最終章「幸福な未来を、あなたと」
目が覚めた。
天蓋のレースが揺れていた。
光が差し込んでいた。
しかしそれは、いつもの一週間前の朝ではなかった。
カーテンの向こうの光が、秋ではなく春だとわかった。
部屋の匂いが、侯爵家のものではなかった。
天蓋のレースの柄が、見慣れたものとは違った。
ここはヴァルフォード家の別邸だ。
私はしばらく天井を見ていた。
天井を見ながら、自分の体の感覚を確かめた。
重さがある。
密度がある。
存在が、ちゃんとここにある。
そして、何かがない。
死に戻りの感覚が、なかった。
あの夜が終わった、と体が告げていた。
もう戻らない。
もう繰り返さない。
次のループは来ない。
静かな朝だった。
驚くほど静かな、ただの朝だった。
扉をノックする音がした。
「お目覚めですか」
聞き慣れた声ではなかった。
ヴァルフォード家の侍女の声だ。
マリアではない。
「今開けます」
声が出た。
かすれていたが、出た。
侍女が入ってきて、私の顔を見た瞬間、ほっとした表情をした。
「よかった。三日も眠り続けていたので、心配しておりました」
「三日」
「はい。あの夜から今日まで」
あの夜から三日が経っていた。
起き上がろうとすると、体が重かった。
三日分の疲労と、十度のループの疲弊と、核を封じた代償が全部乗っていた。
それでも、体は動いた。
着替えを済ませて、廊下へ出た。
別邸の窓から見える庭が、春の光の中にあった。
冬を越えた花が咲いていた。
あの夜は秋だったから、三日どころではないとすぐにわかった。
「今は、何月ですか」
侍女が答えた。
五ヶ月。
あの夜から五ヶ月が経っていた。
廊下の突き当たりに、書斎の扉が見えた。
迷わず向かった。
扉をノックすると、すぐに返事があった。
「入れ」
扉を開けると、ルシアンがいた。
書類の前にいた。
いつも通りだった。
しかし顔を上げた瞬間、今まで見た中で一番、何かが動いた。
彼が立ち上がった。
書類が一枚、床に落ちた。
それを拾わずに、こちらへ来た。
私の顔を見た。
しばらく、ただ見ていた。
「覚えていますか」
私は聞いた。
一番大切なことを、最初に確認したかった。
「全部」
間もなく答えが返ってきた。
「十度のループのことも」
「全部」
「私のことも」
「当たり前だ」
喉の奥が詰まった。
泣くつもりはなかったのに、目の奥が熱くなった。
消えなかった。
記録から消えなかった。
ルシアンの残滓感知が、私という存在をこの世界に繋ぎ止めた。
完全ではないかもしれない。
あの夜を知らない人々の記憶から、少しずつ薄れているかもしれない。
それでも今ここで、この人が私を覚えている。
それだけで、十分だった。
「泣くのか」
「泣きません」
「目が赤い」
「泣きません」
ルシアンが、ため息をついた。
それから、手を差し出した。
あの夜何度も握った手が、今度は静かに差し出されていた。
私はその手を取った。
その日の午後から、ルシアンは五ヶ月分を教えてくれた。
あの夜、空の亀裂は閉じた。
渇望は散って、王都への侵食が止まった。
崩壊しかけた建物の多くは、ルシアンの術式が形を保たせたおかげで、最小限の被害に留まった。
死者は出なかった。
重傷者は数名いたが、全員が回復したという。
リリィは消えた。
核を失った渇望は接続する場所をなくし、人の形を保てなくなった。
白と黒の渦が王都の空に散っていくのを、多くの人が目撃した。
その後、彼女の姿を見た者は誰もいない。
エドガー殿下は、意識を取り戻した。
渇望の影響から解放されて、自分が何をしていたかを知った。
しばらく執務から外れて、療養した後、今は父王とともに王都の復興に取り組んでいるという。
私への婚約破棄については、正式に撤回された。
ただし私がそれを望まなかったので、再婚約という形にはならなかった。
私の父は、娘が何かに巻き込まれていたことを、事後に知らされた。
全てを話すことはできなかったが、大まかなことは伝えた。
父は黙って聞いて、最後に「苦労をかけた」と言った。
それだけだったが、侯爵家の男らしい謝罪だと思った。
そしてマリアは、私のことを覚えていた。
会いに行った時、泣きながら抱きついてきた。
