第十六話【反逆という名の献身】
辺境伯の砦。
エルザが三日後に処刑される。
その知らせを聞いたレオンは、血の気を失ったまま立ち尽くしていた。
「エルザが……反逆罪だと?」
伝令の兵士が退出した後も、部屋には重苦しい沈黙が残った。
やがてレオンは震える拳を握り、辺境伯へ向き直った。
「辺境伯。頼みがある」
その声に、辺境伯は静かに顔を上げた。
「私に、軍を貸してほしい。王都へ戻り、エルザを助けたい」
辺境伯は、すぐには答えなかった。
目の前に立つレオンを見つめながら、エルザから密書が届いた夜のことを思い返していた。
──
その夜。
辺境伯のもとへ、エルザから一通の密書が届いた。
赤い封蝋に刻まれたクラリネス家の紋章は、上下が逆さまに押されていた。
貴族の間で、逆さの封蝋は反逆の意思を示す。
辺境伯は人払いを済ませ、自ら封を切った。
手紙には、エルザの悲壮な決意が記されていた。
『辺境伯様。
王の密偵を欺き、クラリネス家を守るため、わたくしがお父様の毒殺を企てたという偽の手紙を、先に追わせます。
これでお父様は共犯者ではなく被害者となり、辺境伯様がこの手紙を読み、処分するまでの時間も稼げるはずです。
この手紙は、読んだらすぐに燃やしてください。ただし、逆さの封蝋を押した封筒だけは、密偵に見つかる場所へ置いてください。
空の封筒だけなら、辺境伯様の罪を問うことはできません。けれど、わたくしが王への反逆を企てた証拠にはなります。
武闘会が終われば、レオンが王都へ戻ります。
わたくしは彼を傷つけ、辺境へ逃げるように伝えるつもりです。もしレオンがそちらへ向かったら、この手紙のことは決して知らせないでください。
真実を知れば、あの人は必ず王都へ戻ってしまいます。
レオンには、わたくしを憎んだままでも、生きていてほしいのです。
幼い頃、わたくしは辺境伯様と共に、名も知らぬ子供を守るため泥へ飛び込むレオンを見ましたね。
今度は、わたくしが泥にまみれる番です。
どうか──どうか、レオンをお守りください』
手紙を読み終えた辺境伯の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
かつて、名も知らぬ子供を守るため、泥水へ飛び込んだレオン。
その傷を拭いながら、誰よりも誇らしそうに微笑んでいたエルザ。
あの日の二人の姿が、鮮明に蘇る。
「エルザ様……。今度は、あなたが自ら泥の中へ……」
辺境伯は震える手で、手紙を暖炉の火にくべた。
エルザの命懸けの願いが、炎に包まれて灰へ変わっていく。
そして指示されたとおり、逆さの封蝋が残る封筒だけを、密偵の目につく場所へ置いた。
──
辺境伯は、ゆっくり目を開いた。
目の前には、エルザの命懸けの決断によって生き延びたレオンがいる。
けれど、そのレオンは今、エルザを救うために王都へ戻ろうとしていた。
「頼む。軍を動かしてくれ」
レオンは辺境伯へ深く頭を下げた。
「相手は国王軍ですぞ」
「わかっている」
「王都へ兵を向ければ、もはや言い逃れはできません。王に……完全に反旗を翻すことになります」
「それでもだ」
レオンは顔を上げ、迷うことなく言い切った。
「私が勝手に軍を率いたことにしてくれて構わない。すべての責任は私が負う。だから、兵を貸してほしい」
「レオン様……」
「エルザを見殺しにはできない。あいつがどれほど私を嫌っていても、私は──」
その言葉を聞き、辺境伯は唇を強く結んだ。
エルザは、レオンに憎まれたまま死ぬことを望んでいた。
けれど、どれほど傷つけられても、レオンは彼女を見捨てようとはしなかった。
エルザが命を懸けて守ろうとしたのは、やはり、このような男なのだ。
(この二人を失ってはならない……。レオン様がこのまま終わってよいわけがない。そして、エルザ様が憎まれたままでよいはずがないのだ)
辺境伯は静かに立ち上がった。
(しかし、レオン様に言えばエルザ様の覚悟を無駄にしてしまう。ならば……)
「兵だけをお貸しすることはできません」
レオンの顔が曇る。
「そう……か」
(私だけ泥を被らぬ……そんな都合の良い選択はできん!)
