第三章「死ぬたびに近付く終焉」
三度目は、静かに始まった。
目が覚めた瞬間、泣きたいとも叫びたいとも思わなかった。
ただ、天蓋のレースを見上げて、ひとつだけ息をついた。
また、一週間前だ。
また、同じ朝だ。
侍女のマリアが扉を叩く。
その音さえ、もう覚えてしまった。
「セレナお嬢様、お目覚めの時間にございます」
「今開けるわ」
二度繰り返した言葉を、三度目も繰り返す。
マリアの顔を見て、懐かしいとも思わなかった。
ただ、よかった、と思った。
彼女がまだここにいることが。
まだ世界が終わっていないことが。
ベッドから起き上がりながら、私は今回の方針を決めた。
前回の失敗を振り返ると、問題は二つある。
ひとつは、婚約破棄そのものを止めようとしたこと。
二度試みて、二度とも阻止できなかった。
婚約破棄は、何かもっと大きな流れの中に組み込まれていて、個人の努力程度では動かせない位置にあるらしい。
もうひとつは、「なぜ世界が崩壊するのか」をまったく理解できていないこと。
表面だけを見て、表面だけを変えようとしていた。
それではいつまでも同じ結末を繰り返すだけだ。
だから今回は、根を掘る。
婚約破棄と世界崩壊が繋がっているなら、その繋がりを見つける。
リリィという存在が鍵なら、その正体を突き止める。
そして、王都で何が起きているのかを丁寧に観察する。
着替えを終え、朝食を済ませた後、私は一人で王都へ出た。
侯爵家の令嬢が護衛なしで街を歩くのは、本来許されないことだ。
しかし今回の私には、体裁を守っている余裕がない。
マリアには「友人の家へ顔を出してくる」と伝えて、目立たない地味な外出着を選んで馬車を降りた。
王都の下町は、いつも活気に満ちている。
市場の威勢のいい声、石畳を走る子供たちの笑い声、パン屋の窯から漂う香ばしい匂い。
私が令嬢教育の枠の中でしか知らなかった世界が、ここにはある。
しかしその活気の中に、今日は妙なものが混じっていた。
露店が一軒、突然燃え上がった。
火の気のないはずの場所から、青白い炎が噴き出したのだ。
水をかけてもすぐには消えず、近くにいた魔術師が必死に術式を組んでやっと鎮火した。
「また魔力暴走か」
近くで見ていた男が、苦い顔で呟いた。
「最近多いな。先週も東区で似たようなことがあったじゃないか」
「ああ。しかも行方不明者の話も続いてる。あの通りの肉屋の親父、もう十日帰ってないって話だぞ」
男たちの会話を、私は足を止めて聞いた。
魔力暴走。
行方不明者。
どちらも、一度目や二度目のループでは気に留めなかった情報だ。
いや、気に留める余裕がなかったと言うほうが正確かもしれない。
前の二回は、婚約破棄のことで頭がいっぱいで、街の異変など見えていなかった。
その日一日かけて、私は王都の各区を歩き回った。
行商人に話しかけ、立ち寄った茶館で噂話に耳を傾け、掲示板に貼り出された行方不明者の張り紙を手帳に書き写した。
集まった情報を整理すると、異変は少なくとも二週間前から始まっていた。
東区では魔力暴走による火災が三件。
北の水路では、原因不明の水質汚染が起きた。
王立研究院の若い魔術師が突然発狂し、今は療養中だという話もあった。
行方不明者は、私が把握できただけで七名。
いずれも深夜に外出したまま消えている。
これは、偶然の重なりではない。
屋敷へ戻る馬車の中で、私は手帳を膝の上に広げながら考えた。
婚約破棄が起きる夜、世界は崩壊した。
しかしその崩壊は、あの夜だけに準備されたものではないはずだ。
もっと以前から、少しずつ、何かが歪んでいたのだろう。
あの黒い魔物たちは、突然どこかから現れたのではなく、すでにどこかに潜んでいたのだ。
問題は、誰が、何のために、そんなことをしているのか。
翌日から三日間、私はさらに調査の網を広げた。
王立図書館へ足を運び、古代魔術に関する文献を片端から読んだ。
世界崩壊に関する伝説や逸話を探した。
魔力暴走の原因として考えられる術式について調べた。
そして、ひとつのことがわかった。
この世界は、古代に作られた「安定の術式」によって維持されている。
大地に刻まれた見えない紋様が、世界の魔力の流れを均衡させているのだ。
しかしその術式は、特定の条件が重なった時に、逆転する仕組みになっている。
均衡を保つための術式が、世界を崩壊させるための術式へと変貌するのだ。
その「特定の条件」が何なのか、文献には書いていなかった。
肝心なところが、どの資料でも切り取られたように欠けている。
舞踏会の二日前、私は王都の南区にある古書店へ向かった。
そこに、他の図書館では手に入らない類の本が眠っているという話を、偶然立ち寄った茶館で聞いたのだ。
薄暗い店内は埃の匂いがして、床から天井まで本が積まれていた。
棚と棚の間が迷路のように入り組んでいて、奥へ進むほど人の気配が薄くなる。
目当ての文献がどこにあるかもわからないまま棚を眺めていると、不意に背後で声がした。
「……珍しい。令嬢がひとりでこんな場所に来るとは」
振り返ると、そこに男が立っていた。
背が高い。
