第十章「裏切り」
九度目のループの六日目、全てが壊れた。
その日の朝まで、私たちは順調だと思っていた。
継ぎ人の記録をさらに読み解き、運命を失うことの具体的な意味が少しずつわかってきていた。
渇望の核を断ち切る方法の輪郭も、ようやく見えていた。
あと一日乗り越えれば、舞踏会の夜に全てを試せる。
そこまで来ていた。
連絡が入ったのは、昼過ぎのことだった。
ヴィンセント・カーライルという名の王立学術院の研究員が、ルシアンの情報網の一端を担っていた。
魔術理論の専門家で、私たちが古代術式を解読する上で幾度も助けを借りた人物だ。
物静かで誠実そうな中年の男で、危険な調査に協力する理由として「この国の未来が心配だ」と言っていた。
私はその言葉を、疑わなかった。
疑う理由がなかった。
彼からの伝言は短かった。
「決定的な資料が手に入った。今すぐ来てほしい。王宮の古文書室に入る許可も取り付けた」
ルシアンは少し考えてから、私を見た。
「護衛を連れていく」
「もちろんです」
「……何か、引っかかる」
「引っかかる?」
「うまく言えないが」
ルシアンは眉をわずかに寄せた。
珍しい表情だった。
「やめるか」
「いえ、行きましょう。あと一日しかない。決定的な資料と言うなら、確認しなければ」
私が言うと、ルシアンは短く頷いた。
護衛を三人連れて、私たちは王宮へ向かった。
古文書室は王宮の最奥部にある。
回廊を歩きながら、私は奇妙な感覚を覚えていた。
廊下が、静かすぎる。
普段なら行き交っているはずの使用人や衛兵の姿が、この区画だけ見当たらない。
「ルシアン」
「わかっている」
彼の声が、一段低くなっていた。
護衛たちも気づいて、自然に私たちの周囲に布陣するように動いた。
古文書室の扉が、少し開いていた。
中から明かりが漏れている。
ルシアンが手を上げて、護衛を止めた。
自分が先に入ろうとした。
私がその腕を掴んだ。
「私が先です」
「なぜ」
「あなたを失うわけにはいかない。私が死んでも戻れるけれど、あなたは」
「そういう理屈は認めない」
「でも」
「一緒に入る」
押し問答をする時間はなかった。
扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。
「どうぞ、入ってください。待っていました」
声のトーンが、いつもと違った。
落ち着きすぎていた。
緊張感がなさすぎた。
わかってはいたのに、私は扉を押した。
古文書室の中に、ヴィンセントが立っていた。
しかし彼の後ろに、もう一人がいた。
リリィだった。
白いドレスのまま、静かにそこに立っていた。
微笑んでいた。
私と目が合った瞬間、その笑顔がわずかに深くなった。
「よく来てくれました」
リリィが言った。
あの、二重に響く声で。
「ヴィンセント」
ルシアンが静かに言った。
怒りでも驚きでもない声だったが、その静けさの奥に何かが沈んでいた。
「申し訳ありません、公爵」
ヴィンセントが言った。
目を伏せていた。顔が青かった。
「家族がいるんです。妻と、子供が二人。彼女に……脅された」
声が震えていた。
本当に苦しそうだった。
しかしそれが、今の私たちを救う理由にはならなかった。
ルシアンが私の前に出た。
護衛たちが術式を展開し始める気配がした。
私も咄嗟に自分の持つ護身用の魔術具を取り出した。
リリィは動かなかった。
動く必要がないとわかっているように、ただ立っていた。
「セレナ・フォン・アークライト」
リリィが、私の名前を呼んだ。
初めてだった。
彼女が私の名前を呼んだのは、この九度のループで初めてのことだった。
「あなたは何度戻っても、ここまでしか来られない」
「今回は違います」
「そうは見えない。あなたはまだ、継ぎ人になることを怖れている」
息が、詰まった。
図星だったから。
継ぎ人になれば運命の糸を失う。
それが何を意味するのか、完全には理解できていなかった。
しかし何かを失うということはわかっていた。
