第十一章「最後のループ」
十度目の朝は、違った。
目が覚めた瞬間にわかった。
天蓋のレースを見上げながら、私はその違いを全身で受け取った。
体が、軽かった。
軽すぎた。
まるで自分の輪郭が薄くなったような、存在の密度が下がったような感覚だ。
布団の重さを感じる皮膚の感覚が、わずかに鈍い。
息を吸う時の空気の質感が、少しだけ遠い。
鏡の前に立った。
映っている顔は、いつものセレナ・フォン・アークライトだ。
しかし目が、違った。
いつもより透き通っている。
透き通って、奥に何か暗いものが見えるような。
まるで、中身が少しずつ薄くなっているような目だった。
これが何を意味するのか、理性ではまだわかっていなかった。
しかし体が、魂の奥の部分が、ただちに答えを告げていた。
これが、最後だ。
マリアが扉を叩く。
「セレナお嬢様、お目覚めの時間にございます」
「今開けるわ」
声が、かすかに震えた。
マリアが入ってきて、私の顔を見た瞬間、眉をひそめた。
「お嬢様、お顔の色が……」
「大丈夫よ。少し着替えを手伝って」
着替えながら、私はマリアの横顔を見た。
そばかすのある、少し丸い顔。
幼い頃から知っている顔だ。
十度のループを通じて、この人は毎回同じように私の扉を叩いてくれた。
同じように心配してくれた。
記憶がなくても、毎回。
「マリア」
「はい」
「長い間、ありがとう」
マリアが手を止めた。
不思議そうな顔をしていた。
「お嬢様、どうかされましたか」
「何でもないわ。ただ、言いたかっただけ」
マリアは少しの間私を見ていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「私こそ、お嬢様にお仕えできて光栄でございます」
その言葉が、胸の奥に刻まれた。
ヴァルフォード別邸へ向かう馬車の中で、私は手帳を開いた。
十度のループで集めた情報が、びっしりと書き込まれている。
渇望の本質。
継ぎ人の役割。
術式の構造。
断ち切るための条件。
そして、最後のページに書いた一行。
「運命の糸を失っても、それでもいい」
いつ書いたかは覚えていない。
しかし自分の字で、確かにそこにある。
別邸の門をくぐると、家令ではなくルシアン本人が玄関に立っていた。
初めてのことだった。
私を見た瞬間、彼の目が細くなった。
「顔色が悪い」
「おはようございます、ルシアン」
「何度目だ」
「十度目です」
ルシアンは一歩、私に近づいた。
残滓を確かめるように、わずかに目を閉じた。
開いた時、その目に珍しく、はっきりとした緊張が宿っていた。
「残滓が、薄い」
「私も感じています」
「今まで重なるたびに厚くなっていた。しかし今回は、逆に薄くなっている。まるで……」
「消えかけているみたいに」
ルシアンが、私の目を見た。
長い沈黙があった。
「最後のループだと思っています」
私は静かに言った。
「根拠は感覚だけですが、今回失敗したら、次はないと体が言っています。魂が、もう限界に近いのかもしれない」
ルシアンの顔に、何かが過ぎった。
表情は動かなかったが、目の奥で何かが動いた。
「中へ入れ」
低く言って、先に歩き始めた。
書斎で向かい合い、私は今回の作戦を話した。
十度のループで積み上げた全てを、今日一日で整理する。
継ぎ人になるための条件を最終確認する。
そして明日の舞踏会へ、自ら向かう。
逃げるでも阻止するでもなく、断罪の場の中心へ自分から踏み込む。
渇望の核は私の絶望から生まれた。
ならば私が絶望しない状態でその場に立てば、核の機能が揺らぐ。
揺らいだ瞬間に継ぎ人として核を取り込み、渇望の世界への接続を断ち切る。
それが、全てのループを通じて辿り着いた答えだ。
ルシアンは黙って聞いていた。
話し終えても、しばらく何も言わなかった。
部屋に午前の光が差し込んで、書類の束が白く照らされていた。
「一つ確認したい」
やがてルシアンが口を開いた。
「継ぎ人になった後、運命の糸を失うと記録にあった。それが何を意味するか、君はわかっているか」
「完全には、まだわかっていません」
「私が調べた範囲で言うと」
ルシアンが書類を一枚取り出した。
几帳面な字で、調査結果が書き込まれている。
「運命の糸とは、世界がその人間に用意した未来の筋道だ。継ぎ人はそれを失う代わりに、自由になる。決められた未来がない分、何も保証されない。しかし同時に、渇望に利用される「起点」でもなくなる」
「普通に生きられる、ということですか」
「普通に、という言い方が正しいかどうかはわからない。ただ、もう何かの道具にはならないということだ」
私はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
決められた未来がない。
