第七章「壊れていく心」
六度目のループが終わった夜のことを、私はあまり覚えていない。
覚えているのは、崩壊する城の中で天井が落ちてきたこと。
それから、暗くなったこと。
それだけだ。
七度目の朝が来た。
レースが揺れている。
光が差し込んでいる。
マリアが扉を叩く。
私は起き上がれなかった。
初めてのことだった。
今まではどんなに疲弊していても、目が覚めた瞬間に頭の中で今回やるべきことを並べて、すぐに動き始めることができた。
しかし今朝は、体がベッドに縫い付けられたように動かなかった。
天蓋のレースを見つめたまま、ただ時間が流れていく。
「セレナお嬢様、お目覚めの時間にございます」
マリアの声が、遠い。
「……今日は少し、待って」
自分の声が、かすれていた。
扉の向こうでマリアが「はい」と答える気配があって、それから静かになった。
私は目を閉じた。
閉じると、見える。
六度の死が、順番に並んでいる。
黒い靄に貫かれた最初の夜。
天井の柱に押し潰された二度目。
床が崩れ落ちていった三度目。
火に巻かれた四度目。
五度目は何だったか、もう思い出せない。
六度目は天井だった。
六回、死んだ。
六回、同じ夜から始まり直した。
その積み重ねが、今朝初めて、体に重さとして現れていた。
やがて何とか起き上がり、着替えを済ませた。
食欲はなかったが、マリアが心配するといけないので形だけ朝食に手をつけた。
甘いはずのジャムが、今日は何の味もしなかった。
ヴァルフォード別邸へ向かう馬車の中で、私はずっと膝の上で手を握っていた。
手が、小さく震えていた。
気づかないふりをしていたが、止められなかった。
書斎に入ると、公爵はいつも通り書類に向かっていた。
顔を上げた瞬間、何かを見て取ったように、目が微かに変わった。
「どうした」
「何でもありません。今日の調査方針を決めましょう」
「座れ」
「座っている時間が」
「座れ」
二度目は静かな命令だった。
私は椅子を引いて、腰を下ろした。
公爵が私を見ていた。
品定めするような目ではない。
何かを測るような目でもない。
ただ、見ていた。
「六度目で何があった」
「崩壊です。いつも通り」
「それだけか」
私は答えなかった。
答えようとして、のどの奥で言葉が詰まった。
六度目は、少し違った。
城が崩れ始めた時、私はもう逃げなかった。
逃げようとする意志が、湧いてこなかった。
またどうせ死ぬのだから、と思った。
どこへ逃げても、何をしても、この夜は終わる。
だったら早く終わらせてしまおうと、ただ立っていた。
それが怖かった。
死ぬことが怖いのではなく、死を待つことに慣れてしまった自分が、怖かった。
「少し、疲れているかもしれません」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
随分と控えめな表現だと、自分でも思った。
公爵は何も言わなかった。
ただ立ち上がって、棚から何かを取り出した。
温かい飲み物が入った小さなカップを、私の前に置いた。
ハーブの香りがした。
「飲め」
「調査が」
「一刻くらい遅れても死なない」
言ってから、公爵は少し表情を止めた。
死なない、という言葉の選択が、この文脈では適切でなかったと気づいたのだろう。
しかし私は逆に、少し笑えた気がした。
「……いただきます」
カップを両手で包む。
温かさが、手のひらから伝わってくる。
一口飲むと、ハーブの香りが胸の奥まで届いた。
それだけのことで、なぜか目の奥が熱くなった。
泣きたいわけではなかった。
泣く理由があるとは思わなかった。
でも熱は引かなかった。
その日の調査は、以前より速く進んだ。
前回のループで積み上げた情報があるおかげで、確認作業の大半は省ける。
新しくわかったことも少しあった。
三百年前の崩壊未遂について、王立図書館の制限資料の中に断片的な記録が残っていた。
公爵が特別な許可を取り付けて、私たちはその資料を閲覧した。
記録は短かった。
しかし一行だけ、目に焼き付く文章があった。
「術式の起点に立つ者が、自らの存在を鍵として差し出すことで、崩壊の連鎖は断たれた」
私はその一行を、何度も読んだ。
公爵も黙ってその文字を見ていた。
どちらも口を開かなかった。
自らの存在を鍵として差し出す。
それが何を意味するのか、はっきりとは書いていなかった。
しかし想像できた。
たぶん、とても単純なことだ。
夕方、別邸への帰り道で急に雨が降り始めた。
馬車の中で、私は窓に額をつけた。
雨粒が窓を流れていく。
王都の灯りが、雨にぼやけて滲む。
その時、ふと思った。
六回死んで、七回目のループに入って、私は一体いつまでこれを続けるのだろう。
いつか、本当の意味で終わりが来るのだろうか。
世界を救えたとして、その後の私はどこへ行くのだろう。
「……もう死にたくない」
声に出すつもりはなかった。
しかし雨の音に隠れるように、言葉がこぼれ出た。
