第五章「婚約破棄は罠だった」
ルシアンとの協力関係が始まってから、調査の速度が変わった。
四度目のループ、残り五日。
私たちは三日で、以前の三倍の情報を集めた。
公爵が持っていたのは、私には手の届かない場所への網だった。
王宮内部の動き、魔術師組合の内部記録、各地から届く異変の報告。
一介の侯爵令嬢では決して辿り着けない情報が、公爵の手元にはすでに揃っていた。
そこに私のループの記憶を重ね合わせていくと、ばらばらだったものが少しずつ輪郭を持ち始めた。
ヴァルフォード家の別邸に用意された作業部屋で、私たちは向かい合って地図を広げた。
王都の地図に、魔力暴走の発生地点、行方不明者の最終目撃場所、異常な動植物の報告があった地点を書き込んでいく。
私がピンを刺し、公爵が記録を読み上げる。
そういう作業を繰り返していると、地図の上にある形が浮かび上がってきた。
「……これは」
私は思わず声を出した。
「気づいたか」
公爵が静かに言う。
「紋様だ」
点と点を線で繋げると、それは古い文献で見た紋様と一致した。
古代の術式を刻む時に使われる、基本的な構造図形。
王都全体が、巨大な術式の「場」として使われている。
「これを完成させるには、あと一点が必要だ」
公爵が地図の中心を指さした。
王城の大広間。
卒業舞踏会が開かれる場所だ。
「中心点が、舞踏会の会場と一致する」
「つまり」
私は自分の声が、わずかに震えるのを感じた。
「舞踏会の夜に、術式が完成する」
「そう考えると、すべての辻褄が合う」
公爵が腕を組んで地図を見下ろす。
「周囲の点は、過去数ヶ月かけて少しずつ「準備」されてきた。魔力暴走も、行方不明者も、おそらくは術式の構成要素を調整するための工程だ。そして最後の夜、中心点で何かが起きると術式が完成し、反転する」
「何かが起きる、というのが」
「婚約破棄だ」
言葉が、作業部屋の空気に重く落ちた。
窓の外では秋の風が木々を揺らしているが、この部屋の中だけ時間が止まったように感じる。
私はゆっくりと椅子に座り直した。
頭の中で、情報を整理する。
あの夜、エドガー殿下が婚約破棄を宣言した。
私は断罪された。
大勢の貴族の前で、根拠のない罪を着せられ、否定する言葉も奪われた。
その時に溢れた感情が、術式の引き金になった。
それは偶然ではなかった。
最初から、そうなるように設計されていたのだ。
「私が断罪される場面が、術式の起点として選ばれた」
「断罪を受ける者の感情が必要だったのだろう。絶望、屈辱、怒り。それが純粋に、圧力をかけられた状態で爆発する瞬間が」
「……使われた、ということですね。私の感情が、道具として」
公爵は答えなかった。
答えない、ということが答えだった。
腹の底から、静かな怒りが来た。
熱い怒りではなかった。
ぐつぐつと煮え立つような、冷たい怒りだ。
誰かが、私の人生を道具として使った。
婚約破棄という屈辱を仕組み、私の絶望を利用して世界を終わらせようとした。
「誰が、仕組んだのですか」
「それが最後の問題だ」
公爵が椅子を引いて座り、私と向き合った。
「エドガー王太子は操られている可能性が高い。彼が婚約破棄を決断した経緯を追うと、リリィとの接触後から急激に判断が変わっている。本来の彼は、そこまで愚かではない」
「リリィが操った」
「彼女が人の感情や記憶に干渉できるなら、王太子を誘導することは難しくない。しかし問題は、リリィ自身が意思を持って動いているのか、それとも彼女もまた誰かに使われているのかだ」
私は手帳を取り出して、これまでに書き留めた情報を見直した。
クロード老人が言っていた「記憶の縫い目に滑り込む」という言葉。
崩壊の最中に一人で立っていたリリィの姿。
何の感情も宿っていなかったあの目。
「リリィは、人間ではないかもしれない」
呟くように言うと、公爵が頷いた。
「私もそう考えている。人間が自然に持ち得ない能力を複数持ち、存在記録がなく、術式の完成に関わっている。彼女は何らかの「現象」が人の形を取ったものではないかと思っている」
「現象」
「古代の文献に、こういう記述がある。「世界が崩壊に向かう時、その崩壊を加速させる触媒が人の形を借りて現れる」と」
触媒。
その言葉が、頭の中でリリィの微笑みと重なった。
崩壊の最中、傷ひとつなく立ち、静かに笑っていたあの姿。
彼女は崩壊を恐れていなかった。
それが当然だったからだ。
自分がその一部だから。
「ならば彼女を排除すれば」
「そう簡単ではない」
公爵の声に、わずかな重みが加わった。
「彼女を排除しようとした場合、術式が途中で乱れる可能性がある。中途半端に乱れた術式は、完成した時より危険な崩壊を引き起こすこともある。むやみに動けない」
