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第六章「平民少女の正体」

五度目の朝、目が覚めた瞬間に起き上がった。

泣く時間も、天井を見つめる時間も、もう使わない。

マリアが扉を叩く前に着替えを終えて、朝食もそこそこに、私はヴァルフォード家へ向かった。

五度目のループでは、接触を初日に済ませると決めていた。

一週間は短い。

使える時間を一秒も無駄にしたくなかった。

家令に名前を告げると、すぐに通された。

公爵は書斎にいた。

私が入ると、書類から目を上げて、一度だけ瞬きをした。

 

「来たか」

 

「また会いましたね」

 

「何度目だ」

 

「五度目です」

 

公爵は静かに頷いた。

前回のループで交わした会話を、彼は記憶としては持っていない。

しかし残滓として、私が繰り返していることは感じ取れる。

だから驚かない。

ただ、今回も来たという事実を、静かに受け取る。

その受け取り方が、今となってはひどく頼もしかった。

書斎のテーブルに地図と資料を広げながら、私は前回までにわかったことを一通り話した。

術式の構造、婚約破棄が起点であること、リリィが触媒である可能性。

公爵は黙って聞き、時折短い質問を挟んだ。

話し終えると、しばらく考えてから口を開いた。

 

「前回、リリィが結界を一瞬で崩した」

 

「はい。あなたが一日かけて張ったものを、彼女は一歩踏み出しただけで」

 

「それは私の術式が弱かったのではない」

 

公爵の声に、珍しく確信に近いものが混じった。

 

「あのような存在に、通常の結界術式は意味をなさない。魚を石壁で止めようとするようなものだ。そもそも次元が違う」

 

「では今回は、何を中心に調べますか」

 

「リリィだ」

 

公爵は立ち上がり、書棚から一冊の古い本を取り出した。

革表紙が擦り切れて、タイトルも判読しにくいほど色褪せた本だ。

 

「前回君と話してから、一晩かけてこれを読み直した。古代語で書かれた術式論文だが、その中に気になる記述がある」

 

テーブルに本を置き、栞の挟まったページを開く。

古い紙の匂いが漂った。

公爵の指が、一段落を示した。

 

「「人の愛と執着を糧として肥大し、やがて世界そのものへ根を張る存在がある。それは災厄と呼ばれ、人の形を借りて顕現する。その本質は人ではなく、世界の亀裂から生まれた空洞である」」

 

空洞。

その言葉が、腹の底に落ちた。

 

「空洞、というのは」

 

「実体のない存在だということだ。魂がない。意志もない。ただ、人間の感情エネルギーを吸収して増殖する機能だけがある」

 

「では彼女は、自分の意志で動いているわけではない」

 

「おそらく。彼女が笑うのも、話すのも、そこにいるのも、すべて人間に「人間らしく見せる」ための機能だ。本当の意味での意識はない」

 

私はリリィの笑顔を思い出した。

温度のない、しかし完璧に「笑顔」を模倣した表情。

あれは、感情がなかったのではない。

感情という概念を持たない存在が、感情があるように見せていたのだ。

想像するほど、背筋が冷えた。

 

「その論文には、以前にも同じような存在が現れたと書いてありますか」

 

「ある。三百年前、この大陸の東端で世界崩壊に近い現象が起きたという記録だ。その時も、突然現れた「無害な少女」が原因だったとされている。その時は、術式が完成する前に誰かが起点を断ち切ることで崩壊を防いだらしい」

 

「起点を断ち切る、というのが今回の婚約破棄に当たる」

 

「そうなる」

 

「では三百年前はどうやって断ち切ったのですか」

 

公爵の目が、わずかに細くなった。

 

「それが書いていない。記録がそこで途切れている」

 

また、肝心なところで糸が切れる。

私は唇を噛んだ。

その日の午後、私たちはリリィの過去を調べるために王都の各所を回った。

戸籍管理局、王立学術院の入学記録、各区の住民台帳。

どこへ行っても、リリィという名の少女の記録は出てこない。

しかし、もっと奇妙なことがわかった。

リリィと親しくしている人々に直接話を聞くと、全員が「以前から知っている」と言う。

しかしどこで出会ったかを具体的に尋ねると、必ず同じことが起きた。

少し間があって、目の焦点がぼやけて、それから「……あれ、どこだったかしら」と首を傾げる。

記憶が、書き換えられている。

あるいは、最初から「記憶があるように感じさせられている」のかもしれない。

 

「彼女と直接接触したことがある人間を、もう一人当たってみたい」

 

公爵が言った。

 

「一人、心当たりがある。王宮の女官で、リリィが王太子のそばに来た当初から仕えていた者だ。最近体調を崩して休んでいると聞いた」

 

「体調を崩した原因は」

 

「原因不明の魔力枯渇だそうだ」

 

