第十二章「断罪の舞踏会」
舞踏会の夜が来た。
十一回目に見るシャンデリアの灯りは、初めて見た時より美しかった。
いや、美しく見えるようになった、と言うほうが正確かもしれない。
一度目の夜、私はこの灯りを「約束された未来」だと思っていた。
今夜の私にとって、この灯りは「終わらせるべき夜の始まり」だ。
深紫のドレスを選んだ。
胸元には、侯爵家の紋章ではなく、ルシアンが用意してくれた小さな護符を下げた。
魔術的な効果は限定的だが、彼が込めた意図が、お守りとして機能する気がした。
馬車の中で、ルシアンと向かい合って座った。
彼は今夜も黒だった。
ヴァルフォード家の正装で、普段より整えた姿だが、表情は変わらない。
変わらないが、今夜だけは何かが違う。
目に、力がある。
「準備はいいか」
「はい」
「今夜のことを、もう一度確認する」
「殿下が婚約破棄を宣言したら、即座に動く。証拠を出すのではなく、術式の構造そのものを広間で暴く。渇望の存在を、その場にいる全員に示す。リリィの本質を、人々の目の前で明らかにする」
「その後」
「断罪の場で私が絶望しないことで、核の機能が揺らぐ。揺らいだ瞬間に私が核を取り込む。同時にあなたが術式の構造に干渉して、崩壊の連鎖を逆方向へ向ける」
「順番が狂うかもしれない」
「狂っても対応します。十回分の経験があるので」
ルシアンが、わずかに目を細めた。
笑ったわけではない。
しかし、そう見えた。
王城の正門をくぐる時、私は深く息を吸った。
この門を、何度くぐっただろう。
しかし今夜が、最後だ。
広間に入ると、一度目と同じ景色が広がっていた。
揺れるシャンデリア、咲き誇るドレス、甘い蜜蝋の香り。
そして人々の視線が、ルシアン・ヴァルフォードと並んで現れた私へと集まった。
氷血公爵と侯爵令嬢が並んで登場したことへの驚きが、さざ波のように広間を伝わっていく。
エドガー殿下が見えた。
いつもの場所に、いつもの顔で立っている。
隣にリリィがいた。
白いドレスで、儚げで、完璧に人間を模倣した顔で立っている。
リリィの視線が、私を捉えた。
一瞬だけ、その目が変わった。
今まで見せなかった何かが、その瞳の奥に走った。
驚き、ではない。
渇望に驚きはない。
ただ、想定外の変数が入ってきた時の、わずかな停止のようなものだった。
乾杯が終わった。
ダンスが一段落した。
そして、エドガー殿下が声を上げようとした。
私が、先に動いた。
広間の中央へ歩み出た。
足が震えていないことに、自分でも驚いた。
十回分の記憶が、足元を固めている。
「皆様に、申し上げたいことがあります」
私の声が、広間に通った。
予想外の方向から声が上がったことで、貴族たちの視線が私へと集まった。
エドガー殿下が眉をひそめた。
「セレナ、今は」
「今でなければなりません、殿下」
穏やかに、しかし退かない声で告げた。
「この広間で、今夜、ある儀式が完成しようとしています。皆様が知らないうちに、皆様の命と、この王都の命と、この世界の命が、奪われようとしています」
広間がざわめいた。
何を言い出したのかという困惑が、空気になって広がる。
しかし私は続けた。
「三百年前にも同じことがありました。世界の狭間から這い出た「渇望」と呼ばれる存在が、人の形を借りて人の世に根を張り、愛情と執着を糧にして世界を内側から食い荒らす」
「何を」
「リリィという名の少女は、人間ではありません」
静寂が落ちた。
先ほどとは質の違う静寂だ。
困惑ではなく、緊張の静寂だった。
リリィが動かなかった。
ただ立っていた。
笑っていた。
私はルシアンへ目を向けた。
彼が頷いた。
術式の準備が整っているという合図だ。
「証明します」
私は、十度のループで集めた証拠を取り出した。
リリィと接触した人々の証言書、魔力枯渇に倒れた女官の記録、古代文献の写し、そして王都各地で起きた異変の記録。
一つひとつを、広間にいる人々へ向けて示していく。
貴族たちがざわめく。
侍女たちが顔を見合わせる。
エドガー殿下の顔に、混乱が走った。
「そんなはずは」
「殿下」
