第三話【鏡のなかの見知らぬ令嬢】
わたくしが十四歳になった秋。
ランダル公爵家を取り巻く状況は、目に見えて悪くなっていた。
領地には理不尽な税が重くのしかかり、民の暮らしは苦しくなる一方。公爵家の蓄えも、底を突きかけていた。
レオンのご両親は相次いで体調を崩し、領地の実務の多くを、まだ十四歳のレオンが背負うことになった。
優しい彼は、家と領民を守るために必死だった。領地を駆け回り、眠る時間さえ削って働いていた。
わたくしたちが会える時間も、ほとんどなくなっていた。
そんなある夜。
わたくしは偶然、お父様であるクラリネス筆頭侯爵の密談を聞いてしまった。
「王は、禁書庫を管理する特権を持つランダル公爵家を疎ましく思っている」
重い扉の向こうから聞こえたお父様の声に、わたくしは足を止めた。
「税で弱らせ、いずれ反逆の証拠をでっち上げるつもりだ。そうなれば、ランダル公爵だけでは済まん。一族すべてが処刑されるだろう」
息ができなくなった。
レオンが、殺される。
「クラリネス家が公然と手を貸せば、我々も反逆者の仲間にされる。悔しいが、今は動けん」
それ以上、聞いていられなかった。
わたくしは音を立てないよう扉から離れ、自分の部屋へ戻った。
急いでレオンに知らせなければ。
そう思ったのに、机へ向かったまま、手紙の一文字目さえ書けなかった。
真実を知れば、レオンはどうするだろう。
危ないから逃げてと言っても、領民や家族を残し、自分だけ逃げるはずがない。王の不正を正そうとし、すべてを守ろうとするだろう。
そしてきっと、王の前へ立つ。
そんなことをすれば、王は予定を早めるだけだ。
ならば、わたくしも一緒に戦う?
証拠もないまま王を告発すれば、クラリネス家まで反逆者にされる。お父様も、領民たちも巻き込んでしまう。
お父様に助けを──。いえ、クラリネス家の領民を守る責任を背負っている。それに、娘であるわたくしを危険にさらす道など、父として選べるはずがない。
わたくしには、王と戦う力も、すべてを救う知恵もなかった。
まだ十四歳の少女にできることなど、あまりにも少ない。
それでも、レオンを死なせることだけはできなかった。
机の上には、お母様の形見である青いブローチが置かれていた。
泥に沈んだあのブローチを拾うため、レオンは何も迷わず池へ飛び込んでくれた。
『エルザの心が泥に沈んでしまうくらいなら、僕の服が汚れることなんて、どうでもいいさ』
あの日、わたくしも誓ったのだ。
彼に危険が迫るなら、今度は自分が泥にまみれると。
「……そうよ」
共に逃げられないのなら、何かを切り捨てられないのなら、わたくしが泥にまみれよう。
無理にでもレオンを王都から遠ざけるしかない。
レオンを王都につなぎ止めているものは、あまりにも多い。
家族も、領民も、家名も、彼は決して見捨てない。
そのすべてを、わたくしが捨てさせることはできない。
けれど、わたくしとの絆だけなら──自分の手で壊せる。
王には、クラリネス家がランダル家を見限ったと思わせる。そして、いつか彼を王都から逃がす機会が訪れた時、わたくしへの未練が足かせにならないようにする。
まだ、具体的な方法など何も思いついていなかった。
この選択が正しいのかも、わからなかった。
ただ、ほかに道を見つけられなかった。
わたくしは立ち上がり、クローゼットを開いた。
これまで好んで着ていたのは、落ち着いた青色のドレス。けれど、わたくしが選んだのは、奥にしまわれていた派手な赤いドレスだった。
鏡の前で赤いドレスに着替え、扇子で口元を隠す。
そして、見えないレオンへ向かって笑ってみせた。
「ふふっ。ランダル家なんて、もうおしまいですわね!」
甲高い声が、静かな部屋に響いた。
鏡の中にいるのは、わたくしの顔をした見知らぬ少女だった。
目が、悲しんでいる。
まだ駄目。
「あなたのような落ちぶれた方と、親しくしていたなんて……わたくしの恥ですわ」
声が震えた。
鏡の中のレオンが傷ついた顔をしたような気がして、涙がこぼれる。
わたくしは乱暴に涙を拭い、もう一度、扇子の奥で笑った。
「レオンなど、わたくしには何の価値も──」
言葉が出てこない。
レオンはわたくしにとって誰よりも大切な人。
ただ、生きてほしい。
こんなところで、つまずいてはいられない。
もっと冷たく。
もっと嫌な女に。
何度も涙を拭いながら、わたくしは冷たい笑い方を繰り返した。
「お嬢様……?」
振り返ると、いつからそこにいたのか、爺が扉の前に立っていた。
その目は、赤いドレス姿のわたくしと、濡れた頬を見つめている。
「いったい、何をなさっているのです?」
理由を話してはいけない。
知れば、爺まで巻き込んでしまう。
「爺。これから、わたくしが何をしても、理由を聞かないで」
「お嬢様……」
「これは命令ではありません。わたくしからの、お願いです。知らなければ、あなたは誰にも嘘をつかずに済みます」
爺はすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、静かに頭を下げる。
「……かしこまりました。理由はお尋ねいたしません」
爺は懐から真っ白なハンカチを取り出し、わたくしへ差し出した。
「ですが、これだけは言わせてください」
顔を上げた爺は、いつものように優しく微笑んでいた。
「お嬢様がどれほど醜い役を演じようと、私の目には、誰よりも気高く美しいお嬢様のままでございます」
「爺……」
「さあ、今だけは涙をお拭きください」
わたくしはハンカチを受け取ると、お母様の青いブローチを胸に抱き、声を上げて泣いた。
そして、涙が枯れるまで泣いた後、二度と人前では泣かないと誓ったのだ。
翌朝。
鏡の中に、昨日までの少女の姿はなかった。
赤いドレスをまとい、扇子の奥で冷たく笑う、見知らぬ令嬢が立っていた。
その笑顔が、わたくしがレオンのためについた、二つ目の嘘だった。




