第一話【愛する人に婚約破棄を】
「あら。本当に帰ってきていたのね。無様な負け犬が」
わたくしは扇子で口元を隠し、できる限り冷たい声を出した。
目の前には、怒りと屈辱に顔を歪めるランダル公爵家の嫡男、レオンがいる。
かつて共に笑い合った、誰よりも大切な人。
そして、今日までわたくしの婚約者だった人。
「エルザ……! 貴様、なぜここにいる」
ごめんなさい、レオン。
傷つけてごめんなさい。だからどうか、わたくしを憎んで。
「なぜって? 当然でしょう。婚約を、正式に破棄しに来たのよ」
わたくしは彼を嘲笑いながら、扇子をそっと自分の胸に押し当てた。
背後で、爺が小さく息を呑んだ。
(胸に扇子を押し当てる扇言葉……。その意味は──)
『あなたを愛しています』
長くわたくしに仕えてきた爺なら、その意味を知っている。
爺は悲しげに目を伏せ、必死に涙をこらえてくれていた。
淑女の扇言葉など、レオンにはわからない。
気づかれてはいけないのだ。
わたくしは、彼が二度とこちらを振り返らないよう、さらに心にもない侮辱を重ねた。
そして──
「……言いたいことはそれだけか。──出て行け!」
レオンの怒声に胸を切り裂かれながら、わたくしは甲高く鼻で笑い、彼に背を向けた。
「ええ、出て行くわ。あなたも、さっさとこの王都から消えてくださる?」
「公爵家が王都から出る理由などない!」
なんて冷たい目。
これで、完全に嫌われたかしら……。
いいえ、まだ足りない。
これほど傷つけても、レオンはきっと、わたくしを心の底からは憎めない。
わたくしが愛した人は、どこまでも甘くて、愚かなほど優しい人だから。
もっと──
もっと嫌われなければ。
「婚約を破棄したとはいえ、こちらまで反逆者とつながっていると思われては迷惑ですもの。どこか遠い辺境へでも行って、惨めに這いつくばりながら一生をやり過ごしなさい。……ごきげんよう」
嵐のように好き勝手に言い散らかすと、わたくしはドレスを翻して部屋を出た。
重厚な扉が閉まった瞬間、足から力が抜けそうになる。
それを、爺がすかさず支えてくれた。
「お嬢様……。よく、耐えられましたな」
わたくしは何も答えられず、ただ唇を噛みしめて屋敷の廊下を歩いた。
──
そして婚約破棄から数時間後。
長い詰問の末、王はわたくしに死を言い渡した。
処刑は、七日後。
王城前の広場で、わたくしの首は落とされる。
そして今。
わたくしは、王城の地下牢にいる。
派手な赤いドレスは汚れ、扇子も取り上げられた。冷たい石壁に背を預け、膝を抱える。
「誰か……」
助けて──。
そう言いたかった。けれどこれはわたくしが選んだ結末。
「神様……どうかレオンを──」
神様でなくとも、ただ、誰かに聞いてほしかっただけかもしれない。
何もすることがない地下牢がそうさせたのか、わたくしは心の中で語りかけた。
わたくしがなぜ、愛する人を傷つけ、世界で一番愚かな悪役令嬢となり、処刑される道を選んだのか。
その話をするには、少しだけ時間をさかのぼらなければならない。
これは、わたくしとレオンの物語。
まだわたくしたちが幼く、柔らかな日々が永遠に続くと信じていた頃から始まる。
──
「エルザお嬢様。もう少しだけ、右足を斜め後ろへ引いてくださいませ」
「こう……かしら?」
「はい。両手でドレスの裾を軽くつまみ、背筋を伸ばしたまま、膝を深く曲げて沈み込むように。──それが、貴族の女性の挨拶『カーテシー』でございます」
あれは、わたくしがまだ七歳の頃だ。
貴族の子供は、親に抱きついて甘えることなど許されない。
一日のうちのほんの短い時間、親の部屋へ行き「本日のご機嫌はいかがでしょうか」と挨拶をする『ご機嫌伺い』のルールがある。
立派な貴族らしい挨拶をするために、わたくしはプルプルと震える足で必死にバランスを取っていた。
今日は、レオンのお父様であるランダル公爵が、我が侯爵家へ会談にいらしている。
親同士が難しい政治の話をしている間、一緒に連れられてきたレオンは別室で大人しく待っているはずだった。
──バンッ!