その女官は、王都の外れにある小さな家で横になっていた。

二十代半ばの、本来ならば血色の良い年齢のはずの女性が、まるで水気を抜いたように青白い顔をしていた。

私たちが訪ねると、警戒した目で見たが、公爵の名前を出すと渋々話してくれた。

リリィについて尋ねると、女官の目がすぐに揺れた。

 

「あの方は……」

 

喉が詰まるような間があった。

 

「普通のお方ではありません。近くにいると、自分の大切なものが少しずつ吸い取られていくような感覚があって」

 

「大切なもの、というのは」

 

「感情です。誰かを好きだという気持ちや、家族への愛おしさや、生きていることの喜びや。そういうものが、じわじわと」

 

女官の声が、細くなった。

 

「今は、何を見ても何も感じないんです。美しいお花を見ても、子供の笑顔を見ても、何も。心が空洞になったみたいで」

 

空洞。

さっき本の中で読んだ言葉が、また頭に響いた。

リリィは人の感情を吸収する。

近くにいる者の愛着や喜びや悲しみを少しずつ奪い、自分の「糧」にする。

そして奪われた者は、やがて感情のない空洞になる。

エドガー殿下も、同じことをされているのだとしたら。

彼が婚約破棄を決断したのは、判断力が正常に機能しなくなっていたからかもしれない。

リリィに感情を少しずつ奪われながら、残った部分で彼女への依存だけを強めていったとしたら。

帰り道、馬車の中で私はしばらく黙っていた。

外の景色が流れていく。

夕暮れの王都は橙色で、いつも通りに穏やかだった。

 

「一つ確認させてください」

 

ふと、私は口を開いた。

 

「あなたは今まで、私の近くに何日もいましたよね。残滓を感じ取れるということは、私の感情にも触れているということですか」

 

公爵が私を見た。

 

「残滓を感じ取るのと、感情を読み取るのは別のことだ」

 

「でも、もし彼女があなたの近くにも長くいたら」

 

「私には効かない」

 

短く、断言した。

 

「特殊体質というのはそういうことでもある。感情の流れを感じ取れる分、外部からの干渉には敏感に気づく。彼女が私の感情に触れようとすれば、即座にわかる」

 

「……それは、よかった」

 

思ったより素直に言葉が出て、少し恥ずかしくなった。

公爵は何も言わなかったが、視線がわずかに柔らかくなった気がした。

別邸に戻り、作業部屋で改めて情報を整理する。

テーブルの上に、この日集めた記録が広がっている。

リリィの過去は存在しない。

彼女の近くにいた者が体調を崩している。

感情を奪われた者が王都に少なくとも数名いる。

そして、三百年前にも同じことがあった。

公爵が書類をめくりながら、静かに言った。

 

「改めて、はっきり言う」

 

顔を上げると、公爵の目がこちらを真っすぐに向いていた。

 

「彼女は人間ではない」

 

前回のループで聞いた時より、今回の言葉はずっと重かった。

証拠が積み重なった分だけ、その言葉の意味が深く沈んだ。

 

「わかっています」

 

「わかっていると口で言うのと、実感するのは違う。彼女は完璧に人間を模倣している。知らなければ誰も疑わない。それが最も厄介な点だ」

 

「模倣が完璧であればあるほど、人々は彼女を守ろうとする」

 

「そうだ。エドガー王太子もそうだし、彼女を見て同情した者も多い。彼女に向けられる善意や愛情が、すべて彼女の糧になっている。人間の優しさを、そのまま武器にしている」

 

なんと残酷な構造だろう、と思った。

善意が食われる。

愛情が食われる。

人間が最も美しいと思うものが、そのまま世界を終わらせる燃料になる。

夜が深くなった頃、私は手帳を取り出した。

今回のループでわかったことを書き留める。

書きながら、一つの問いが頭に浮かんだ。

 

「公爵」

 

「何だ」

 

「三百年前、術式の起点を断ち切った誰かは、その後どうなったのですか」

 

公爵の手が、書類の上で止まった。

少しの間があった。

 

「記録がない、と言った」

 

「記録がない、ということは」

 

「その人物が、その後も存在し続けたなら、何らかの記録が残るはずだ。三百年前の話だから消えても不思議はないが」

 

「あるいは」

 

「あるいは、断ち切るために何かを失った可能性がある」

 

公爵は私を見た。

その目が、何かを言いたそうにして、しかし黙っていた。

私も何も言わなかった。

言う必要がなかった。

互いに、同じことを考えているとわかっていた。

起点を断ち切るとはどういうことか。

それがどんな代償を伴うのか。

まだ答えはない。

でも、その答えに向かって進むしかない。

窓の外で、秋の夜風が鳴った。

王都の灯りが、遠くに瞬いている。

またあと二日で終わる街だが、今夜だけは美しかった。

次のループでは、もっと深く潜れる。

今回も失敗するかもしれないが、また一つ、核心に近づいた。

私はそう自分に言い聞かせながら、手帳にペンを走らせ続けた。









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