第十三章「世界崩壊」
空が、裂けた。
王城の大広間の天井が崩れ落ちた瞬間、その向こうの夜空に亀裂が走った。
布を引き裂くような音ではなかった。
音のない裂け目だった。
光もなく、ただ黒が、黒より深い黒として空に刻まれた。
その亀裂から、何かが溢れ出てきた。
形のない、黒い靄だ。
一度目のループで私を貫いたものと同じ、渇望の末端が物質化したものだ。
しかし今夜の量は、今まで見たどのループとも比べ物にならなかった。
空の亀裂から滝のように、黒が王都へ降り注いでいく。
広間は半壊していた。
煙が立ち込め、石の粉が舞い、逃げ遅れた人々の叫び声が重なっていた。
私は瓦礫の上に立って、核を取り込んだ自分の体の変化を感じていた。
熱い。
内側から、焼けるように熱い。
渇望の核が私の中で動いている。
私を乗っ取ろうと、侵食しようと、私という器を使って世界への接続を取り戻そうと、暴れている。
奥歯を噛んだ。
押さえる。
私がここで折れれば、全てが終わる。
「セレナ」
石を踏み越えて、ルシアンが来た。
煤で汚れた顔に、傷が一本走っていた。
それでも歩みは揺るぎなかった。
私の腕を掴んで、顔を覗き込んだ。
「中に入っているものが、暴れているか」
「はい。でも、まだ抑えられます」
「顔色が悪い」
「今はそれより」
頭上で轟音がした。
広間の残った壁が崩れていく。
空の亀裂はさらに広がって、王都の半分を覆う大きさになっていた。
ルシアンが私の手を引いた。
走った。
崩れ落ちる天井の石を躱しながら、広間の外へ出た。
王城の外廊下に出た瞬間、目の前に広がった光景に息が止まった。
王都が、崩れていた。
遠くの建物が傾いている。
街灯が倒れ、炎が上がっている。
黒い靄が路地から広場から川面から立ち上り、それが生き物のように人を求めて動いていた。
空の裂け目から降り続ける黒が、王都全体を覆いつくそうとしている。
今まで何度もこの光景を見てきた。
しかし今夜は、今まで見た崩壊の全てを合わせたより激しかった。
核を取り込んだことで、渇望が暴走したのだ。
予定通りの崩壊ではなく、制御を失った崩壊だ。
制御を失った分だけ、速く、広く、激しく。
「想定より速い」
ルシアンが言った。
「渇望が核を失ったことで、直接術式を動かそうとしている。間引き役がいなくなった状態だ」
「リリィは」
振り返ると、広間の奥に白いものが見えた。
白いドレスが、もう白くなかった。
黒と白が入り混じって、まるで人の形をした嵐のようだった。
リリィの本来の姿が、人の輪郭を維持できなくなってきている。
彼女の目が、こちらを見た。
空洞の目が。
核を持つ私を見て、そちらへ引き寄せられるように動き始めた。
「走れ」
ルシアンが言う前に、私は走り始めた。
王城の廊下を抜けて、外へ出た。
王都の大通りに出た瞬間、黒い靄の群れが私たちへ向かってきた。
ルシアンが術式を展開した。
金色の光が扇状に広がって、靄を切り裂いた。
切り裂かれた靄が散って、しかしすぐに再生して、また向かってくる。
「核がある限り、分散させることしかできない」
「消滅させることはできない?」
「今の状態では難しい。核が私たちのどちらかに入っている限り、渇望はそちらへ引き寄せられる」
「つまり、私が核を持っている限り、渇望は私を追い続ける」
「そうなる。しかしそれは、渇望が王都全体に広がることを遅らせるという意味でもある」
私は走りながら、その言葉の意味を咀嚼した。
私が囮になる。
渇望の注意を引き続けることで、王都の人々が逃げる時間を作る。
意図した戦略ではなかったが、結果としてそうなっている。
大通りの先で、建物が崩れた。
石と木材が道を塞いだ。
ルシアンが迂回路を探した。
私は内側の熱を押さえながら、走り続けた。
熱が、強くなっていた。
核が暴れる力が、段々と大きくなっている。
私という器に馴染もうとしているのか、それとも壊そうとしているのか、判断がつかなかった。
視界が、わずかに二重になり始めていた。
正常な視界の上に、世界の亀裂が透けて見える、別の視界が重なっている。
渇望の見ている世界が、混入してきているのだ。
「ルシアン」
「わかっている」
「私の目が」
「見えている。抑えろ。君の意識を、君の言葉に繋ぎ止めろ」
君の言葉。
私自身の言葉に、意識を繋ぎ止める。
私は走りながら、声に出した。
誰かに聞かせるためではなく、自分に聞かせるために。