「では、術式そのものを壊す方法を探す」
「それも考えている。ただし時間が足りない」
残り二日。
私たちが今持っている情報は多い。
しかし「どうすれば世界崩壊を止められるか」という答えには、まだ届いていない。
その夜遅く、別邸の廊下を歩きながら、私は一つのことを決めた。
今回も、おそらく世界は終わる。
しかしそれでいい。
今回は、今までで一番多くのことがわかった。
次のループでは、この情報を持って、最初からルシアンと組んで動くことができる。
書斎へ戻ろうとした時、廊下の窓から外を見た。
夜の王都が広がっている。
灯りが点在して、遠くで犬の声がした。
二日後に終わる街だとは、誰も知らない。
背後に気配があった。
振り返ると、公爵が立っていた。
「まだ起きていたのか」
「あなたもですね」
公爵は答えず、隣に立って窓の外を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙が、不思議と重くなかった。
「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「あなたはなぜ、一人で調べていたのですか。一年間も」
公爵の横顔が、窓の外を向いたまま動かない。
少しの間があった。
「感じ取れるのに、何もしないわけにはいかない」
短い言葉だった。
それ以上の説明はなかった。
しかし私には、その言葉の重さが伝わった気がした。
誰も気づかない異変を一人で感じ取り、一人で調べ続けた一年間。
それがどれほど孤独だったか、私には少しだけわかる。
自分のループの孤独と、重なる部分があった。
「私も、同じです」
窓の外を見ながら、私は言った。
「死に戻りするたびに、何も変えられない無力感がある。それでも、感じ取れるのに諦めるわけにはいかない」
返事はなかった。
ただ、公爵の肩が、ほんの少しだけ、力を抜いたように見えた。
気のせいかもしれない。
しかし私は、気のせいではないと思いたかった。
舞踏会当日。
私たちは最後の手を打った。
公爵が王宮の内部に伝手を使い、儀式の起動を遅らせるための結界を、舞踏会場の周囲にひそかに張った。
私は証拠書類を揃え、断罪の場で声を上げる準備をした。
完全ではない。
それでも、何もしないよりはずっとましだ。
広間に入った時、リリィの視線が私に向いた。
一瞬だけ。
それだけで、私の背筋が冷えた。
彼女は知っている。
私が何を知っているか、何をしようとしているか、全部知っている。
そしてエドガー殿下が声を上げた。
婚約破棄が告げられた。
私は今回も反論した。
しかし今回は、広間にいた公爵も動いた。
「待て」
公爵の声が、広間を制した。
「氷血公爵」の発言は、王家への反論さえも一時停止させる力を持っている。
貴族たちが息を飲んだ。
「殿下の断罪には、手順上の問題がある。証拠の開示なく一方的に行うことは、王家の規定に反する」
エドガー殿下の表情が揺れた。
前回のループでは見せなかった、わずかな動揺だ。
しかしその瞬間、リリィが動いた。
彼女が一歩前へ出た。
それだけで、広間の空気が変わった。
温度が下がった。
光が、わずかに歪んだ。
「邪魔をしないでください」
リリィが、初めて声を出した。
澄んだ、美しい声だった。
しかしその声には、人間の声には本来ないはずの何かが混じっていた。
周波数がずれているような、反響が二重になっているような。
その声が広間に響いた瞬間、公爵の張った結界が音を立てて崩れた。
白い光が散って、消えた。
リリィが私を見た。
微笑んでいた。
さっきまでと同じ、温度のない笑顔で。
「あなたは何度繰り返しても、ここを越えられない」
静かな声で、彼女は言った。
まるで事実を告げるように。
「それがあなたの、限界です」
次の瞬間、城が揺れた。
今回は今までで一番速かった。
結界が崩れたせいで、術式の起動が一気に進んだのだ。
黒い靄が扉を割って流れ込んでくる。
シャンデリアが落ちる。
悲鳴と轟音が重なる。
公爵が私のそばに来た。
「退け」
叫ぶでもなく、低く言った。
「今回は諦めろ。次に繋げ」
「あなたは」
「私は大丈夫だ」
大丈夫の意味が、その文脈では信じられなかった。
しかし黒い靄が迫ってくる速度が速すぎて、考える時間がなかった。
私の視界が暗くなる直前、公爵の顔が見えた。
相変わらず無表情だった。
しかし今まで見たどの無表情とも、少しだけ違った。
何かを、堪えているような顔だった。
そして四度目のループが、終わった。
暗闇の中で、リリィの言葉が繰り返された。
何度繰り返しても、ここを越えられない。
あなたの限界だ、と彼女は言った。
違う、と私は思った。
暗闇の中で、はっきりとそう思った。
まだ、諦めていない。




