第九章「あなたを今度こそ救ける」
九度目のループが始まった朝、私は起き上がりながら、ふと思った。
いつから数えることに慣れたのだろう。
一度目は混乱した。
三度目は焦った。
六度目は壊れかけた。
そして九度目の今朝は、ただ静かに数字を確認して、今日やるべきことを頭に並べている。
慣れることは、必ずしもいいことではないと思う。
しかし今の私には、慣れることが生き延びる方法だった。
ヴァルフォード別邸へ向かう道すがら、秋の空が高かった。
雲ひとつない青で、こんな空の下で世界が終わるのかと思うと、毎回理不尽な気持ちになる。
馬車を降りて門をくぐると、家令が迷いなく私を書斎へ案内した。
もう顔を覚えられているらしかった。
前のループの記憶はないはずなのに、何度も来ている人間の気配は伝わるのかもしれない。
ルシアンは書斎にいた。
今回も書類の前にいた。
私が入ると、顔を上げて一拍の間を置いた。
「九度目か」
「よくわかりますね」
「残滓が、以前より厚くなっている」
椅子を引いて座りながら、私はふと気になって尋ねた。
「厚くなるというのは、どういう感覚ですか」
ルシアンは少し考えてから答えた。
「同じ場所に何枚も薄い紙を重ねていくような感覚だ。一枚では感じない重さが、重なるにつれて手に伝わってくる」
「それは、不快ですか」
「不快ではない。むしろ、君が戻ってくるたびに増えるものだから」
そこで言葉が止まった。
続けようとして、止めたような間だった。
私は何も聞かなかった。
その日の調査は、前回のループで積み上げたものがあったので、午前中のうちに大きく進んだ。
渇望の核を破壊する具体的な方法について、ルシアンが新たな仮説を立てていた。
核は私の絶望の残滓だが、それは術式の中に固定されている。
術式の構造上、核が機能するのは断罪の瞬間だけで、それ以外の時間には露出しない。
つまり、あの夜の断罪の場が、唯一の介入点だということになる。
問題は、どうやって介入するかだ。
渇望は術式の完成を守るように機能する。
前回のループでルシアンが結界を張った時、リリィはそれを一瞬で崩した。
通常の術式は通じない。
では何が通じるのか。
テーブルを挟んで資料を読み続けながら、私の頭の片隅でずっと別のことが引っかかっていた。
三百年前の記録の、切り取られたページのことだ。
核を破壊した者が、その後どうなったかが書かれていたはずのページ。
「自らの存在を鍵として差し出す」という文章の続き。
あれがなければ、前に進めない気がした。
昼を過ぎた頃、私はルシアンに切り出した。
「少し、話していいですか。調査とは別の話です」
ルシアンが書類から目を上げた。
「何だ」
「今まで、死に戻りのことを大まかにしか話していなかったと思って。もう少し詳しく話しておきたいんです」
ルシアンは黙って、続きを待った。
私は手帳を開いた。
一度目から八度目まで、各ループで何が起きたかを書き留めたページだ。
それを見ながら、順番に話した。
一度目。
黒い靄に胸を貫かれた。
痛みはなかったが、冷たかった。
倒れながらリリィの顔が見えた。
二度目。
天井の柱が落ちてきた。
逃げようとしたが間に合わなかった。
三度目。
床が崩落した。
四度目。
火に巻かれた。
五度目。
記憶が曖昧だ。
たぶん瓦礫の下だったと思う。
六度目。
天井だった。
その時、逃げなかった。
死を待っていた。
七度目。
結界を張ったが崩された。
ルシアンが傍にいてくれた最後の数秒を覚えている。
八度目。
また崩落だった。
淡々と話した。
感情を乗せないように、ただ事実を並べた。
手帳から目を上げた時、ルシアンの顔を見て、私は言葉を止めた。
彼の表情が、変わっていた。
無表情ではなかった。
何かを食いしばるような、かすかな緊張が顎のあたりに出ていた。
切れ長の目が、私をじっと見ていた。
いつも通り感情が読めないはずなのに、今は読めた。
