表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

最終章「幸福な未来を、あなたと」

目が覚めた。

天蓋のレースが揺れていた。

光が差し込んでいた。

しかしそれは、いつもの一週間前の朝ではなかった。

カーテンの向こうの光が、秋ではなく春だとわかった。

部屋の匂いが、侯爵家のものではなかった。

天蓋のレースの柄が、見慣れたものとは違った。

ここはヴァルフォード家の別邸だ。

私はしばらく天井を見ていた。

天井を見ながら、自分の体の感覚を確かめた。

重さがある。

密度がある。

存在が、ちゃんとここにある。

そして、何かがない。

死に戻りの感覚が、なかった。

あの夜が終わった、と体が告げていた。

もう戻らない。

もう繰り返さない。

次のループは来ない。

静かな朝だった。

驚くほど静かな、ただの朝だった。

扉をノックする音がした。

 

「お目覚めですか」

 

聞き慣れた声ではなかった。

ヴァルフォード家の侍女の声だ。

マリアではない。

 

「今開けます」

 

声が出た。

かすれていたが、出た。

侍女が入ってきて、私の顔を見た瞬間、ほっとした表情をした。

 

「よかった。三日も眠り続けていたので、心配しておりました」

 

「三日」

 

「はい。あの夜から今日まで」

 

あの夜から三日が経っていた。

起き上がろうとすると、体が重かった。

三日分の疲労と、十度のループの疲弊と、核を封じた代償が全部乗っていた。

それでも、体は動いた。

着替えを済ませて、廊下へ出た。

別邸の窓から見える庭が、春の光の中にあった。

冬を越えた花が咲いていた。

あの夜は秋だったから、三日どころではないとすぐにわかった。

 

「今は、何月ですか」

 

侍女が答えた。

五ヶ月。

あの夜から五ヶ月が経っていた。

廊下の突き当たりに、書斎の扉が見えた。

迷わず向かった。

扉をノックすると、すぐに返事があった。

 

「入れ」

 

扉を開けると、ルシアンがいた。

書類の前にいた。

いつも通りだった。

しかし顔を上げた瞬間、今まで見た中で一番、何かが動いた。

彼が立ち上がった。

書類が一枚、床に落ちた。

それを拾わずに、こちらへ来た。

私の顔を見た。

しばらく、ただ見ていた。

 

「覚えていますか」

 

私は聞いた。

一番大切なことを、最初に確認したかった。

 

「全部」

 

間もなく答えが返ってきた。

 

「十度のループのことも」

 

「全部」

 

「私のことも」

 

「当たり前だ」

 

喉の奥が詰まった。

泣くつもりはなかったのに、目の奥が熱くなった。

消えなかった。

記録から消えなかった。

ルシアンの残滓感知が、私という存在をこの世界に繋ぎ止めた。

完全ではないかもしれない。

あの夜を知らない人々の記憶から、少しずつ薄れているかもしれない。

それでも今ここで、この人が私を覚えている。

それだけで、十分だった。

 

「泣くのか」

 

「泣きません」

 

「目が赤い」

 

「泣きません」

 

