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第七話【婚約という名の脅迫】

 クラリネス侯爵家の応接室へ入ってきたレオンは、わたくしの前で足を止めた。


 黒い喪章。痩せた頬。目の下に落ちた濃い影。


 お母様を亡くしたばかりだというのに、悲しみに身を委ねる時間さえなかったのだろう。


 駆け寄りたかった。


 何も言わず、その疲れ切った体を抱きしめたかった。


 わたくしはソファから立ち上がらず、扇子を開いた。


「クラリネス家の力を貸してほしい」


 扇子の陰で、息が止まった。


 あの誇り高いレオンが、わたくしへ頭を下げている。


「王の命令で、ダンジョンへ入ることも、他国と取り引きをすることもできなくなった。流通税を納めれば、領地へ送る金が残らない。このままでは──」


 そこで言葉が途切れた。


 握りしめた白い手袋に、深いしわが寄っている。


「私のことは、どう思ってくれても構わない。だが、領民を見捨てるわけにはいかないのだ」


 顔を上げた彼の目には、まだ光が残っていた。


 こんな時でさえ、彼が救おうとしているのは自分ではない。


 愛する母親を失い、大勢から裏切られても、まだ領民を守ろうとしている。


 だからこそ、この人は逃げられない。


 守るものを捨てられず、いつか王の刃を正面から受けてしまう。


「お父様に、お取り次ぎいただけないだろうか。王へ掛け合い、もう一度ダンジョンへ入る許可を得られれば、必ず自分の力で借りを返す」


「まだ、王にお願いすれば許してもらえると思っていますの?」


 レオンの表情が固まった。


「……ほかに、方法がない」


「そのお願いのために、わたくしのお父様まで王に睨まれろと?」


「そういうつもりでは──」


「では、どういうおつもり?」


 静かな応接室で、時計の針だけが動いていた。


 レオンは唇を噛み、視線を落とす。


「……無理を言った。すまない」


 彼が一歩、後ろへ下がった。


 駄目。


 ここで帰してしまえば、もう誰にも頼らず、王へ直談判に行くかもしれない。


 わたくしは扇子を閉じた。


「もっとも、わたくしに利益があるなら、話は別ですわ」


 レオンの足が止まる。


「利益……?」


「わたくしと、婚約なさい」


 彼はしばらく、わたくしの顔を見つめていた。


 言葉の意味を確かめるように。


「……何を言っている」


「聞こえませんでしたの? あなたと結婚すれば、わたくしはいずれ公爵夫人になれる。由緒正しいランダル家の血筋も、Aランクの力も、利用する価値はありそうですもの」


「私に、政略の駒になれと言うのか」


「ええ。その代わり、お父様を説得して、当面の資金を出して差し上げます」


 テーブルへ、用意していた書類を置いた。


 レオンの目が、そこへ落ちる。


「……初めから、そのつもりだったのか」


「あなたが来ると連絡を受けて、何も調べないほど愚かではありません」


 彼の顔に、怒りが浮かんだ。


 幼い頃は、名前を呼ぶだけで笑ってくれた。


 今は、わたくしが口を開くたび、その目が冷たくなっていく。


「政略の駒になれというのか……」


「あなたの誇りで、明日のパンを買えまして?」


 白い手袋が、きしむほど握りしめられた。


 ひどい言葉だった。


 彼が誰のために誇りを捨て、ここへ来たのか。わたくしは、誰よりも知っているのに。


 レオンは怒鳴らなかった。


 書類へ手を伸ばし、一枚ずつ目を通し始めた。


 援助する金額。返済の条件。そして、婚約。


 やがて、彼の指が止まった。


「領民へ、返済の負担を押しつけるつもりではあるまいな」


「返すのは、あなたでしょう? わたくしが必要なのは家名と地位です」


 レオンはわたくしを一度見たが、何も言わず、再び書類へ目を落とした。


 その横顔を見つめながら、爪を手のひらへ食い込ませる。


 こんな時でさえ、彼が確かめるのは領民のことなのだ。


「ただし、一度だけ、婚約を解消する機会を差し上げます」


 レオンが顔を上げた。


「どういう意味だ?」


「神託都市オラクルで開かれる武闘会へ出場し、優勝なさい」


「武闘会……」


「優勝すれば、莫大な賞金と名誉が手に入る。その賞金で、援助した資金をすべて返してくださいませ。ご自分の力でランダル家を立て直せたなら、婚約はなかったことにして差し上げますわ」