五ヶ月も眠り続けていたお嬢様を心配していたと言った。
その涙が、嬉しかった。
記憶が薄れている人もいた。
あの夜の断罪の場にいた人々の中に、「確かに婚約破棄があったはずだが、詳細が思い出せない」という者が増えていた。
世界の記録が少し書き換わったのだろう。
渇望が去った後遺症のようなものだ。
それでいいと思った。
あの夜を覚えていなくていい人には、覚えていなくてよかった。
春が過ぎ、夏が来て、秋になった。
私はヴァルフォード別邸に住むようになっていた。
侯爵家への出入りは続けていたが、ルシアンの近くにいることが、今の私には自然だった。
彼が提案したわけではない。
私が提案したわけでもない。
気づいたらそうなっていた。
日々は穏やかだった。
死に戻りの能力は消えていた。
継ぎ人として核を封じた代償として、あの力は戻らなかった。
最初は、それが少し怖かった。
あの力なしで、何か失敗したらやり直せないということが。
しかし一ヶ月経ち、二ヶ月経つうちに、怖さより自由さが勝ってきた。
失敗したら、次の日に考え直せばいい。
謝りたいなら、謝りに行けばいい。
一度しかない日々を、一度しかないものとして生きる。
それが普通の人間の生き方だと、今さら知った。
十月のある夕方、私は別邸の庭にいた。
秋薔薇が咲いていた。
一年前、私たちが初めて本当に話した王宮の庭園と同じ花だ。
あの庭でルシアンが「何回目だ」と聞いた夜から、もう一年が経つ。
足音がした。
振り返ると、ルシアンが来た。
執務を終えた後らしく、外套を一枚だけ羽織っていた。
「外にいたのか」
「薔薇が綺麗で」
ルシアンが隣に立った。
薔薇を見た。
秋の光の中で深紅に染まる花を、しばらく二人で見ていた。
いつからか、この沈黙が好きになっていた。
何かを言わなければならない重さがない。
ただ、そこにいていい沈黙だ。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「今、幸せですか」
ルシアンが私を見た。
少しの間があった。
「なぜ私に聞く」
「気になって。あなたは一年前から世界の異変を一人で追っていた。ずっと重いものを抱えていた。それが終わって、今はどうかと思って」
「……幸せかどうかという問いは、難しい」
「難しいですか」
「判断基準を持ったことがなかった」
そう言って、ルシアンはまた薔薇へ視線を戻した。
夕日が庭に差し込んで、橙色の光が薔薇を照らした。
「ただ」
少しの間の後で、ルシアンが続けた。
「今ここにいることに、重さがない。それは初めての感覚だ」
「重さがない、というのが幸せかもしれませんね」
「そうかもしれない」
私は薔薇へ手を伸ばした。
花びらに触れた。
柔らかく、少し冷たく、確かにそこにあった。
一年前の秋の夜が、遠くにある。
黒い靄と崩れる城と、何度も繰り返した同じ夜が、遠くにある。
今の私にはもう、あの夜に戻る力はない。
それが今は、ただ静かにありがたかった。
「もう、やり直さなくていいんですね」
声に出たのは、独り言のつもりだった。
しかしルシアンが、聞いていた。
彼が私を見た。
秋の光の中で、いつもより少し柔らかい目で。
感情を削り落とした目ではなく、何かをちゃんと持っている目で。
「……ああ。これが、君の幸せな未来だ」
言葉が、夕暮れの庭に落ちた。
私はその言葉を受け取った。
反論も、照れも、なかった。
ただ、受け取った。
十度死んで、十度戻って、世界の終わりを何度も見て、それでも諦めなかった先に、これがある。
戦い抜いた先に、この庭がある。
この薔薇がある。
この人がある。
ルシアンの手が、私の手に重なった。
秋の庭で、夕日の中で、静かにそっと。
世界は今日も続いている。
王都の灯りが、夕暮れの向こうで点り始めている。
誰かが笑っている。
誰かが帰ってくる。
誰かが愛している。
それが、終わらずにある。
私はもう、死なない。
やり直さない。
一度きりの朝を、一度きりの夕暮れを、この手と一緒に生きていく。
薔薇が、風に揺れた。
ルシアンの手が、少しだけ力を込めた。
私は目を閉じて、それを感じた。
これが、私の幸せな未来だ。
終幕