読めてしまった。
「……八回」
ルシアンが、低く言った。
「八回、死んだのか」
「はい」
「毎回」
「毎回、あの夜に」
ルシアンは動かなかった。
書類の上に置いた手が、微かに緊張していた。
指の先が、白くなるほど机を押していた。
しばらくの沈黙があった。
長い沈黙だった。
窓の外で鳥が鳴いて、遠くで馬車の音がして、それらが過ぎていく間、ルシアンは動かなかった。
「六度目に、死を待っていたと言った」
やがて、抑えた声で言った。
「逃げなかったと」
「……はい」
「なぜ私に言わなかった」
責める声ではなかった。
しかしその問いには、何か別の感情が滲んでいた。
私には、それが何なのかわかった気がした。
「あなたを心配させたくなかったから」
「心配」
ルシアンが立ち上がった。
椅子が引かれる音がした。
窓の方へ歩いていって、背を向けたまま立った。
外の景色を見ているのか、ただそこに立っているだけなのか、わからなかった。
「八回死んで、六度目には死を待って、七度目には限界まで泣いて」
独り言のような声だった。
「それを一人で」
「あなたと組んでからは一人ではありませんでした」
「四度目からだ。一から三は」
「それは仕方のないことです。あなたに最初から残滓が感じ取れたわけではないから」
「そういう話をしているのではない」
ルシアンが振り返った。
その顔が、今まで見たどの顔とも違った。
無表情ではなかった。
感情を排した顔でもなかった。
何かがそこに出ていた。
完璧に制御されてきた何かが、今この瞬間だけ、表面近くまで上がってきていた。
「八回、君が死ぬ夜があった。私はそのうち四回、そばにいた。しかし止められなかった」
「それはあなたのせいでは」
「今回は絶対に死なせない」
被せるように言った。
静かな声だったが、今まで聞いたどの言葉よりも、はっきりとした確信を持っていた。
私は、その顔をしばらく見ていた。
感情を制御してきた氷血公爵が、初めて感情を制御しきれずにいる。
それがなぜか、私にはわかっていた。
わかっていて、どう受け取ればいいか迷った。
「……ルシアン」
「今回こそ方法を見つける。渇望の核を破壊する手段を、必ず見つける。君を九度目も死なせるつもりはない」
「それは、あなたが決めることではないかもしれません」
「決める」
短く、そして揺るぎなかった。
「私には残滓を感じ取る力がある。術式の構造を読む知識がある。君には八度の経験がある。それを合わせれば、必ず方法が見つかる」
「楽観的ですね、珍しく」
「楽観ではない。諦めないと言っている」
そう言って、ルシアンは私のそばに来た。
テーブルを挟まずに、真横に立った。
「聞いていいか」
「何でしょう」
「三百年前の記録の切り取られたページのことを、ずっと気にしているだろう。自らの存在を鍵として差し出すという文章の続きを」
私は少し驚いた。
口に出していなかったはずのことを、見抜かれていた。
「……はい」
「私も同じことを考えていた。その続きが何を意味するのか、調べる必要がある。ただ」
ルシアンが、私を見た。
真っすぐな目だった。
「その答えがどんなものであれ、君一人に背負わせるつもりはない」
「でも、術式の核は私の感情が」
「核が君にあるとしても、それを扱うのは君一人ではない。私がそばにいる」
言葉が、静かに胸へ落ちた。
重くて、温かい言葉だった。
その日の夕方から、私たちは三百年前の記録の完全版を探す作業に集中した。
切り取られたページが今もどこかに存在するとすれば、それはおそらく王都内の限られた場所のはずだ。
王立図書館の制限庫、王宮の古文書室、あるいは特定の貴族家が保管している可能性。
ルシアンの情報網を総動員して、心当たりを一つずつ潰していく。
翌日の朝、ルシアンの部下が一つの情報を持ってきた。
王都の北にある閉鎖された修道院に、古い文書が大量に残されているという話だ。
