第十四章「もう運命は奪わせない」
白い世界の中に、私はいた。
石畳の感触もなく、風の音もなく、ただ白だけがある場所だった。
崩壊する王都も、渇望の黒い渦も、ルシアンの声も、何もない。
しかし夢ではないとわかった。
これは私の意識の内側で、核を完全に取り込もうとした時に引き込まれた場所だ。
白い空間の中心に、それはあった。
核だ。
渇望の核。
私の絶望から生まれた錨。
今は私の内側に入り込んで、ただそこに在った。
球体のような、靄のような、それは動かなかった。
ただ、在った。
私の十度分の絶望が、凝縮されてそこにある。
最初の夜に断罪されて声を失った時の絶望。
二度目に何をしても変わらないとわかった時の絶望。
三度目に一人で抱えた孤独。
六度目に死を待った夜。
全部が、ここに固まっている。
私はそれへ向かって歩いた。
近づくほど、熱が強くなった。
それでも足を止めなかった。
十度分の経験が足を前へ運んだ。
核に手が届く距離まで来た時、声がした。
声ではなく、情報として直接流れ込んでくるような、言葉だった。
「継ぎ人は核を己の内に封じる。封じた核は継ぎ人と一体化し、世界への接続を断ち切る。しかし核と一体化した継ぎ人は、やがて世界の記録から消える。死ぬのではない。ただ、この世界に存在した痕跡が、少しずつ薄れていく。名前が忘れられ、記憶が曖昧になり、最終的に誰の記憶にも残らない存在になる」
私は立ち止まった。
消える、という意味を咀嚼した。
死ぬのではない。
でも、誰の記憶にも残らなくなる。
マリアが私を忘れる。
父が私を忘れる。
そして、ルシアンが。
ルシアンが私を忘れる。
胸の中で何かが軋んだ。
十度のループを通じて積み上げてきたものが、消える。
何度も死んで、何度も戻ってきて、やっと作り上げた繋がりが、消える。
あの告白が、この手の温もりが、誰かのそばで泣けた七度目の夜が、全部。
それでも、やるべきか。
答えは出ていた。
考えるまでもなく、出ていた。
世界が終わるのと、私が忘れられるのと、比べるまでもない。
王都の人々が消えるのと、私の存在が薄れるのと、秤にかけるまでもない。
ただ。
一人だけ、伝えたかった。
消える前に、一人だけに。
核へ手を伸ばした。
触れた瞬間、白い空間が揺れた。
意識が戻ってきた。
石畳の冷たさが頬に当たっていた。
煙の匂いがした。
遠くで崩れる音がした。
そして、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「セレナ」
ルシアンだった。
膝をついて、私の肩を支えていた。
術式は、まだ空へ向けて伸びていた。
彼は術式を維持しながら、私のそばにいた。
二つのことを同時にやっていた。
「大丈夫か」
「……大丈夫です」
起き上がろうとした。
体が重かったが、動いた。
ルシアンの腕が支えてくれた。
夜明けの光が、少し強くなっていた。
空の亀裂は、ルシアンの術式が抑えている。
渇望の渦は、核が私の中に入ったことで求心力を失い、王都全体に散っていたが、ゆっくりと力を弱めつつあった。
まだ終わっていない。
でも、今が機会だ。
私はルシアンを見た。
「聞いてほしいことがあります」
「後で」
「今です」
ルシアンが私を見た。
術式を維持したまま、その目がこちらへ向いた。
「核を完全に封じると、私の存在が世界の記録から消えます」
「……何?」
「死ぬわけではありません。でも、誰の記憶からも薄れていく。最終的に、誰も私を覚えていない存在になる」
ルシアンの顔が、固まった。
術式の光が、わずかに揺れた。
「それが継ぎ人の代償です。三百年前の記録に切り取られていたページに書いてあったはずのことが、核の中に情報として入っていました。継ぎ人になった者が記録に残らなかったのは、意図的に消されたのではなく、存在そのものが薄れたからだったんです」
「待て」
「待てません。今が機会で、術式が抑えている今でなければ」
「待てと言っている」
ルシアンの声が、低くなった。
今まで聞いたことのない低さだった。
静かなのに、地の底から来るような重さがあった。
「それをわかった上で、君は核を封じようとしているのか」
「はい」
「私が忘れるとわかった上で」
「……はい」
「なぜ先に言わなかった」
責める声ではなかった。
しかし何かを堪えている声だった。
「言ったら、止めるでしょう」