光の薄い古書店の中でも、その人物の存在感は不思議と際立っていた。
艶のない黒髪、切れ長の目、感情を削り落としたような無表情。
着ているのは質素な黒の外套だが、その立ち姿には明らかに育ちの良さが滲んでいる。
ルシアン・ヴァルフォード公爵。
「氷血公爵」と社交界で囁かれる男だ。
感情を表に出さず、常に一定の距離を保ち、誰とも深く関わらないことで知られている。
名門ヴァルフォード家の当主として政治的な影響力は大きいが、その素顔を知る者はほとんどいない、と言われる人物だ。
「これは、ヴァルフォード公爵。こんなところで偶然ですね」
「偶然ではない。私はここへ定期的に来ている」
短い言葉。
余分な愛想もなく、かといって敵意もない。
ただ、事実だけを告げる話し方だった。
「アークライト侯爵令嬢が古書店に一人で来るのは、確かに珍しい。何か調べているのか」
「少し気になることがあって」
「古代術式に関する文献を探しているように見えたが」
私の手の中にある本のタイトルを見て、公爵はそう言った。
なぜそれがわかるのかと聞きたかったが、それより先に気づいてしまった。
公爵の手の中にも、同じ棚から取り出されたらしい文献がある。
どちらも、世界の安定術式に関する本だ。
「……公爵も、同じことを調べているのですか」
公爵は答えなかった。
ただ私を見た。
その目が、わずかに細くなった。
何かを測るような、品定めするような目だった。
しばらくの沈黙。
古書店の奥で、埃が舞った。
「……君は、何回目だ?」
公爵が、静かにそう言った。
私は息を飲んだ。
何回目、という言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
いや、理解できなかったのではない。
理解しすぎて、体が動かなくなったのだ。
この人は、わかっているのか。
私が何度も同じ時間を繰り返していることを。
死に戻りしていることを。
喉が乾く。
心臓が速くなる。
それでも私は、表情を変えなかった。
侯爵令嬢として叩き込まれた、感情を隠す術が、今ここで役に立った。
「……何のことでしょうか」
「とぼけなくていい」
公爵は静かに言った。
感情のない声で、しかし確信を持って言った。
「君の目が、一度死んだ人間の目をしている。私はそれを、他の誰かでも見たことがある」
他の誰か。
その言葉が、古書店の薄暗い空気の中に落ちた。
私は公爵の目を見た。
切れ長の目が、真っすぐにこちらを見ている。
嘘をついている目ではない。
からかっている目でもない。
ただ、静かに、事実を告げている目だ。
この人は何を知っているのか。
「他の誰か」とは誰のことなのか。
なぜ古代術式を調べているのか。
問いが積み重なって、どれを最初に口にすればいいかわからなくなる。
それでも私は、答えた。
「……三回目です」
公爵は表情を変えなかった。
ただ、一度だけ目を閉じて、また開いた。
まるでその答えを確かめるように。
「そうか」
それだけだった。
それだけで、公爵は本棚へ向き直った。
私は、背中を向けたその人に向かって、続けて問いかけた。
「あなたは、何を知っているのですか」
公爵は答えなかった。
しかし歩き去りもしなかった。
棚の前に立ったまま、少しの間、黙っていた。
「今はまだ、話せることが少ない」
振り返らずに、静かな声で言った。
「だが舞踏会の夜が来る前に、もう一度会うことになるだろう」
「それは予言ですか」
「……いや」
短い間があった。
「確信だ」
公爵はそのまま本を棚へ戻し、店の奥へと消えていった。
埃と古紙の匂いだけが、その場に残った。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
心臓がまだ速い。
手の中の文献が、少し汗ばんでいる。
初めてだった。
三度のループを通じて、私が「死に戻り」をしていることを察した人間は、この人が初めてだった。
そして初めて、孤独の重さを実感した。
一人で繰り返してきたこの時間が、どれほど孤独だったかを、誰かに見抜かれた瞬間に初めて知る。
店を出ると、夕暮れの街が橙色に染まっていた。
屋台の煙が漂い、子供の声が遠くから聞こえてくる。
この街がまた二日後に終わるとわかっていても、今この瞬間は、どこまでも普通の夕暮れだった。
私は手帳を取り出して、短く書き付けた。
「ヴァルフォード公爵、要確認。何を知っているか。次のループでは最優先で接触すること」
それから少し考えて、もう一行加えた。
「今回のループは、たぶんまた失敗する。でも、次に繋げる」
書き終えて、手帳を閉じた。
三度目も世界は終わるだろう。
私もまた死ぬだろう。
しかし今回は、前の二回よりずっと多くのことを手に入れた。
たった一つの問いかけが、世界を変えるかもしれない。
「君は、何回目だ?」
あの目が、まだ頭に残っている。
感情のない顔で、しかし確かに私を見ていた目。
あの人は何者なのか。
どこまで知っているのか。
次のループで、必ず聞き出す。
夕暮れの石畳を踏みながら、私は静かに決意を固めた。