 彼は書類をめくった。


 その条件も、すでに記してある。


「……優勝できなければ?」


「わたくしと結婚していただきます」


 わたくしは口元だけで笑った。


「残りの人生を、クラリネス家のために役立ててくださいませ」


 レオンの目が、もう一度、最初の頁へ戻った。


 領地へ送れる金額を見ているのだろう。


 わたくしは、その時間を待った。


 断ってもよい、と言うことはできた。


 けれど、その言葉が何の意味も持たないことを、お互いに知っていた。


 彼が断れば、領民へ送る金はない。


 だからこそ、わたくしはこの条件を差し出したのだ。


「武闘会までは、数ヶ月ある」


 レオンが低く言った。


「それまで、援助を続けてくれるのだな」


「ええ。婚約者を、飢え死にさせる趣味はありませんもの」


「ならば、その間に腕を磨く。必ず優勝し、金もすべて返す」


「今のあなたに、それができるかしら?」


「やってみせる」


 疲れ切っていた目に、怒りと闘志が宿っていた。


「私は、誰の駒にもならない」


 レオンがペンを取る。


 迷うように一度止まった手が、紙の上を動いた。


 彼の署名を見つめながら、わたくしは膝の上で、震える指を重ねた。


 これで、レオンは王都を離れる。


 政略結婚から自由になるために、遠いオラクルへ向かってくれる。


「すぐに船を手配しますわ。武闘会まで、せいぜい腕を磨いてくださいませ」


「ああ」


 レオンは立ち上がった。


 別れ際、何かを言いかけたように唇が動いた。


 けれど、言葉にはならなかった。


 わたくしも、尋ねなかった。


 重い扉が閉じる。


 足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで、扇子が手から滑り落ちた。


「ごめんなさい……」


 今すぐ追いかければ、まだ間に合う。


 婚約などしなくても援助すると、あなたを愛していると、伝えられる。


 けれど、そうすればレオンは王都へ残る。


 家族も、領民も、そしてわたくしも、置いていくことができなくなる。


 わたくしはソファの縁をつかみ、立ち上がろうとする体を押しとどめた。


 ──


 テーブルには、もう一通の書類が置かれていた。


 ランダル家と取り引きのあった商人から、爺が集めてくれた報告だ。


 王の役人が店へ現れ、帳簿を調べている。


 何を売ったか。いくら渡したか。ランダル公爵と、何を話したか。


 そして最後に、同じことを尋ねるという。


『反逆者へ資金を提供したのではあるまいな』


 まだ、誰も反逆罪で裁かれてはいない。


 それなのに、役人たちはすでに、ランダル家を反逆者と呼んでいた。


 王は、罪を探しているのではない。


 決めた罪に合う証拠を、集めているのだ。


 次に来るのは、税でも悪評でもない。


 剣を持った兵士たち。


 レオンを武闘会へ向かわせるだけでは、数ヶ月もの時間を稼げない。王が先にランダル家を潰してしまえば、すべて終わってしまう。


 わたくしはスマホを取り出し、マックスへ通信をつないだ。


『これはこれは、エルザお嬢様。何か御用ですかな?』


「レオンが、オラクルの武闘会へ出場することになったわ」


『なんと! あれほど頑なだったレオン様を、いったいどうやって?』


「少し、背中を押しただけよ」


『レオン様の背中に、どのような凶器を突きつけたのか気になりますねぇ』


「余計な詮索はしないで。オラクルへ向かう船を手配してちょうだい」


『それならお任せください! ワタクシのマクシム・グレース号で、最高にスマートな船旅をご用意しましょう!』


「一番良い部屋をお願い。帰りの分も、先に押さえておいてくださる?」


『往復とも、ロイヤル・スイートですね。代金は、ランダル家へ?』


「クラリネス家へ請求なさい」


 ほんの短い間があった。


『……ずいぶんと、手厚いご援助ですねぇ』


「結婚相手に、みすぼらしい部屋で過ごされたくないだけです」


『なるほど。では、そのように』


 今度は、余計なことを言わなかった。


「お願いね」


 通信を切り、スマホを置く。


 明日からレオンは、わたくしとの結婚を避けるために剣を振るだろう。


 その帰りの船まで用意していることを知ったら、どれほど不愉快に思うだろうか。


 それでも、船の上で過ごす間くらいは、安心して眠ってほしかった。


 わたくしは床の扇子を拾い、テーブルの書類へ向き直った。


 ──


 数日後。


 ランダル家への援助と婚約が、正式に取り交わされた。


 そして──王城から使者が来た。


「陛下が、お嬢様との謁見をお望みです」


 爺が差し出した封書には、王家の紋章が刻まれていた。


 わたくしは封を切り、短い文面へ目を落とす。


 【ランダル家への資金援助について、説明を求める】


 それだけだった。


 レオンへ金を渡した。


 王には、それが敵への援助に見えている。


 ここで答えを誤れば、今度はクラリネス家まで標的になる。


「お嬢様……」


「赤いドレスを用意して」


 封書を畳み、爺へ返した。


 レオンを送り出すための婚約はできた。


 次は、彼を生かすための取引。


 わたくしは鏡の前に立ち、口元へ扇子をかざした。


 彼の前で演じる悪女では、まだ足りない。


 今度は王に、味方だと思わせなければならなかった。

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