「止める」
「だから」
「当たり前だ」
ルシアンが立ち上がった。
術式が揺れた。
しかし崩れなかった。
彼は術式を維持したまま、私の正面に立った。
その顔が、今夜で一番、感情を持っていた。
崩れていた。
氷血公爵の仮面が、今この瞬間だけ、完全に剥がれていた。
怒りと、恐怖と、拒絶と、そして切実な何かが、全部一緒に出ていた。
「君がいない世界など、いらない」
叫んでいなかった。
しかしその言葉は、今夜の爆発や崩落より、ずっと大きく私の中に響いた。
「世界が救われて、王都の人々が生き続けて、しかし君がいないなら、私にはどうでもいい」
「そんなことを言ってはいけません」
「言う」
「ルシアン」
「言う。何度でも言う」
彼の手が、私の両肩を掴んだ。
しっかりと、逃がさないように。
切れ長の目が、真っすぐに私を見ていた。
「別の方法を探す。君が消えない方法を、今から探す。時間をくれ」
「時間は」
「くれ」
「でも術式が」
「私が持つ。崩れるまで持つ。その間に考える」
「そんな無茶を」
「君が十度死んで戻ってきた話をする気か」
返す言葉がなかった。
私が無茶をしてきたことを言われると、何も言えなかった。
ルシアンが術式へ向き直った。
肩から力が入っていた。
普段は見せない緊張が、背中全体に出ていた。
私は立ち上がって、彼の隣に立った。
「一緒に考えます」
「……ああ」
「でも時間は本当にない。崩壊を抑えている術式が、いつまでも持つわけではないから」
「わかっている」
二人で、考えた。
走りながら考えた十度のループの記憶を、今度は二人で並んで掘り返した。
継ぎ人の記録に書かれていたことを逆から読む。
核と継ぎ人が一体化すると、継ぎ人は世界の記録から消える。
しかしそれは、継ぎ人が世界に何も繋がりを持たない場合の話ではないか。
三百年前の継ぎ人は、誰かに覚えていてもらえる存在だったか。
記録が消えた人物だ。
おそらく誰にも知られずに継ぎ人になった、孤独な存在だったのではないか。
私は違う。
知っている人間がいる。
十度のループを共にした人間がいる。
残滓を感じ取る特殊体質で、私の存在の層を積み重なりとして感じ取ってきた人間がいる。
ルシアンが、私を見た。
同じことを考えていると、目でわかった。
「残滓を感じ取れる私が、君の存在を記憶していれば」
「世界の記録から消えても、あなたの中に残る可能性がある」
「可能性だ。確証はない」
「でも、試す価値はある」
空の亀裂が、また広がろうとしていた。
術式が悲鳴を上げていた。
渇望の散った欠片が、また集まり始めていた。
時間がなかった。
私はルシアンを見た。
「一つだけ、聞かせてください」
「何だ」
「私が消えかけた時、覚えていてくれますか」
ルシアンが、私の手を握った。
今夜何度目の、この手だろう。
毎回少しずつ違う握り方で、今夜が一番、力が入っていた。
「絶対に」
一言だった。
しかしその一言が、十度のループを生き延びてきた私の背骨を、最後まで折れないように固めた。
私は核へ向かった。
内側へ向かった。
今度は一人ではなかった。
手の中に、ルシアンの手の温もりがある。
それを持ったまま、核の中心へ踏み込んだ。
白い空間に、また入った。
しかし今回は、白だけではなかった。
金色の光が、細い糸のように私の後ろへ伸びていた。
ルシアンの術式が、私を繋ぎ止めていた。
残滓を感じ取る彼の力が、私という存在を世界に縫い付けていた。
核が目の前にあった。
十度分の絶望が、凝縮されてそこに在った。
私は両手でそれを包んだ。
「返してもらいます。全部、私のものです」
核が、震えた。
光った。
そして私の中へ、静かに溶けていった。
世界が、揺れた。
空の亀裂に、金色の光が走った。
ルシアンの術式と、私の内側から溢れた何かが合わさって、亀裂の縁を押さえた。
渇望の欠片が、悲鳴を上げるように散っていった。
黒が、薄れ始めた。
私の視界が、白に染まる前に、ルシアンの顔が見えた。
術式を最大展開して、空へ向けて全力を注いでいた。
額に汗が光っていた。
傷から血が出ていた。
それでも目は、術式の先ではなく、私を見ていた。
消えるかもしれない。
記憶から薄れていくかもしれない。
それでも今この瞬間、この目がある。
十度のループの終わりに、この目がある。
それで十分だ、と思った。
意識が、遠くなった。