突然、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「おい、エルザ! 大人の話は退屈だから抜け出してきたぞ!」
幼なじみのレオンが、護衛の目も盗んで元気よく部屋に飛び込んでくる。
わたくしと爺の姿を見ると、彼は「おっと」と立ち止まり、少し格好をつけてお辞儀をした。
爺はニコリと微笑む。
「レオン様。女性の部屋へ入るときは、先にノックをなさいませ。それから、お辞儀の際に背中を丸めてはいけません」
「えっ!? だ、だめだったか?」
「右手を胸に当て、背筋をピンと伸ばしたまま、腰から浅く倒すのです」
「うう……こうか?」
レオンは顔を赤くしながら、爺の言う通りに姿勢を正した。
「素晴らしい。お手本のような『ボウ』でございます。男性の挨拶の基本ですので、一緒に練習しましょう」
身分の高い公爵家の子であっても、爺は決して甘やかさず正しい作法を教える。
レオンもまた、それを素直に聞き入れる真っ直ぐな子だった。
胸に手を当てて綺麗にお辞儀をする姿は、子供ながらに少しだけ凛々しくて、わたくしはふふっと笑ってしまった。
「笑うなよ! ……お互い覚えるルールが多くて大変だよな」
「仕方がありませんわ。わたくしたちは、立派な貴族にならなくては」
「わかってるよ。ほら、この前の続き! ダンスの練習だ!」
「今からですの?」
「新しい先生が来る前に、ステップを完璧にしたいんだ」
レオンは白い手袋をはめると、手のひらを上にして、わたくしへ差し出した。
貴族にとって、肌と肌が直接触れ合うのはマナー違反だ。
わたくしも自分の白い手袋を重ね、その手を取る。
音楽もない部屋で、二人だけのダンスが始まった。
一歩、二歩。
覚えたばかりのステップはぎこちなく、何度も足がぶつかりそうになる。
「ちょっと、レオン。速すぎますわ」
「エルザが遅いんだよ」
「まあ!」
むっとして足を踏み出した拍子に、わたくしはドレスの裾を踏んだ。
「きゃっ……!」
倒れそうになった体を、レオンが慌てて引き寄せる。
「ほら、危ないだろ」
すぐ目の前に、彼の顔があった。
レオンは少し照れたように笑い、それでも握った手を離さなかった。
「僕がちゃんと支えるから、安心して踊れよ」
「……転ばせたのは、レオンですわ」
「でも、支えただろ?」
得意げに笑う顔がおかしくて、わたくしもつられて笑った。
再び、二人で下手くそなステップを踏む。
「いつか大人になって、本当の夜会に出る時も、エルザのエスコートは僕がするからな!」
「本当に?」
「ああ。絶対だ」
「では、約束ですよ」
手袋越しに伝わる温もりが、胸の奥を優しく満たしてくれた。
こんな柔らかな日々が、ずっと続けばいい。
あの頃のわたくしは、本気でそう願っていた。
まさかその約束を、わたくし自身の手で壊す日が来るなんて、思いもしなかったのだ。
完結まで執筆済みです。
本日は四話まで更新します。
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──あとがきのあとがき──
幼い二人がダンスで足をぶつけそうになったのは、実はレオンがステップを間違えたためです。
爺は最初から気づいていましたが、二人があまりにも楽しそうだったため、その場では何も言いませんでした。
翌日の稽古で、レオンだけ念入りに同じステップを練習させられています。