私は殿下へ向き直った。
責める声ではなかった。
「あなたは操られていました。リリィが殿下の感情に干渉し、判断力を少しずつ歪めた。婚約破棄を言い出したのも、あなた自身の意志ではなかったはずです」
殿下の顔が、揺れた。
何かが揺らいでいた。
リリィによって薄くなっていた感情が、それでも残っていた部分が、今揺れていた。
「私は……」
「殿下を責めているのではありません。ただ、今夜だけ、目を覚ましてください」
その瞬間、リリィが動いた。
今まで見せなかった動きだった。
優雅でも儚げでもない、まっすぐな、目的だけを持った動きで、私へと向かってきた。
広間の空気が変わった。
温度が一気に下がった。
シャンデリアの灯りが青白く歪んだ。
人々が本能的に後退した。
リリィが口を開いた。
しかし今夜の声は、これまでと違った。
美しかったが、二重どころか多重に響いた。
人の声ではない、何かの根源的な音が、言葉の形を借りている声だった。
「妨害は、許さない」
「させません」
私は動かなかった。
リリィが私の前で止まった。
至近距離で、その目を見た。
虚空を見ていると証言されたあの目を、正面から見た。
何もない目だった。
瞳の形をした、空洞だった。
しかしその空洞の奥に、私は核を感じた。
初めて感じた。
ここにある、と体が告げた。
私の絶望から生まれた錨が、この存在の核として、今ここにある。
「返してもらいます」
私は手を伸ばした。
リリィが激昂した。
人間の怒りではなかった。
存在全体が反応した、機能としての拒絶だった。
白いドレスが黒に変わった。
広間の床に亀裂が走った。
壁が揺れた。
シャンデリアが激しく揺れて、灯りが乱れた。
人々が悲鳴を上げた。
逃げ惑う足音が重なった。
テーブルが倒れ、グラスが割れた。
しかし今夜は違う。
ルシアンが動いた。
今まで組んだどの術式とも違う、残滓の感知能力を全開にした、世界の層そのものへ干渉する術式を展開した。
黒い外套が術式の光を受けて、金色に縁取られた。
広間の空気が、別の意味で変わった。
ルシアンの声が、低く広間に響いた。
呪文ではなく、術式の構造そのものへ語りかける言葉だった。
「三百年眠っていた術式よ、今夜で終わりだ」
床の亀裂が、一瞬止まった。
渇望が私とルシアンの両方を同時に捉えようとして、処理が遅れた。
その隙間は、一秒にも満たなかった。
しかし私には十分だった。
手が、リリィの核に触れた。
触れた瞬間、視界が白くなった。
何かが流れ込んできた。
私の絶望の残滓が、十度分の死が、積み重なったループの全てが、逆流するように私の中へ戻ってきた。
痛かった。
今までの死の中で、一番痛かった。
しかし今回は意識を手放さなかった。
奥歯を噛んで、足を踏ん張って、立ち続けた。
渇望が叫んだ。
広間の天井に亀裂が走った。
柱が崩れ始めた。
外の空が、真っ赤に染まり始めた。
世界崩壊が、始まっていた。
しかし核は今、私の手の中にある。
渇望は世界へ接続するための錨を失おうとしている。
ここで押し切れれば、全てが変わる。
ルシアンの術式が、崩壊の連鎖を受け止めようと広間全体を覆った。
金色の光が壁を伝い、天井を走り、崩れゆく石を一時的に押さえた。
エドガー殿下が動いた。
混乱した顔のまま、しかし確かに動いた。
リリィとは逆の方向へ、人々を誘導するために。
操られていた精神の中に、まだ残っていたものが動いていた。
広間の半分が崩れた。
石が落ちた。
煙が舞い上がった。
私は核を手放さなかった。
渇望が、私の中に流れ込もうとしていた。
吸収しようとしていた。
私を、次の「器」にしようとしていた。
そうはさせない。
十度分の経験が、私の内側を固めていた。
九回の死が、私の芯を作っていた。
そして一つの告白が、私に戻ってくる理由を与えていた。
今夜死んでも、戻れない。
それを知っているから、今夜は死なない。
「セレナ!」
ルシアンの声が聞こえた。
広間の向こうから、崩れ落ちる石の間を縫って、こちらへ来ていた。
私は渇望の核を、自分の中へ、深く、押し込んだ。
世界が、揺れた。