三百年前に建てられた修道院で、四十年前に閉鎖された後、手つかずのままになっているという。
私とルシアンは顔を見合わせた。
「行きましょう」
「ああ。ただし護衛を連れていく」
「渇望の影響が及んでいる可能性があるから」
「それもある。それと」
ルシアンが少し間を置いた。
「君が一人でどこかへ行くことを、今後は認めない」
言い方が直接的すぎて、私は思わず瞬きをした。
「……それは随分と」
「八回死んだ相手に対して、これくらいは言う権利がある」
反論の言葉が、思いつかなかった。
いや、思いつかなかったのではなく、反論したくなかったのかもしれない。
修道院は、王都の喧騒から外れた丘の上に静かに建っていた。
蔦が壁を覆い、庭は荒れ放題で、閉ざされた門扉は錆びていた。
ルシアンが術式で鍵を開けると、蝶番が軋みながら門が動いた。
中は予想より広かった。
礼拝堂、居室、食堂、そして資料室。
資料室の扉を開けると、埃が舞い上がって、何十年分もの静寂が空気に溶け込んでいた。
棚に並ぶ文書を一つひとつ確認していく。
時間のかかる作業だったが、無言で進めた。
ルシアンは効率的で、必要な資料をすばやく見分ける目を持っていた。
一時間ほどして、私の手が一冊の薄い冊子で止まった。
表紙に、見覚えのある文字が刻まれていた。
寺院の資料と同じ古語で、「継ぎ人の記録」と書いてある。
手が震えた。
震える手でページをめくると、最初の行に目が止まった。
「世界崩壊を防ぐために起点に立った者を、継ぎ人と呼ぶ。継ぎ人は渇望の核を己の内に取り込み、世界への接続を断ち切ることで崩壊を止める。その代償として、継ぎ人は渇望と引き換えに自身の「運命」を失う。死ぬわけではない。しかし以降、運命の糸に繋がれることなく生きる存在となる」
運命を失う。
私は何度かその言葉を読み直した。
死ぬわけではない。
しかし運命の糸に繋がれることなく生きる。
それが何を意味するのか、具体的にはまだわからなかった。
しかしこの言葉が、ずっと探していた答えの核心に近い場所にある気がした。
背後で気配がした。
ルシアンが覗き込んでいた。
同じ文章を、私の肩越しに読んでいた。
彼が何かを言おうとして、止めた気配があった。
そのまま数秒の間があった。
やがて、低い声で言った。
「これが、答えかもしれない」
「はい」
「君が、継ぎ人になる」
「そうなると思います」
「運命を失うということの意味が、まだわからない」
「調べます」
「一緒に調べる」
肩越しに感じる気配が、少しだけ近かった。
近いと感じて、しかし離れなかった。
修道院からの帰り道、馬車の中でルシアンは窓の外を見ていた。
私は手帳に今日見つけたことを書き留めた。
書きながら、ふと隣を見た。
窓の外の景色が流れていく。
その横顔が、何かを考えているような、あるいは何かを堪えているような、わずかな緊張を帯びていた。
「ルシアン」
「何だ」
「今回は絶対に死なせないと言ってくれましたよね」
「ああ」
「私も、同じ気持ちです」
ルシアンが振り向いた。
「あなたに今度こそ、全部話して一緒に戦い抜きたい。八回分の経験を無駄にしたくない。だから今回は、最後まであなたのそばにいさせてください」
ルシアンはしばらく私を見ていた。
それから、静かに頷いた。
言葉はなかった。
しかし今回の頷きは、今まで見たどの頷きよりも重かった。
窓の外に、夕暮れの王都が広がっていた。
あと五日で、また夜が来る。
しかし今回は、私たちにはすでに答えの欠片がある。
継ぎ人。
運命を失う代償。
渇望の核を断ち切る方法。
すべての答えが揃う前に、夜は来る。
しかしそれでも、今回は違う。
初めて、終わりが見えるところまで来た。
馬車が揺れて、夕日が車内に差し込んだ。
橙色の光の中で、ルシアンの横顔が一瞬、柔らかく見えた。
見間違いかもしれない。
でも、見間違いではないと思いたかった。




