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第八章「世界を喰うもの」

八度目のループに入った朝、私はもう泣かなかった。

泣くことを諦めたのではない。

七度目の夜に、必要なだけ泣いた。

だから今朝は、乾いた目で天蓋を見上げて、静かに起き上がることができた。

マリアの声を待たずに扉を開けると、廊下で出会い頭にぶつかりそうになった侍女が驚いた顔をした。

 

「お嬢様、もうお目覚めで」

 

「ええ。今日は少し早く出かけるわ。軽い朝食を頼める?」

 

支度を済ませ、朝の光の中をヴァルフォード別邸へ向かった。

馬車から見える王都の街並みを、私はいつもより注意深く眺めた。

あと一週間で終わる街。

しかし今回こそ、その終わりを変える。

ルシアンは書斎にいた。

私が入ると、一度だけ顔を上げて頷いた。

言葉はなかったが、それで十分だった。

 

「八度目です」

 

「わかっている。昨夜から感じていた」

 

「昨夜から」

 

「ループが切り替わる瞬間、残滓の層がひとつ増える。それが夜中に来た」

 

私はそれを聞いて、少し複雑な気持ちになった。

私が死ぬ瞬間を、彼は感覚として受け取っているということだ。

直接体験するわけではないにしても、何かが増えたと気づく。

それがどんな感覚なのか、私には想像しかできなかった。

 

「今回の優先事項を確認しましょう」

 

気持ちを切り替えて、テーブルに向かった。

前回までの調査で、私たちはリリィが古代の術式と深く結びついていること、人の感情を吸収する性質を持っていること、三百年前にも同様の存在が現れたことを突き止めていた。

しかし核心がまだ掴めていない。

彼女の正体が、具体的に何なのか。

どこから来て、何を目的として動いているのか。

ルシアンが書棚から一束の書類を取り出した。

前回のループの後、彼が独自に取り寄せたものだという。

王都から東へ五日の距離にある古寺院の資料だった。

 

「三百年前の事件の記録が、その寺院に保管されている可能性がある。前回のループで資料請求を出した。今回はすでに手元にある」

 

ループをまたいで準備するということを、ルシアンは自分なりのやり方で行っていた。

前のループで動いた記憶はなくても、「何かが必要になる」という直感のようなものが残るのだと、以前教えてくれた。

それもまた、残滓を感じ取る特殊体質の働きなのだろう。

書類を二人で分担して読み始めた。

寺院の資料は古語で書かれていて、読み解くのに時間がかかった。

しかし一時間ほど経った頃、ルシアンが手を止めた。

 

「あった」

 

静かな声だったが、その重さで私も手を止めた。

 

「読んでいいですか」

 

「ああ」

 

ルシアンが書類を私の方へ向けた。

古語の文章を目で追いながら、私は少しずつ訳していった。

「古えより、世界の狭間には「渇望」と呼ばれる存在が潜む。それは実体を持たず、世界の亀裂から染み出す空洞の意志である。渇望は人の愛と執着に引き寄せられ、その感情を糧として増殖する。十分な糧を得た渇望は人の形を借りて顕現し、さらなる愛と執着を求めて人の世に根を張る。渇望が根を張った世界は、やがてその内側から食い荒らされ、崩壊へ向かう」

私は読み終えて、しばらく動かなかった。

渇望。

リリィは、渇望という存在が人の形を取ったものだ。

実体のない、意志のない、ただ増殖するだけの空洞。

人が誰かを愛するたびに、誰かに執着するたびに、それを吸い上げて大きくなる。

エドガー殿下がリリィを愛すれば愛するほど、その愛情が渇望の糧になる。

王都の人々がリリィを哀れみ、守ろうとすれば、その善意がすべて食われていく。

 

「続きを読め」

 

ルシアンが言った。

視線を戻すと、文章が続いていた。

「渇望は人の心を読み、最も深い感情を引き出す形を取る。ある者には庇護すべき弱者として、ある者には失われた愛として、ある者には満たされない欲望として映る。渇望自身は何も感じないが、相手が感じることを完璧に模倣し、相手が見たいものを見せる」

「渇望の根絶には、その顕現を維持する「核」を破壊せねばならない。核とは、渇望が最初に食い荒らした感情の残滓である。最も深く傷ついた者の絶望が、渇望を世界につなぎ止める錨となる」

ここで文章が途切れていた。

次のページが、意図的に切り取られたように存在しなかった。

 

「ページが」

 

「ない。前回も確認した。切り取られているのか、あるいは最初から書かれなかったのか」

 

「「最も深く傷ついた者の絶望が錨となる」というのは」

 

「婚約破棄の夜、断罪された君の絶望だ。間違いない」

 

渇望がこの世界に根を張るために、最初の「核」として私の感情が選ばれた。

だから婚約破棄が起点になる。

だから何度世界が崩壊しても、その夜が始まりになる。

私の絶望が、錨として渇望を世界につなぎとめているのだから。

腹の底が、冷えた。

怒りとも悲しみとも違う、もっと根本的な、何かが揺らぐような感覚だった。

 

「では、エドガー殿下は」

 

「資料を見る限り、おそらく精神誘導されている」

 

