第二話【泥だらけの恋】
あのエスコートの約束から、三年が過ぎた。
わたくしたちは十歳になっていた。
あの頃のレオンはまだ、自分のことを『僕』と呼んでいた。
王都から遠く離れた、魔物がはびこる辺境の地。
ランダル公爵とお父様が辺境伯の領地を訪れることになり、わたくしたちも後学のために同行していた。レオンにとっては、次期公爵として初めての顔見せでもあった。
王都から来たわたくしたちを、辺境伯はどこか冷ややかな目で見ていた。
「防壁の修繕が遅れているね。民たちの服も擦り切れている。王都に戻ったら、すぐに父上へ支援をお願いしよう」
荒れた村を見回し、真剣な顔で話すレオン。
しかし、案内役の辺境伯は丁寧に頭を下げながらも、冷たい声で答えた。
「お気遣い、痛み入ります。ですが次期公爵様、ここは美しく整えられた王都とは違い、魔物の血と泥にまみれた土地にございます」
「それは、わかっているつもりだよ」
「高貴な方々には、少々刺激が強すぎましょう。もし御身や美しいお召し物に泥でもはねれば大変です。視察は、安全な馬車の中からお願いしたく存じます」
表向きは、レオンの身を案じる言葉。
けれど本当は、『温室育ちの子供は引っ込んでいてくれ』という皮肉だった。
わたくしは扇子を握りしめ、少し腹を立てた。だが、レオンは怒ることなく、真っ直ぐに辺境伯を見返した。
「……公爵家は、決して民を見捨てないよ」
辺境伯は何も答えず、再び歩き始めた。
事件が起きたのは、その直後だった。
森からはぐれ魔物が飛び出し、逃げ遅れた平民の子供に襲いかかったのだ。
護衛の騎士たちが動くより早く、レオンは駆け出していた。
「危ない!」
レオンはためらうことなく泥水へ飛び込み、自分の体を盾にして子供を庇った。
魔物はすぐに辺境伯の剣で倒された。助けられた子供に怪我はなかったが、レオンの服は泥だらけになり、腕には痛々しい傷ができていた。
辺境伯は青ざめ、泥にまみれたレオンの前にひざまずいた。
「なぜです! 次期公爵様ともあろう方が、名も知らぬ子供のために、ご自身の命を危険にさらすなど……!」
責めるような声だった。
レオンは痛みに顔をしかめながらも、助けた子供を見て笑った。
「公爵家の務めは、民を守ることだよ。それに、目の前で困っている人を助けるのに、身分なんて関係ないじゃないか」
辺境伯が、大きく目を見開く。
「高い地位とは……人を見下ろすためではなく、より遠くの民を見つけるためにあるのですな」
(やっと……このような方が我々の上に……)
彼は長い間、王都の貴族たちに失望していたのだろう。やがて厳しかった顔をくしゃりと歪め、再び深く頭を下げた。
「……先ほどの非礼を、どうかお許しください」
辺境伯は片膝をついたまま、深く頭を垂れた。
「レオン様。あなたが公爵家を継がれる日を、我ら辺境の民は心よりお待ち申し上げます。そのときは、我らの剣が必ずやあなたのお力となりましょう」
まだ十歳のレオンを、辺境伯は未来の主として認めた。
治療師がレオンの腕の傷を診ている間、わたくしはハンカチで彼の頬についた泥を拭った。痛いはずなのに、レオンは助けた子供へ何度も笑いかけていた。
──
王都へ戻った後、わたくしとレオンはクラリネス家の図書室で、厳しい家庭教師の授業を受けていた。
「次期公爵であるレオン様にお尋ねします。もし領地で不作が続いた場合、貴族として真っ先に行うべきことは何でしょうか?」
白髪の家庭教師が、試すような目をレオンへ向けた。
レオンは言葉に詰まり、悔しそうにうつむく。十歳の子供には、少し難しすぎる問題だった。
わたくしはそっと微笑み、家庭教師に向かって口を開いた。
「先生。そのことでしたら、昨日レオン様がわたくしに教えてくださいましたわ」
「ほう。エルザお嬢様に?」
