手に入れる方法があると申し上げたいのです」
わたくしは優雅に一礼し、言葉を続けた。
「レオンは腐ってもAランクの能力者。兵を差し向ければ、死に物狂いで抵抗するでしょう。そうなれば、陛下の大切な兵にも犠牲が出ます」
権力者は、自分の手駒が減ることを嫌う。
「さらに、今すぐ処刑すれば、愚かな民衆が悲劇の英雄として祭り上げるかもしれません」
王の目が動いた。
レオンがダンジョンで得た人気を、この人は忘れていない。
「一時は王都でも、随分と持てはやされておりましたもの。今は罵っている者たちでも、首が落ちれば、惜しい人を失ったと言い出すでしょう」
「民衆とは勝手なものだ……。それで、そなたは何をする?」
食いついた。
わたくしは扇子の陰で息を整え、冷たい笑みを深めた。
「わたくしはすでに、ランダル家に資金援助をする代わりに、レオンとの婚約を取りつけました」
「婚約を利用して、内側から食い潰すつもりか」
「ご明察でございます」
自分の口から出た言葉が、胸をえぐる。
それでもわたくしは、楽しそうに笑ってみせた。
「援助の担保として、ランダル家が持つ商会や土地、領地に付随する権利を、少しずつクラリネス家へ移させます」
「……それを待てと?」
「陛下が力ずくで奪えば、民衆の目には略奪と映るでしょう。ですが、ランダル家自身が差し出せば、ただの契約です」
王の目に、欲深い光が宿った。
「そのようなことが、本当に可能なのか?」
「ランダル家は明日をしのぐ資金にも困っています。婚約者であり、唯一の支援者でもあるわたくしが差し出す書類を、細かく確かめる余裕などありませんわ」
嘘だ。レオンなら必ず確かめる。
どれほど追い詰められても、領民に関わる書類を読み飛ばすような人ではない。
けれど、王はレオンを無力な若者だと侮っている。
その思い込みを利用させてもらう。
「だが、名義を書き換え、すべての権利を合法的に移すには数ヶ月はかかる。その間、レオンが黙って見ているとは思えぬが?」
王は玉座を指でなぞった。
「レオンを武闘会へ向かわせました。優勝賞金で返済するのなら、結婚はしなくてもよいと伝えて……。彼は飛びつきましたわ」
わたくしはあらかじめ用意していた書類の束を取り出し、従者を介して王に差し出した。
そこには、ランダル家が持つ土地や商会、鉱山などが細かく記されている。
すべて、権利を移すための準備を進めていると信じさせるために作ったものだった。
王は書類をめくりながら、満足そうに口元を歪めた。
「優勝すれば結婚を避け、家を救える。そんな戯れ言を、レオンは本当に信じておるのか?」
「はい、疑いもなく」
「くくっ。哀れな男だ」
王がレオンを笑う。
怒りで扇子を握る指が震えそうになるのを、必死にこらえた。
「武闘会が終わる頃には何も残っておらぬというわけか」
「そのとおりでございます。すべてが終わりましたら、奪い取った権利を陛下へ献上いたします」
「それでは、クラリネス家に利益がない。……何を考えておる?」
「忠誠の褒美として、クラリネス家を公爵家へとお引き上げくださいませ」
「公爵の地位が目当てか」
「わたくしは、侯爵令嬢のままで終わるつもりなどございません」
玉座の間に、重い沈黙が落ちる。
背中を冷たい汗が伝っていた。
少しでも疑われれば、ここで捕らえられるかもしれない。
やがて王は、玉座の肘掛けを叩きながら笑い始めた。
「くっ……ははははっ! 恐ろしい娘だ!」
下品な笑い声が、広い玉座の間に響き渡る。
「絶望につけ込んで婚約を結び、公爵家のすべてを奪い取るとはな。まったく、クラリネスの血は恐ろしいほどに強欲よ!」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
「よかろう。権利の移転が終わるまで、ランダル家の断罪は待ってやる。数ヶ月で必ず結果を出せ」
「感謝いたします、陛下」
わたくしは完璧なカーテシーをして、玉座の間を後にした。
──
人のいない廊下へ入ったところで、壁に手をついた。
息が、うまく吸えない。
扇子を握っていた指が固まり、開くことさえ難しかった。
「うまくいった……」
わたくしは壁から手を離した。
これで安心できるなどとは、思っていない。
それでも、レオンはまだ生きている。
今はそれだけで十分だった。
──
エルザが去った玉座の間。
「……おい」
「はっ」
王が低く呼びかけると、玉座の背後にある暗がりから、側近が音もなく進み出た。
「なぜあの小娘が、ランダル家断罪の手筈を知っている?」
「父親であるクラリネス卿の話を、どこかで聞いたのかもしれません。あるいは──」
「嗅ぎ回った……か」
王は指先で肘掛けを叩きながら、閉じた扉を睨んだ。
「提案そのものは悪くない。だが、あの娘を信用するほど、余は愚かではない」
「いかがなさいますか?」
「影をつけろ。誰と会い、何を企んでいるのか、すべて調べさせるのだ」
「御意」
「少しでも不審な動きを見せれば、ランダル家より先にクラリネス家を潰してくれる」
王の低い笑い声が、静まり返った玉座の間に響いた。