わかっていて、その何かが何なのかを、直視することを避けていた。
「怖れていても、やります」
「できるかしら」
リリィが一歩前へ出た。
それだけで、護衛が展開していた術式が、音を立てて霧散した。
前回と同じだ。
彼女の一歩が、全ての術式を無効化する。
ルシアンが術式を組んだ。
今まで見たことのない複雑な構造で、複数の属性を組み合わせた高度なものだ。
それを一瞬で形成して、リリィへ向けて放った。
リリィが手を上げた。
放たれた術式が、空中で崩れた。
しかし今回は完全には消えず、一部が跳ね返った。
跳ね返った衝撃が部屋の中で爆発して、棚が倒れ、書類が舞い、床が揺れた。
混乱の中で、私は動いた。
リリィの背後に回り込もうとした。
継ぎ人の記録に書いてあった。
核に直接触れることが、断ち切る条件かもしれない。
リリィが核を体内に持っているなら、直接接触することで何かが起きるかもしれない。
あと三歩のところで、ヴィンセントが動いた。
苦しそうな顔のまま、手に持った何かを私へ向けた。
魔術具だった。
小さな、しかし密度の高い術式が込められている。
ルシアンが叫んだ。
「セレナ!」
初めて、名前を叫んだ声だった。
間に合わなかった。
衝撃が来た。
今までの死とは違う感覚だった。
貫かれるでも押し潰されるでもなく、内側から何かが炸裂するような、爆発の感触だった。
床に倒れた。
天井が見えた。
古文書室の高い天井が、揺れているように見えた。
体が動かなかった。
指先さえ動かせなかった。
ただ、呼吸だけがまだあった。
それも、段々と浅くなっていく。
足音が近づいた。
ルシアンが来た。
私のそばに膝をついた。
その顔が、今まで見たどの顔とも違った。
無表情ではなかった。
感情を制御してもいなかった。
何かが剥がれ落ちたような、むき出しの顔だった。
「セレナ」
声が、掠れていた。
「大丈夫です、また戻ります」
私は言った。
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「戻ります。でも今回わかったことは覚えています。次こそ」
「黙れ」
ルシアンが言った。
静かだったが、震えていた。
彼の手が、私の手を握った。
七度目の夜に、そっと重ねてくれた手と同じ手が、今度はしっかりと握っていた。
「次のループの話をするな」
「でも」
「今、君に話している」
その目が、真っすぐに私を見ていた。
いつも感情を削り落としたような目が、今この瞬間だけ、全部を持っていた。
悔しさと、怒りと、恐怖と、そしてもっと別の何かが、全部一緒に入っていた。
私の視界が、じわりと滲み始めた。
意識が遠のいている。
呼吸が、細くなっていく。
「ルシアン、私は大丈」
「愛している」
言葉が、途切れた。
ルシアンの声だった。
低く、静かで、しかし今まで聞いたどんな言葉より重かった。
感情を切り落とした声ではなく、感情を全部乗せた声だった。
氷血公爵が、初めて声に感情を乗せていた。
「何度ループしても、何度出会っても、毎回同じところへ辿り着く。だから確かだ」
意識が、遠い。
ルシアンの顔が、ぼやけていく。
手の感触だけが、まだある。
しっかりと握られた手の、温かさだけが。
「次に会う時も、言う」
聞こえた。
かすかに、しかし確かに聞こえた。
「だから戻ってこい」
私は答えようとした。
言葉は出なかった。
しかし、口の端が少し動いた。
笑えたかどうかは、わからない。
暗くなった。
今までで一番、静かな暗闇だった。
痛みもなく、冷たさもなく、ただ温かい手の感触だけを最後まで持ったまま、意識が消えた。
暗闇の中で、その言葉が響いていた。
愛している、とルシアンが言った。
何度ループしても、毎回同じところへ辿り着くと言った。
だから確かだと言った。
暗闇の中でも、その言葉だけは消えなかった。
消えずに、温かいまま、私と一緒に次のループへ向かっていった。