それは怖くもあるが、むしろ今の方がよほど不自由だと思った。
婚約破棄をされるために生まれ、世界崩壊の起点になるために存在して、それを止めるために何度も死ぬ。
それよりはるかに、運命のない人生の方が自分らしい気がした。
「それなら、受け入れられます」
ルシアンが私を見た。
「本当にそう思っているか」
「はい。十度死んで、やっと自分の命が自分のものになる感じがします」
また沈黙があった。
今日のルシアンは、いつもより沈黙が多い。
何かを言いかけて、止めることが多い。
昨日のループで言ったことを、彼は知らない。
しかし何かが、彼の内側で動いているのは感じた。
「一つ、言っていいか」
「どうぞ」
ルシアンが私を見た。
真っすぐな目だった。
今日は最初から、感情が表面近くにある。
残滓が薄くなったことへの緊張が、彼の制御を少し緩めているのかもしれない。
「君が継ぎ人になった後、もし本当に普通に生きられるなら」
言葉が、少しの間止まった。
「私のそばで生きてほしい」
窓の外で風が鳴った。
書類が一枚、端からずれた。
私は、その言葉をしばらく持っていた。
昨日のループで告げられた「愛している」という言葉が、今も胸の奥にある。
今日のこの言葉と、重なって、深くなった。
「……前のループで、あなたは何かを言いましたよ」
「前のループの私が何を言ったか、私にはわからない」
「わかっています。でも」
私は少し笑った。
十度のループを経て、久しぶりに自然に笑えた気がした。
「今日のあなたの言葉も、ちゃんと受け取りました」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、目の奥の何かが、わずかに緩んだ。
午後から、私たちは最終的な準備を進めた。
ルシアンが術式の補助構造を組み、私が継ぎ人として核を取り込む手順を確認する。
リリィの妨害への対処。
ヴィンセントへの対応。
エドガー殿下をどう扱うか。
一つひとつを丁寧に整理した。
完璧ではない。
予想外のことは必ず起きる。
しかしできる準備は全てした。
夕刻、別邸の庭へ出た。
秋の空が、深い青に変わりかけていた。
明日の夜、この空の向こうが裂ける。
黒い靄が溢れ出す。
今まで十回、そうなった。
しかし明日は、私が先に動く。
ルシアンが隣に来た。
並んで空を見た。
「怖いか」
「怖いです」
「正直だな」
「九回分の死の記憶があるので。それは怖い」
「そうだな」
「でも」
秋の風が、庭の木を揺らした。
落ち葉が一枚、足元へ飛んできた。
「終わりにしたい。この繰り返しを、ちゃんと終わりにして、普通に生きたい」
「普通に」
「誰かに手を握ってもらって、朝が来ても死なない毎日を、ただそれだけ」
ルシアンは何も言わなかった。
しかし少しの間があってから、隣でその手が動いた。
私の手に、重なった。
七度目の夜のような、そっと置く手ではなかった。
十度目の昨日のような、必死に掴む手でもなかった。
ただ、静かに、並んで握る手だった。
明日が来る。
最後の舞踏会の夜が来る。
婚約破棄が告げられる。
私は断罪される。
でも今回は、倒れない。
声を失わない。
絶望しない。
十度分の経験が、私の背骨になっている。
九回分の死が、私の覚悟になっている。
そして今、この手が、私の足元を固めている。
「明日、一緒に来てくれますか」
「最初からそのつもりだ」
「たとえ何が起きても」
「たとえ何が起きても」
繰り返したルシアンの声に、迷いがなかった。
夜が来た。
明日の準備を終えて、用意された部屋へ向かう廊下で、私は足を止めた。
窓から王都の灯りが見えた。
明日で終わりにする街だ。
崩壊させない。
終わらせない。
手帳を取り出して、最後のページに短く書いた。
「十度目。これが最後。今度こそ、終わらせる」
書き終えて、手帳を閉じた。
ペンを仕舞いながら、ふと思った。
全部終わったら、この手帳はどうしようか。
死に戻りの記録も、ループの中で気づいたことも、全部書いてある。
誰かに読んでもらうことは、たぶんない。
でも捨てる気にもなれない。
少し考えてから、答えが出た。
ルシアンに渡そう。
全部終わった後で、このループの記録として。
その考えが浮かんだこと自体が、私の中に「全部終わった後」が見えているということだ。
諦めていないどころか、終わった先を想像している。
それで十分だ、と思った。
部屋の扉を開けた。
明日の夜着を整えて、今夜は眠る。
最後のループの夜を、しっかりと眠る。
明日、舞踏会の会場へ自ら向かう。
もう逃げない。
もう震えない。
私の名前はセレナ・フォン・アークライトで、十度の死を越えてきた継ぎ人で、それ以上でも以下でもない。
明日、全てを終わらせる。