ルシアンが別の書類を出した。

王宮内部から得た、エドガー殿下の最近の行動記録だ。

 

「殿下がリリィと初めて接触したのは、約五ヶ月前。その前後で、殿下の言動が大きく変化している。判断が感情的になり、側近の意見を聞かなくなり、婚約破棄を突然言い出すようになった。本来の殿下の性格とは相容れない変化だ」

 

「渇望が殿下の感情を操って、婚約破棄を実行させた」

 

「渇望は相手の「最も見たいもの」を見せると書いてあった。殿下が見たかったもの、それが何かはわからない。しかし渇望はそれを利用して、殿下を誘導した。婚約破棄という行動が起点になるよう、すべてを仕組んだ」

 

私は椅子の背に寄りかかって、目を閉じた。

全体の構造が、ようやく見えてきた。

渇望はまず、エドガー殿下に近づいた。

殿下の感情を操り、私との婚約破棄を仕組ませた。

舞踏会の夜、断罪された私の絶望が術式の核になる。

そこから古代術式が反転し、世界崩壊へ向かう。

その過程で渇望はさらに多くの感情を食い荒らし、王都全体に根を張っていく。

そして私は何度も死に戻り、繰り返している。

なぜ私が死に戻るのかは、まだわからない。

しかし少なくとも、渇望が何をしようとしているかは理解できた。

 

「一つ確認したいことがあります」

 

目を開けて、ルシアンを見た。

 

「渇望を止めるには、核を破壊する必要がある。核とは私の絶望の残滓だと書いてあった。それはどうすれば」

 

「まだわからない」

 

ルシアンの答えは短かったが、逃げた答えではなかった。

 

「ただ、一つ仮説がある」

 

「聞かせてください」

 

「核が「絶望」なら、その対極が答えになる可能性がある。君が絶望した瞬間に作られた錨なら、君が絶望しなければ錨は機能しないかもしれない」

 

「絶望しない、というのは」

 

「断罪の場で、君が折れないということだ。奪われた矜持を、自分で取り返すということだ」

 

わかるようで、わからなかった。

断罪の場で絶望しないとは、どういう状態を指すのか。

何度繰り返しても婚約破棄は起きる。

大勢の前で断罪される。

その状況で絶望しないことが、本当に可能なのか。

 

「難しい顔をしているな」

 

「難しい話だからです」

 

「そうだな」

 

珍しく、ルシアンが同意した。

 

「簡単ではない。ただ、君はすでに六回その夜を経験している。初めて経験する者と、六回経験した者では、受け取り方が違う」

 

「それは」

 

「最初の夜、君は婚約破棄を信じられなかった。驚いて、声を失った。しかし今の君は、あの夜が来ることを知っている。準備できる。心の構えが違う」

 

確かに、そうかもしれない。

一度目の夜と七度目の夜では、私は別の人間に近かった。

同じ台詞を聞いても、同じ場所に立っていても、受け取る私の内側が変わっている。

夕刻になった頃、別邸の廊下でリリィの目撃情報がもたらされた。

ルシアンの情報網が拾ってきた話で、今日の昼に王宮の庭園でリリィの姿を見た者がいるという。

その者の証言が、手元の記録に短く記されていた。

「庭園で彼女を見かけた。花壇の前に立っていたが、花を見ていなかった。ただ、虚空を見ていた。しばらくして振り返ったら、その顔が一瞬だけ、まったく表情のない、人形のような顔だった。その後すぐに微笑んだので、見間違いかと思ったが、今でも忘れられない」

証言を読み終えて、私は静かに書類を置いた。

誰も見ていないと思った瞬間の、本当の顔。

表情という機能を切ったままの、空洞の顔。

渇望は意識を持たない。

意志もない。

ただ増殖する機能があるだけだ。

それが人の形を借りて、人の世界に根を張ろうとしている。

怖いと思った。

しかしそれ以上に、なぜか悲しかった。

なぜ悲しいのかは、うまく説明できない。

ただ、愛情を糧にしながら愛情を持てない存在というものが、酷く哀れに思えた。

 

「セレナ」

 

ルシアンが呼んだ。

初めて名前を呼ばれた気がして、私は少し驚いた。

 

「渇望に同情するな」

 

鋭い言葉だったが、責めている声ではなかった。

 

「彼女が哀れに見えるとしたら、それもまた渇望の機能だ。見る者が見たいように見せる。君が彼女に悲しみを感じるなら、それが君の弱点になる」

 

「……わかっています」

 

「わかっていても、気をつけろ」

 

私は頷いた。

わかっている。

それでも完全に感情を切り離すことはできなかった。

できないことが、逆に私が人間である証拠だとも思った。

夜、一人で用意された部屋に戻りながら、私は今日得た情報を手帳にまとめた。

渇望。

核となった私の絶望。

エドガー殿下が操られていたこと。

そして、絶望しないことが答えになるかもしれないという仮説。

手帳を閉じて、窓の外を見た。

王都の灯りが、今夜も静かに瞬いていた。

あと六日でこの灯りが消える。

今回こそ、消させない。

小さく、しかしはっきりと、そう思った。









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