第十七話【雨の名残に、泥の虹】
王の追っ手を避けながら辺境へ向かった時とは違い、今度は身を隠す必要がない。
辺境伯の軍勢は、王都へ続く最短の街道を進んだ。
そして、二日後。
エルザの処刑まで、残り一日。
王都の城門前に広がる平原で、二つの軍勢が向かい合っていた。
「反逆者どもを蹂躙しろ!」
王の命を受けた数万の国王軍が、地鳴りを響かせながら押し寄せてくる。
対する辺境伯の軍勢は、魔物との戦いを生き抜いてきた精鋭たちだ。
一人ひとりの練度では勝っている。
だが、兵の数があまりにも違いすぎる。
最前線で剣を構えるレオンの顔に、焦りが浮かんだ。
「数が多すぎる……! 正面からぶつかれば、こちらが押し潰されるぞ!」
辺境伯軍の兵士たちにも、動揺が広がっていく。だが、その絶望的な戦場の中央で、アラタだけは平然と前を見ていた。
平原の中に帯のように広がる、わずかに低くなった土地。数日前に降った雨の跡が、まだ地面に残っている。
アラタは自分の周囲に浮かぶボールへ、短く呼びかけた。
「ルーティ。地面の状態を教えてくれ。特に、敵の左側だ」
少し遅れて、ボールからルーティの声が届く。
『敵の左翼が進んでいる場所は、ほかより地面に多く水を含んでいるわ』
続いて、ゼノンの声が割り込んだ。
『どうやら中央からの命令を全軍へ伝えている。中心を乱せば、左右への命令は届かない』
「わかった」
アラタはうなずくと、辺境伯へ向き直った。
「辺境伯。前線の兵を、合図と同時に後退させてください」
「後退……?」
辺境伯が険しい顔をする。
「敵を前にして退けば、兵たちの士気が崩れるのでは?」
「追いつけると思わせるんです」
アラタは平原の左側を指差した。
一見すれば、どこにでもある草地だ。
しかし、よく見れば周囲よりも草の色が濃く、根元には水がたまっている。
「あそこは平らに見えますが、実際には周囲より低い。雨水がたまって、地面も柔らかくなっています」
「……多少のぬかるみで数万の軍を止められるのか?」
「向こうは数が多すぎるんです。……だから崩れる」
辺境伯が目を見開いた。
数で勝るからこそ、一度足が止まれば、後ろから押し寄せる兵が味方を潰していく。
アラタが狙っているものを理解したのだ。
「なるほど……。敵の数を、そのまま利用するのか」
辺境伯はレオンへ視線を向けた。レオンは迷わず、力強くうなずく。
「アラタを信じてくれ。こいつには、私たちには見えていないものが見えている」
「承知しました。アラタ殿の策に従いましょう」
アラタはリゼリアへ顔を向けた。
「リゼリアは左へ。狙うのは兵士じゃない。旗と角笛、それから命令を運ぶ伝令だ。命令を伝える手段だけを止めてくれ」
「わかったわ」
「マスターは中央を頼む。押し返さず、そこで受け止めてくれ」
「押し返してはならないのか?」
「押し返せば、敵は距離を取って隊列を整えてしまう。前にも後ろにも動けない状態を作りたい」
マスターはアラタの狙いを理解し、静かにうなずいた。
「わかった。決して先へは進ませない」
「レオンと辺境伯は右翼を。敵を倒そうとせず、味方の隊列を維持してください」
「任せろ」
「承知した」
アラタは最後に、辺境伯軍の兵士たちを見回した。
そしてボール越しに皆へ伝えた。
「全員、勝とうとしなくていい。勝ち方だけ守ってくれ」
あまりにも迷いのない言葉だった。
迫り来る数万の軍勢を前にしながら、アラタは自分たちの勝利を疑っていない。
その姿を見た兵士たちから、少しずつ恐れが消えていった。
ボールの向こうで、ゼノンが心酔しきったような声を上げた。
『ああ……! アラタは目の前の敵を倒すことと、戦いそのものに勝つことを分けて考えている! 素晴らしい……』
そこへ、ルーティの戸惑った声が重なる。
『待って、アラタ。あなたの周囲に「歪み」がほとんど観測されてない。ツリーを使ってないの?』
「ああ。使ってない」
『じゃあ、どうやって敵の動きを……?』
「見て、考えただけだよ」
『それだけ……?』
「ツリーはただのサポートだ。元々、自分の力らしい」
ルーティは言葉を失った。
アラタがこれまで見せてきた、常識では考えられない動き。そのすべてが、謎の能力によるものだと思っていた。
『──ありえない。能力が……ただの補助なの?』
「ルーティ。その話は後だ。敵が来る」