「私が自ら軍を率い、お供いたします」
「何……?」
辺境伯は、驚くレオンの前で片膝をついた。
「私はかつて、身分に関係なく民を守ろうとなさったレオン様に忠誠を誓いました。その誓いは、今も変わっておりません」
「だが、よいのか? 私と共に来れば、辺境伯も反逆者になるのだぞ」
「見過ごして生き残ったところで、忠誠を捨てた私に、この地を治める資格などございません。私は貴族としての矜持を貫きます」
辺境伯は顔を上げ、力強くレオンを見つめた。
「ただし、一つだけ条件がございます」
「軍を出してもらえるのだ。私にできることなら、何でも聞こう」
「決して死なないと、お約束ください」
「……私が?」
「腐敗した王によって、この国は傷ついております。民のために泥へ飛び込めるあなたのような方こそ、この国の未来には必要なのです」
辺境伯の脳裏に、エルザから託された言葉が蘇る。
どうか、レオンをお守りください。
「この命に代えても、レオン様をお守りいたします。ですから、あなたも必ず生きてお戻りください」
「辺境伯……」
レオンは震える拳を胸へ当て、深くうなずいた。
「約束する。必ず生きて、エルザを連れ戻す」
「そのお言葉、確かに承りました」
辺境伯は、密書のことをレオンへ明かさなかった。
それもまた、エルザから託された願いだった。
二人のやり取りを見守っていたアラタが、静かに口を開く。
「本当に、助けに行くんだな」
「ああ」
「でも、エルザはレオンにあんな酷いことを──」
「言うな。アラタたちが、エルザを不愉快に思うのも無理はない」
レオンは苦しげに目を伏せた。
それでも、決意は揺らがなかった。
「それに、エルザが捕らえられたのは、私との婚約が原因だろう。助けに行かない道理などない」
「そうか」
アラタはそれだけ答えると、いつものように笑った。
「じゃあ、俺も勝手に手伝う」
「お前という男は……」
レオンが言葉を失っていると、アラタは部屋の隅で魔力通信の調整をしていたルーティへ目を向けた。
「ルーティ。国王軍と戦うなら、大規模な戦いになる。データを取るには、いい機会じゃないか?」
「ふふっ、わかってるわ。私とゼノンは後方の馬車から、あなたの『歪み』を広域観測する。ゼノンの魔力があれば、戦場でもリアルタイムでサポートできる」
ルーティは興奮したように、すぐさまモニターへ目を戻した。
ゼノンも眼鏡を押し上げ、自信満々に胸を張る。
「私の完璧な計算と魔力があれば、離れた場所からでも戦場のすべてを把握できる。アラタの活躍は、一瞬たりとも見逃さない!」
「戦いを見るのが目的になってない?」
リゼリアが冷たい目を向けるが、ゼノンはまったく気にしていない。
マスターは静かに剣を腰に差し、アラタの隣に立つ。
「王都へ向かうのだな」
「ああ。マスターも来てくれるのか?」
「当然だ。ここまで乗りかかったのだ。最後まで付き合おう」
「私も行くわ。二人だけでは、何をしでかすかわからないもの」
リゼリアも剣を手に取り、二人の横へ並んだ。
こうしてアラタたち五人全員が、レオンと共に王都へ向かうことになった。
辺境伯は一同を連れ、砦の中庭へ向かった。
集められた兵士たちの前へ進み出ると、力強く号令を発した。
「全軍に告ぐ! これより我らは、王都へ進軍する!」
兵士たちが一斉に武器を掲げる。
「これは王への裏切りか!? いや、違う! 国を壊す王に従うことこそ、民への裏切りである!」
辺境伯は剣を抜き、王都の方角へ突き出した。
「我らが背くのは国ではない! 民を欺く王から、我らの国を取り戻す戦いである!」
砦を揺らすほどの雄叫びが上がった。
重い門が開き、辺境伯の軍勢が王都へ向けて動き始める。
エルザの処刑まで、残り三日。
レオンはついに──国王に反旗を翻した。




