第四章「氷血公爵」
四度目の朝は、もう驚きを伴わなかった。
天蓋のレースが揺れている。
朝の光が差し込んでいる。
一週間前の、同じ朝だ。
私はベッドの上で天井を見つめながら、今回やるべきことを頭の中で並べた。
最優先事項はひとつ。
ルシアン・ヴァルフォード公爵に、できる限り早く接触すること。
前回のループで彼は、私が「何回目か」と尋ねた。
それは偶然の言葉ではない。
彼は何かを知っている。
そして彼が「確信」と言ったことも、ただの言葉遊びではないはずだ。
三度の失敗を経てようやく見つけた糸口を、今度こそ丁寧に手繰る。
問題は、どうやって接触するかだ。
ヴァルフォード公爵は社交の場に顔を出すことが少ない。
王家との関係は良好だが、必要以上の交流を避けることで知られている。
令嬢が突然訪問しても、門前払いになる可能性が高い。
かといって古書店での「偶然の再会」を待つのは、時間が惜しい。
今回は一週間という限られた時間の中で、できるだけ多くを公爵から引き出さなければならない。
着替えをしながら、私は考え続けた。
ルシアン・ヴァルフォードについて知っていることを、一から整理する。
冷徹。
無表情。
感情を表に出さない。
「氷血公爵」と呼ばれるほど冷淡と評判だが、実際に彼と深く関わった人間の話はほとんど聞かない。
そもそも、彼の周囲に人間が寄り付かないのだ。
しかし前回、彼は私に話しかけてきた。
自分から。
あれは偶然ではなかっただろう。
彼は私を見て、何かを感じ取り、声をかけた。
ということは、私から近づく方法を考えるよりも、彼が自然に気づける状況を作るほうが早いかもしれない。
朝食の後、私は屋敷の書庫へ向かった。
ヴァルフォード家に関する文献を引っ張り出して、公爵の最近の動向を調べる。
社交界の記録、議会への出席記録、王都内での目撃情報。
ひとつひとつを丁寧に追っていくと、ひとつのことがわかった。
公爵は毎週水曜日の午後、王立学術院の講義に聴講者として参加している。
魔術理論に関する講義だという。
今日は火曜日だ。
翌朝、私は令嬢らしからぬ速さで王立学術院へ向かった。
聴講の申請は前日までに出すものだが、侯爵家の名前と少々の機転を使えば、当日でも無理ではない。
受付の職員がやや困った顔をしたが、最終的には通してもらえた。
講義室は広く、天井が高く、壁一面が黒板で覆われていた。
木製の長椅子に学者や研究者たちが並んでいる。
令嬢の姿は私だけで、明らかに場違いだったが、構わなかった。
ルシアン・ヴァルフォード公爵は、最後列の端に座っていた。
他の聴講者から少し距離を置いた場所に、一人で。
黒い外套を纏ったその姿は、周囲の空気を静かに押しのけているようだった。
講義が始まった。
題目は「魔力の流動と世界構造の安定化について」。
私の計画と、あまりにも都合がいい一致だと思いながら、私はノートを取るふりをして公爵の横顔を観察した。
講師の言葉に、公爵は時折わずかに反応する。
眉が動く。
指が止まる。
外からはほとんどわからないほど小さな反応だったが、私の目には届いた。
講義が終わると、聴講者たちが一斉に席を立った。
私は素早く動いた。
公爵が出口へ向かう動線の、少し手前に立つ。
ぶつかりそうになる距離ではない。
しかし視界に入る距離だ。
公爵が気づいた。
歩みがほんの少し、遅くなった。
「……また会ったな、アークライト侯爵令嬢」
「奇遇ですね、ヴァルフォード公爵」
「奇遇ではないだろう」
短い言葉。
しかし前回と同じく、敵意はない。
ただ、事実を指摘する目だ。
「少し、お時間をいただけますか」
公爵はしばらく私を見ていた。
何かを考えているのか、ただ無表情なのか、判別がつかない。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「学術院の中庭に、人の来ない場所がある。そこで話そう」
中庭は、夏の終わりの光の中に静かに佇んでいた。
手入れの行き届いた芝生と、申し訳程度に植えられた木が数本。
確かに人気がない。
石のベンチに腰を下ろした公爵は、私が座るより先に口を開いた。
「前回、君は古書店で私に会った」
断言だった。
問いかけではない。
「……あなたは前回のことを覚えているのですか」
「覚えているわけではない」
公爵は空を見た。
秋の澄んだ青が、彼の切れ長の目に映る。
「私は時間逆行の残滓を感じ取ることができる。誰かがループを繰り返すたびに、その痕跡がわずかに蓄積される。記憶ではなく、感覚として残る」
「残滓、というのは」
「君が同じ時間を三度経験したなら、この世界には君の行動の痕跡が三層分、薄く重なっている。それを私は感じ取れる。どこで何をしたかまではわからない。しかし、君が何度もここに来たことは、わかる」
私は息を整えた。
そういうことか、と思った。
だから古書店で彼は私に声をかけた。
ループを繰り返すたびに残る「残滓」を感じ取り、この令嬢は何かが違うと気づいた。