「ええ。『領民の命あってこその貴族。まずは領内の備蓄を開放し、それでも足りなければ当主の資産を使って食料を確保する。民の不安を取り除くことが最優先だ』と。そうおっしゃっていましたわよね、レオン様?」
レオンは一瞬だけ驚いた顔をした。それからすぐに、「あ、ああ! その通りだ!」と胸を張る。
思えば、わたくしがレオンのためについた最初の嘘だった。
家庭教師は満足そうにうなずき、レオンを褒めてから部屋を出ていった。
二人きりになると、レオンは大きなため息をついた。
「助かったよ、エルザ。僕、あんなこと言ってないのに」
「ふふっ。でも、レオンならきっと、そうなさるでしょう?」
「僕が?」
「ええ。だから、あれはレオンの答えですわ」
レオンは少し照れくさそうに頬をかき、わたくしを真っ直ぐに見つめた。
「エルザは本当に聡明で……その、とても可憐だ」
「そ、そんなこと……」
顔に熱が集まるのがわかった。
彼に褒められると、胸の奥がくすぐったくて、嬉しくてたまらなかった。
──
けれど、わたくしが彼に決定的に心を奪われたのは、その数ヶ月後のことだった。
わたくしは、最愛のお母様を病で亡くした。
貴族の女性は、人前で涙を流してはいけない。感情をあらわにして取り乱すことは恥だと、幼い頃から教えられていた。
だからわたくしは誰もいない庭園へ逃げ、池の前で一人、お母様の形見である青いブローチを握りしめていた。
絶対に、声を上げて泣いてはいけない。
そう言い聞かせるほど、涙があふれそうになる。小さな体は、抑えきれない悲しみで震えていた。
その時、震える指先からブローチが滑り落ちた。
「あっ……!」
チャプン、と小さな音がする。
お母様の形見は、濁った池に沈んでしまった。水面をのぞき込んでも、青い輝きはもう見えない。このまま泥に埋もれてしまえば、二度と見つからないかもしれない。
けれど池は深く、重いドレスでは泳げない。
わたくしは助けを呼ぶことも思いつかず、ただ絶望して立ち尽くしていた。
「エルザ!」
そこへ、わたくしを捜していたレオンが駆けつけてきた。
彼は水面に残る波紋と、わたくしの顔を交互に見る。
そして何も聞かず、上着を脱ぐ時間さえ惜しむように、冷たい池へ飛び込んだ。
「レオン!?」
大きな水しぶきが上がり、彼の姿が泥水の中へ消える。
レオンは何度も水に潜り、池の底を探し続けた。立派な服も、きれいに整えられていた金色の髪も、たちまち泥だらけになっていく。
それでも、彼はやめなかった。
やがて水面から顔を出し、高く掲げた手の中で青い石がきらりと光った。
「あったぞ!」
ずぶ濡れのレオンが池から上がり、わたくしの前に立つ。泥で汚れた手のひらには、お母様のブローチがあった。
「どうして……。公爵家のあなたが、こんなに泥まみれになって……」
レオンは泥で汚れた顔のまま、太陽のように温かく笑った。
「エルザの心が泥に沈んでしまうくらいなら、僕の服が汚れることなんて、どうでもいいさ」
その瞬間、わたくしの中で張り詰めていた糸が切れた。
わたくしは彼の泥だらけの胸にすがりつき、初めて声を上げて泣いた。
レオンは何も言わず、わたくしの背中を優しく撫で続けてくれた。泣いてもいいのだと──。
貴族は、弱き者を守る義務があると教えられる。
けれど、わたくしが見てきた大人たちは、家名や体面ばかりを気にしていた。
レオンは違う。
辺境でも、この庭園でも、誰かのために迷わず泥の中へ飛び込んだ。
体面でも、損得でもない。ただ純粋な思いやりだけで、他人の痛みに寄り添える人だった。
あの日、わたくしは知った。人の気高さとは、汚れないことではない。誰かのために、汚れることをためらわないことなのだと。
この人を、生涯愛し抜く。
もし彼に危険が迫るなら、今度はわたくしが泥にまみれよう。
この命さえ、喜んで差し出そう。
わたくしはそう心に誓ったのだ。