国王軍が、勝利を確信したように押し寄せてくる。
アラタは高く手を上げた。
「まだだ。──引きつける」
敵の怒号が近づく。
地面を踏み鳴らす音が大きくなり、大地そのものが揺れているようだった。
辺境伯軍の兵士たちは恐怖を押し殺し、その場で剣と盾を構え続ける。
やがて、互いの顔が見えるほどまで国王軍が迫った。
「前線、後退!」
アラタの声が戦場に響いた。
辺境伯軍の前列が、合図と同時に下がり始める。
逃げ出したように見せながらも、決して速くは退かない。
敵が追いつけそうで、わずかに追いつけない。
その距離を保ちながら、少しずつ国王軍を誘い込んでいく。
「敵が逃げたぞ!」
「追え! 一気に押し潰せ!」
国王軍から歓声が上がった。
勝利を確信した兵士たちが我先にと前へ出る。特に進み方が速かった左翼は、隊列を崩しながら低地へ踏み込んでいった。
馬の蹄が、柔らかな地面に深く沈む。
先頭を走っていた馬が足を取られ、大きく体勢を崩した。それでも、後方から押し寄せる兵士たちは止まれない。
後ろの馬が前の馬にぶつかり、避けようとした歩兵が隣の兵士を押し倒す。数が多いからこそ、一度始まった崩れは止まらなかった。
「敵の左翼が止まった!」
辺境伯軍の副官が声を上げる。だが、アラタは表情を変えない。
「ここから、命令を奪う」
アラタはリゼリアへ合図を送った。
「リゼリア、頼む!」
「任せなさい!」
リゼリアが地面を蹴った。
その姿が、戦場から一瞬にして消える。
次の瞬間、白銀の閃光が、混乱する国王軍の中を一直線に駆け抜けた。
『白銀一閃!』
軍旗を支えていた柱が断ち切られ、地面へ倒れる。
命令を伝えていた角笛が弾き飛ばされ、伝令の乗った馬が次々に進路を塞がれた。
誰の命も奪うことなく、命令を伝える手段だけが、正確に断ち切られていく。
「旗を上げろ!」
「どの旗だ!?」
「前進だ! いや、後退しろ!」
国王軍のあちこちから、食い違った命令が飛び交い始めた。
前の兵士は止まり、後ろの兵士は前へ進もうとする。
左右の状況は見えず、中央からの指示も届かない。
数を武器としていた国王軍が、その数によって押し潰されていく。
「中央、来るぞ!」
マスターが剣を構えた。
混乱を逃れた兵士たちが、強引に中央から突破しようと押し寄せる。
マスターは一歩も退かなかった。
片腕で振るう剣が、迫る武器だけを正確に弾き返す。一人で壁となり、国王軍を前へ進ませない。
だが、決して深追いはしなかった。敵は前へ進めず、後ろへも下がれない。
密集した兵士たちの間で、怒号と悲鳴が入り乱れていく。
右翼では、レオンと辺境伯が押し寄せる敵を受け止め、味方の隊列を崩さずに保っていた。
「これは……」
戦況を見ていた辺境伯が、震える声で呟いた。
こちらの被害は、ほとんど出ていない。それどころか、国王軍の兵士たちも大半が倒されてすらいない。
アラタはわずかな兵の動きだけで、数万の軍勢を自壊させようとしていた。
「ルーティ。国王軍の指揮を出している場所は、わかるか?」
『中央奥にある、金色の飾りがついた馬車よ。全軍への命令が、あの馬車から出てるわ』
「ゼノンは?」
『私も同じ結論だ。あの馬車を止めれば、国王軍は完全に指揮を失う』
「わかった。辺境伯、動ける精鋭を集めてください。次は、あの馬車を押さえます」
「承知した!」
辺境伯が精鋭たちへ号令を出そうとした、その時だった。
『待って、アラタ!』
ボールから、ルーティの切迫した声が響く。
『馬車の前に、強大な魔力反応が二つ! どちらもSランクよ!』
直後、国王軍の中央から、凄まじい魔力が噴き上がった。
周囲の兵士たちが紙切れのように吹き飛ばされ、立ち込める砂埃の中から二人の男が姿を現す。
一人は、身の丈ほどもある巨大な戦槌を、軽々と肩に担いだ巨漢。
もう一人は、両手に双剣を構え、獲物を見つけた獣のように低く身を沈めた細身の男。
巨槌のガルド。
双剣のセイル。
国王軍が誇る、二人のSランク能力者。
放たれる魔力の圧だけで、辺境伯軍の兵士たちが思わず後ずさる。
二人は混乱する兵士たちを跳び越え、総大将である辺境伯へ向かって一直線に駆け出した。
「俺が出よう」
アラタは一歩前へ出ると、たった一人で二人のSランクを迎え撃った。
辺境伯の名前はローデリック・グランヴィルですが、この先も全く出てきません。




