第十三話【愛する人に婚約破棄を】
翌日。
豪華客船『マクシム・グレース号』が、王都の港へ到着した。
マックスから送られてくる映像には、船を降りるアラタたちと、迎えの馬車の前で待つレオンの姿が映っている。
「アラタ」
レオンは少しだけ表情を和らげ、五人へ向き直った。
「これから、王城の禁書庫へ向かうのだろう? もし時間に余裕があれば、その後で我が家にも立ち寄ってほしい。父上にも、私を打ち破った男を紹介したいのでな」
「ああ。用事が済んだら寄らせてもらうよ」
アラタが気負うことなく答えると、レオンは満足そうにうなずき、迎えの馬車へ乗り込んだ。
その姿を見届け、わたくしは映像を切った。
無事に帰ってきてくれた。
けれど、喜んでいる暇はない。彼を絶望の底へ突き落とし、辺境伯のもとへ導かなければ──。
「そろそろ、わたくしも向かわないと……」
意を決して立ち上がった、その時だった。
「お嬢様!」
扉が勢いよく開き、爺が血相を変えて駆け込んできた。
「大変です! ランダル公爵様が反逆罪で捕らえられ、すでに処刑されたとの報せが……!」
「──っ!?」
全身から血の気が引いた。
レオンのお父様が、処刑された。
「そんな……。権利の移転が終わるまでは待つと、陛下は約束したはずなのに……!」
武闘会が終わっても権利が一つも渡らず、王はわたくしが裏切ったと判断した。だから約束を破り、予定を早めたのだ。
このままでは、屋敷へ戻ったレオンも、反逆者の息子として捕らえられてしまう。
一刻の猶予もなかった。
「馬車を出して! すぐにランダル公爵邸へ向かうわ!」
わたくしは用意していた派手な赤いドレスへ着替え、爺と数名の護衛を連れて屋敷を飛び出した。
──
同じ頃。
アラタたちは、王都の中心にそびえる王城の正門前へ到着していた。
重厚な鉄格子の向こうには、武装した近衛兵たちが並び、張り詰めた空気が漂っている。
「待て! そこで止まれ!」
「武闘会の優勝者、久遠アラタだ。禁書庫を見せてもらう約束で来た」
アラタが名乗ると、門番は困ったように眉を寄せた。
「……話は聞いている。わざわざ来てもらって悪いが、今は城内が立て込んでいる。日を改めてくれ」
国を挙げた武闘会の賞品だというのに、完全な門前払いだった。
「そんな話、あるわけないでしょう!」
リゼリアが声を上げる。
「優勝者との約束を、何の説明もなく破るつもり?」
その時、マスターが近衛兵たちの中に見知った顔を見つけた。
「ガイゼル!」
呼ばれた近衛隊長が振り返り、驚いた顔で歩み寄ってくる。
「マスターか!? なぜ王都にいる。オラクルのギルドはどうした?」
「辞めた」
「なっ……。お前はギルドの長だろう。正気なのか?」
「正気だ。私は、この男についていくと決めた」
マスターがアラタへ視線を向ける。
ガイゼルは久遠アラタの顔を確かめると、周囲を気にしながら声を落とした。
「……すぐに王都を出ろ」
「城内で何が起きている?」
「言えん」
「近衛隊長の権限で、禁書庫へ通すこともできないのか?」
ガイゼルは悔しそうに拳を握った。
「今の私は、王の操り人形にすぎん。すまない……」
マスターは、静かに口を開いた。
「ガイゼル。迷っているなら、自分の心に従え。失敗から目を背けた者は、やがて同じ失敗を運命と呼び始める」
「──っ!」
「昔の……俺のように。お前には同じ後悔をしてほしくない」
ガイゼルは息を呑んだ。
けれど何も答えず、ただ苦しげに目を伏せ、再び王城の中へ戻っていった。
アラタは王城を見上げ、短く息を吐いた。
「今日は無理……か。ガイゼルって人、思い詰めてたな。マスターも大丈夫か?」
「……ああ。古くからの友人でな。心配ではあるが、自分で答えを出す男だ」
マスターは気持ちを切り替えるように、王城へ背を向けた。
「それで、これからどうする?」
「さっき誘われたばかりだし、レオンの家へ行ってみよう。城で何が起きているのか、何か知ってるかもしれないし」
一行は王城を離れ、ランダル公爵邸へ向かった。
──
王都の一等地に建つランダル公爵家の屋敷は、小さな城のように大きく、立派な造りをしていた。
だが、屋敷の中は異様なほど静まり返っている。
レオンから話を聞いていた執事に案内され、アラタたちは広い応接室へ通された。
窓際には、顔から血の気を失ったレオンが立っている。
その手には、一枚の手紙が握りしめられていた。
「……ずいぶんと早い再会だな。禁書庫へ向かったのではなかったのか」
「門前払いされた。城の中が立て込んでいるから、日を改めろってさ」
アラタが答えると、レオンは奥歯を強く噛みしめた。
「……そうか。城の者たちは、事実を隠して時間を稼ぐつもりらしい」
「事実?」
レオンは震える手で、握っていた手紙をテーブルへ置いた。
「父上が、反逆罪の疑いで王の兵に捕らえられた。先ほど、処刑されたとの報せも届いた」
「なっ……!?」
「レオンのお父さんが?」
リゼリアたちが息を呑む。
「馬鹿な話だ。我がランダル家は、建国の昔からこの国に尽くしてきた。それを何の前触れもなく、反逆罪だと……?」
レオンの手が、怒りで震えていた。
「これは明らかに、我々を疎ましく思った王の陰謀だ!」
悲痛な声が、広い応接室へ響いた。
──
ランダル公爵邸へ到着したわたくしは、応接室の前で一度だけ足を止めた。
扉の向こうから、レオンの声が聞こえる。
間に合った。
まだ、捕らえられてはいない。
わたくしは震える指を強く握り込み、冷たい悪女の仮面をかぶった。
そして、重い扉を勢いよく開く。
「あら。本当に帰ってきていたのね。無様な負け犬が」
できる限り冷たい声を出し、扇子で口元を隠す。
部屋には、なぜかアラタたちまでいた。
どうして、この人たちがここに……?