「では今回、あなたは私が来ることを予測していた」
「予測というより、待っていた。どこかで接触してくるだろうと思っていた」
「どうして待っていたのですか」
公爵がこちらへ顔を向けた。
正面から視線が合う。
感情を排した目。
しかしその奥に、何か確かなものが宿っている。
「時間逆行を繰り返している者が、この世界にいる。それは世界にとって、偶然ではなく必然だ。なぜならこの世界には、すでに歪みが生じているからだ」
「歪み」
「古代の安定術式が、逆転しかけている。君はそれを調べていただろう。図書館の記録に、侯爵令嬢の貸し出し記録が残っていた。しかも三度分、同じ文献の」
私は少し呆れた。
いや、呆れながらも、この人物の観察眼に感心した。
「つまり、あなたも世界崩壊の原因を調べていたということですね」
「一年前から」
「一年前から」
思わず繰り返した。
一年前というのは、リリィが王都に現れるより前だ。
それよりも早く、公爵は異変を察知していたことになる。
「何が原因だとわかりましたか」
「わかっていれば、すでに動いている」
短い沈黙。
「ただ、起点がどこかは絞り込めてきた。何か大きな「感情の爆発」が術式の引き金になっている可能性が高い。悲しみ、絶望、憎しみ、そういった類のものが、大量に一点へ集中した時に術式が反転する」
私の心の中で、何かがぴたりと合わさる音がした。
感情の爆発。
一点への集中。
婚約破棄の場で、私は断罪された。
大勢の貴族の前で、根拠のない罪を着せられ、名誉を剥奪された。
その時の私の感情が、術式の引き金になったとしたら。
「……婚約破棄が、起点なのかもしれません」
公爵の目が、微かに変わった。
「説明してくれ」
私は話した。
死に戻りのこと。
一度目と二度目に見た世界崩壊のこと。
舞踏会の夜に何が起き、どのように世界が終わったか。
リリィという少女が、崩壊の最中に一人だけ傷ひとつなく立っていたこと。
公爵は最後まで黙って聞いていた。
遮らず、表情を変えず、しかし確かに聞いていた。
話し終えると、しばらくの間があった。
中庭に秋の風が通り抜けて、木の葉が一枚、足元へ落ちてきた。
「リリィという少女について、私も調べていた」
公爵が口を開いた。
「存在記録がない。過去の記録を遡っても、どこにも彼女の名前が出てこない。しかし王太子の周辺にいる者たちは全員、以前から彼女を知っていたと言う」
「クロードも同じことを言っていました。記憶の縫い目に滑り込むような、と」
「上手い表現だ」
公爵は静かに続けた。
「彼女は人間の記憶に干渉できる可能性がある。それが自然に行われているのか、意図的なのかはまだわからない。しかし、存在記録のない者が王太子のそばに収まり、誰もそれを疑わないというのは、普通ではない」
「では彼女が黒幕だと思いますか」
「黒幕というより――」
公爵は少し言葉を選んだ。
「器だと思っている。何か別のものを運ぶための、器だ」
器。
その言葉が、胸の奥で低く響いた。
私たちはその後、一時間ほど話し合った。
互いが持つ情報を出し合い、整理し、今後の調査の方針を決めた。
公爵は情報収集の網を持っていて、私は「ループの記憶」という唯一無二の情報を持っている。
補い合える部分が、確かにある。
「一つ、確認させてください」
別れ際に、私は問いかけた。
「あなたは今回、私を信じてくれるのですか。死に戻りの話を、荒唐無稽だとは思わないのですか」
公爵はしばらく私を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ、表情が動いた。
笑ったわけではない。
しかし何かが、僅かに緩んだ。
「残滓を感じ取れる私に、荒唐無稽と言う資格はない」
それだけ言って、公爵は立ち上がった。
黒い外套が、秋風にわずかに揺れる。
「次に連絡が必要な時は、ヴァルフォード家の家令に言づけを頼め。私の名前を出せば通る」
「わかりました」
「それと」
公爵が振り返った。
まっすぐな目が、こちらを見る。
「三度死んでまだ諦めていないのは、相当なことだ」
褒めているのか呆れているのか、無表情ではわからない。
しかしその言葉は、どこか不思議と温かく、私の胸に落ちた。
公爵の背中が中庭の向こうへ消えた後、私はベンチに座ったまま、しばらく動かなかった。
空の青が、少しだけ明るく見えた気がした。
三度のループで初めて、味方ができた。
孤独ではなくなった。
それがこれほど、体の力を抜かせるものだとは思わなかった。
今回もまた、世界は終わるかもしれない。
私はまた死ぬかもしれない。
しかしそれでも、次のループは今までとは違う場所から始められる。
胸の中で、小さな火が灯った。
消えそうで、消えない、頑固な小さな火だ。
私はベンチから立ち上がり、学術院の石畳を踏み出した。
やるべきことが、また増えた。
増えた分だけ、前へ進んでいる。
そう信じて、足を動かし続けた。