「私はセレナ・フォン・アークライト。十度のループを越えてきた。九回死んで、それでも諦めなかった。世界を終わらせるためにここにいるのではなく、終わりにするためにここにいる」
ルシアンが横で何かを言った気がしたが、走る音と崩れる音でよく聞こえなかった。
しかし手が、また握られた。
走りながら、石畳を踏みながら、その手が私の手を離さなかった。
王城の正面広場に出た。
ここは開けていて、崩れ落ちる建物から距離がある。
ルシアンが足を止めた。
術式を広げるための空間が必要なのだ、とわかった。
背後で轟音がした。
リリィが来た。
人の形を半分失ったその姿は、今夜初めて見る本来の形に近かった。
白と黒が渦巻く柱のような、嵐の塊のような。
目だけが、人間の目の形を保っていた。
空洞の目が、私を見ていた。
核を返せ、と言っていた。
言葉ではなく、存在全体が発する圧として。
ルシアンが私の前に立った。
両腕を広げるような形で術式を展開した。
今まで見た術式の中で、最も複雑な構造だった。
金と銀の光が複雑に絡み合い、王都の空へ向けて伸びていく。
「何をしているのですか」
「術式の構造へ直接干渉する。世界の崩壊を、逆転させるための術式だ」
「それはどれくらいかかりますか」
「時間がかかる。その間、渇望を引き止めてほしい」
「どうやって」
「君が核を持っている限り、渇望は君を追う。そのままここに立っていれば、渇望は術式より君を優先する」
ただ、立っていればいい。
逃げず、倒れず、ここに立ち続ける。
それが私の役割だ。
リリィの渦が、私へと迫ってきた。
圧力だけで、足元の石が砕けていく。
息が乱れた。
内側の熱が跳ね上がった。
核が、主に呼応して激しく動いた。
倒れそうになった。
踏ん張った。
何かに支えられているわけではない。
ルシアンは術式に集中している。
私の手を握る者はいない。
私一人が、ここに立っている。
でも、一人ではなかった。
十度のループの記憶が、私を支えていた。
何度も折れそうになって、それでも戻ってきた自分が、足元を固めていた。
七度目の夜に泣いた記憶が、もう同じ場所に戻らないという確信を与えていた。
そして、暗闇の中でも消えなかった言葉が、背骨になっていた。
愛している、とルシアンは言った。
だから戻ってこい、と言った。
戻ってきた。
今ここにいる。
リリィの渦が、私の数歩前で止まった。
核が私の中にある限り、完全に重なることができない。
核を中心に、私と渇望の間に、微細な拒絶が生まれている。
その拮抗を、保ち続ける。
ルシアンの術式が、王都の空へ伸びていた。
金銀の光の柱が、天高く立ち上がって、亀裂へ向かっていく。
亀裂の縁に光が触れた瞬間、空全体が震えた。
崩壊と修復が、同時に起きていた。
渇望は崩そうとして、術式は繋ごうとして、王都の空でそれらがぶつかっていた。
どちらが勝つか、まだわからなかった。
しかしルシアンの術式は、崩れなかった。
リリィが向きを変えて干渉しようとするたびに、私が核で引き寄せた。
彼が術式を組む時間を、私が体を張って稼いだ。
熱が、限界に近づいていた。
視界の二重化が、強くなっていた。
足が、震え始めていた。
それでも倒れなかった。
どこかで夜明けの光が始まっていた。
東の空に、わずかな橙色が差し込んでいた。
崩壊する王都の煙の向こうに、朝が来ようとしていた。
ルシアンが振り返った。
術式を維持しながら、こちらを見た。
汗で前髪が乱れていた。
傷が増えていた。
それでも目は、揺るぎなかった。
「もう少しだ」
「わかっています」
「持てるか」
「持ちます」
言いきった瞬間、核が大きく跳ねた。
私の視界が、完全に白くなった。
倒れた。
石畳に膝をついた。
手がついた。
顔を上げようとして、体が言うことを聞かなかった。
ルシアンの声が、遠くで聞こえた。
術式を維持したまま、名前を呼んでいた。
私の中の核が、今まで以上に大きく動いた。
渇望の全てが、私という一点へ向けて収束してくる。
リリィが散っていた。
渦が、柱が、嵐が、全てが私という核の周囲へ集まってきていた。
これが、継ぎ人の最後の瞬間だ、とわかった。
核が完全に私の中で安定するか、渇望が私を使って復活するか、今この瞬間に決まる。
膝をついたまま、私は目を閉じた。
内側へ向かった。
熱の中心へ、渇望の核が在る場所へ、意識を向けた。
そしてそこに立った。
逃げずに。
絶望せずに。
十度分の私が、全部そこにいた。
「終わりにする」
声が出たかどうか、わからなかった。
しかし、確かにそう思った。
世界が、もう一度大きく揺れた。