死ぬことが嫌なのではない、と自分でもわかっていた。
同じ夜を繰り返すことが、同じ絶望を何度も体験することが、もう限界に近かった。
馬車が別邸に着いた。
雨の中を走って玄関へ駆け込み、濡れた髪を侍女に拭かせた。
夕食を少し食べて、用意された部屋へ向かった。
今回のループでは、調査の効率を上げるためにヴァルフォード別邸に泊まらせてもらっていた。
寝台に入ったが、眠れなかった。
目を閉じると、また見える。
六回分の死が、順番に並ぶ。
それに加えて今日読んだあの一行が、暗闇の中に浮かぶ。
自らの存在を鍵として差し出す。
自らの存在。
自らの。
気づくと、手が震えていた。
今度は止めようとしなかった。
震えるなら、震えればいい。
誰も見ていない。
ここは公爵の別邸で、マリアもいなくて、父もいなくて、私のことを本当に知っている人間は世界でたった一人しかいない。
六回の死を知っていて、何度戻ってきても変わらず受け入れてくれる人間が、たった一人だけいる。
扉が、静かにノックされた。
息を止めた。
こんな夜中に、誰だろう。
「……起きているか」
低い声だった。
公爵だとわかった瞬間、喉の奥が詰まった。
「起きています」
声がかすれた。
少し間があってから、扉がゆっくりと開いた。
公爵が入ってきた。
外套は脱いでいて、簡素な夜着の上に羽織を一枚かけていた。
灯りを持っていたが、部屋の中を明るくしないように、低く持った。
「眠れないと思って来た」
「どうしてわかったのですか」
「わかる」
それだけ言って、公爵は部屋の中へ入ってきた。
椅子を引いて、寝台の傍らに座った。
私は寝台の上で、膝を抱えるようにして壁に背をつけていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
灯りが揺れて、部屋の中に影が動いた。
雨の音が、窓の外でまだ続いていた。
「馬車の中で聞こえた」
公爵が、静かに言った。
「もう死にたくないと、言っていた」
私は膝に顔を埋めた。
恥ずかしかった。
あんな言葉を聞かれたことが。
それ以上に、それほど追い詰められている自分が。
「弱音を聞かせてしまって、すみません」
「謝ることではない」
「でも、あなたに心配をかけるのは」
「心配している」
短く、はっきりと言われた。
遮られた形になって、私は顔を上げた。
公爵がこちらを見ていた。
無表情だった。
しかし、その目が。
その目が、何かを堪えているような色をしていた。
「六回死んでも諦めない者が弱音を言う時、それは本当に限界だということだ。謝る必要はない」
「……公爵」
「ルシアンでいい」
「え」
「毎回初日に来て、毎回同じ話をして、毎回同じ夜に死んで、それを繰り返している。今さら敬称もないだろう」
私は少しの間、その顔を見つめた。
無表情なのに、妙に落ち着く顔だと思った。
感情が読めないはずなのに、なぜか怖くない。
「では、ルシアン」
名前を呼ぶと、公爵が――ルシアンが、一度だけ瞬きをした。
「今夜だけ、泣いてもいいですか」
自分でも驚いた。
そんなことを言うつもりではなかった。
しかし言葉が、止まらなかった。
「六回分の夜が、溜まっていて。誰かのそばで少しだけ、泣いてもいいですか」
ルシアンは答えなかった。
その代わりに、手を伸ばした。
私の手の上に、静かに手が重なった。
大きな、少し冷たい手だった。
握るのではなく、ただそっと、重ねるように置かれた。
それだけだった。
言葉もなく、抱き寄せるでもなく、ただ手が重なっているだけ。
なのに。
目の奥の熱が、一気に溢れた。
音もなく、涙が落ちた。
泣くつもりはなかったのに、体が先に判断していた。
六回分の死が、六回分の孤独が、今夜初めて誰かに触れた。
ルシアンは何も言わなかった。
動かなかった。
ただ、手をそこに置き続けた。
雨が窓を叩いていた。
灯りが揺れていた。
私はずっと泣いていた。
どのくらいの時間が経ったか、わからない。
涙が止まった頃には、随分と夜が深くなっていた。
顔を上げると、ルシアンはまだそこにいた。
眠ったふうでもなく、疲れたふうでもなく、ただ静かに座っていた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「でも」
「また明日から動けばいい」
ルシアンが立ち上がった。
手が離れた瞬間、その冷たさが名残として残った。
「眠れ。疲れているのに無理をするな。明日、続きを話す」
扉へ向かいながら、ルシアンが振り返った。
灯りを持った手の影が、壁に伸びている。
「君が六回戻ってきたのは、諦めなかったからだ。それは弱さではない」
扉が、静かに閉まった。
私は寝台に横になった。
手のひらに、まだ温もりの残像があった。
冷たいはずの手の、温もりの残像が。
次のループも、また始まる。
また死ぬかもしれない。
でも今夜だけは、それを考えなかった。
ただ、目を閉じた。
今度は、眠れた。