驚きを押し隠し、レオンだけを見つめる。
彼は怒りと屈辱に顔を歪めていた。
「エルザ……! 貴様、なぜここにいる」
ごめんなさい、レオン。
傷つけてごめんなさい。だからどうか、わたくしを憎んで。
「なぜって? 当然でしょう。あなたが公爵家だから婚約したの。それが今や、反逆者の息子。婚約を、正式に破棄しに来たのよ」
わたくしは彼を嘲笑いながら、扇子をそっと自分の胸に押し当てた。
『あなたを愛しています』
それが、彼へ伝えられる最後の本心──。
背後に控えている爺だけが扇言葉の意味に気づき、肩を震わせた。
淑女の扇言葉など、レオンにはわからない。
気づかれてはいけないのだ。
「お父様が処刑されて、ランダル家もこれでおしまいね。結局は、そこの平民上がりに惨敗するなんて……。本当に、結婚しなくて正解だったわ」
「……言いたいことはそれだけか。──出て行け!」
レオンの怒声に胸を切り裂かれながら、わたくしは甲高く鼻で笑い、彼に背を向けた。
「ええ、出て行くわ。あなたも、さっさとこの王都から消えてくださる?」
「公爵家が王都から出る理由などない!」
なんて冷たい目。
これで、完全に嫌われたかしら……。
いいえ。まだ足りない。
これほど傷つけても、レオンはきっと、わたくしを心の底からは憎めない。
わたくしが愛した人は、どこまでも甘くて、愚かなほど優しい人だから。
もっと──
もっと嫌われなければ。
「婚約を破棄したとはいえ、こちらまで反逆者とつながっていると思われては迷惑ですもの。どこか遠い辺境へでも行って、惨めに這いつくばりながら一生をやり過ごしなさい」
辺境──。
どうか、忠義に厚い辺境伯の存在を思い出して。
レオン……もう会えないのですね。
そう思った瞬間、幼い頃から積み重ねてきた思い出が、太陽のようなレオンの笑顔とともに胸へ降りそそいだ。
できることなら、最後にあの笑顔を見たい……。
それだけで、わたくしの心を永遠に照らしてくれるでしょう。
神様……こんな仕打ちをしたわたくしには、それさえも贅沢な望みでしょうか?
せめて、もう一度──。
「……ごきげんよう」
わたくしはドレスを翻し、逃げるように応接室を出た。
重い扉が閉まった瞬間、足から力が抜けそうになる。
それを、爺がすかさず支えてくれた。
扉の向こうから、レオンの力ない声が聞こえてくる。
「エルザ・フォン・クラリネス。幼なじみでな。不愉快だっただろう。すまない」
「あんな嫌な人、見たことないわ」
リゼリアの遠慮のない言葉に、ほかの仲間たちも同意する声を上げた。
胸を締めつけられる。
それでも、泣くわけにはいかない。
「……そう言うな」
レオンの声が響いた。
「昔は違ったのだ。可憐で、誰よりも聡明な女性だった。なぜ、あのように変わってしまったのか……」
こんな仕打ちをしたわたくしを、まだかばってくれている。
本当に、どこまでも優しい人。
「お嬢様……。よく、耐えられましたな」
爺の声にも、涙がにじんでいた。
わたくしは何も答えられず、ただ唇を噛みしめて廊下を歩いた。背後の部屋から、アラタの飾らない声が聞こえてくる。
「王の陰謀って、どういうことなんだ?」
その問いの答えを聞くことなく、わたくしは愛する人を守るための最後の舞台へ向かった。