ルシアンが、ため息をついた。

それから、手を差し出した。

あの夜何度も握った手が、今度は静かに差し出されていた。

私はその手を取った。

その日の午後から、ルシアンは五ヶ月分を教えてくれた。

あの夜、空の亀裂は閉じた。

渇望は散って、王都への侵食が止まった。

崩壊しかけた建物の多くは、ルシアンの術式が形を保たせたおかげで、最小限の被害に留まった。

死者は出なかった。

重傷者は数名いたが、全員が回復したという。

リリィは消えた。

核を失った渇望は接続する場所をなくし、人の形を保てなくなった。

白と黒の渦が王都の空に散っていくのを、多くの人が目撃した。

その後、彼女の姿を見た者は誰もいない。

エドガー殿下は、意識を取り戻した。

渇望の影響から解放されて、自分が何をしていたかを知った。

しばらく執務から外れて、療養した後、今は父王とともに王都の復興に取り組んでいるという。

私への婚約破棄については、正式に撤回された。

ただし私がそれを望まなかったので、再婚約という形にはならなかった。

私の父は、娘が何かに巻き込まれていたことを、事後に知らされた。

全てを話すことはできなかったが、大まかなことは伝えた。

父は黙って聞いて、最後に「苦労をかけた」と言った。

それだけだったが、侯爵家の男らしい謝罪だと思った。

そしてマリアは、私のことを覚えていた。

会いに行った時、泣きながら抱きついてきた。

五ヶ月も眠り続けていたお嬢様を心配していたと言った。

その涙が、嬉しかった。

記憶が薄れている人もいた。

あの夜の断罪の場にいた人々の中に、「確かに婚約破棄があったはずだが、詳細が思い出せない」という者が増えていた。

世界の記録が少し書き換わったのだろう。

渇望が去った後遺症のようなものだ。

それでいいと思った。

あの夜を覚えていなくていい人には、覚えていなくてよかった。

春が過ぎ、夏が来て、秋になった。

私はヴァルフォード別邸に住むようになっていた。

侯爵家への出入りは続けていたが、ルシアンの近くにいることが、今の私には自然だった。

彼が提案したわけではない。

私が提案したわけでもない。

気づいたらそうなっていた。

日々は穏やかだった。

死に戻りの能力は消えていた。

継ぎ人として核を封じた代償として、あの力は戻らなかった。

最初は、それが少し怖かった。

あの力なしで、何か失敗したらやり直せないということが。

しかし一ヶ月経ち、二ヶ月経つうちに、怖さより自由さが勝ってきた。

失敗したら、次の日に考え直せばいい。

謝りたいなら、謝りに行けばいい。

一度しかない日々を、一度しかないものとして生きる。

それが普通の人間の生き方だと、今さら知った。

十月のある夕方、私は別邸の庭にいた。

秋薔薇が咲いていた。

一年前、私たちが初めて本当に話した王宮の庭園と同じ花だ。

あの庭でルシアンが「何回目だ」と聞いた夜から、もう一年が経つ。

足音がした。

振り返ると、ルシアンが来た。

執務を終えた後らしく、外套を一枚だけ羽織っていた。

 

「外にいたのか」

 

「薔薇が綺麗で」

 

ルシアンが隣に立った。

薔薇を見た。

秋の光の中で深紅に染まる花を、しばらく二人で見ていた。

いつからか、この沈黙が好きになっていた。

何かを言わなければならない重さがない。

ただ、そこにいていい沈黙だ。

 

「一つ聞いていいですか」

 

「何だ」

 

「今、幸せですか」

 

ルシアンが私を見た。

少しの間があった。

 

「なぜ私に聞く」

 

「気になって。あなたは一年前から世界の異変を一人で追っていた。ずっと重いものを抱えていた。それが終わって、今はどうかと思って」

 

「……幸せかどうかという問いは、難しい」

 

「難しいですか」

 

「判断基準を持ったことがなかった」

 

そう言って、ルシアンはまた薔薇へ視線を戻した。

夕日が庭に差し込んで、橙色の光が薔薇を照らした。

 

「ただ」

 

少しの間の後で、ルシアンが続けた。

 

「今ここにいることに、重さがない。それは初めての感覚だ」

 

「重さがない、というのが幸せかもしれませんね」

 

「そうかもしれない」

 

私は薔薇へ手を伸ばした。

花びらに触れた。

柔らかく、少し冷たく、確かにそこにあった。

一年前の秋の夜が、遠くにある。

黒い靄と崩れる城と、何度も繰り返した同じ夜が、遠くにある。

今の私にはもう、あの夜に戻る力はない。

それが今は、ただ静かにありがたかった。

 

「もう、やり直さなくていいんですね」

 

声に出たのは、独り言のつもりだった。

しかしルシアンが、聞いていた。

彼が私を見た。

秋の光の中で、いつもより少し柔らかい目で。

感情を削り落とした目ではなく、何かをちゃんと持っている目で。

 

「……ああ。これが、君の幸せな未来だ」

 

言葉が、夕暮れの庭に落ちた。

私はその言葉を受け取った。

反論も、照れも、なかった。

ただ、受け取った。

十度死んで、十度戻って、世界の終わりを何度も見て、それでも諦めなかった先に、これがある。

戦い抜いた先に、この庭がある。

この薔薇がある。

この人がある。

ルシアンの手が、私の手に重なった。

秋の庭で、夕日の中で、静かにそっと。

世界は今日も続いている。

王都の灯りが、夕暮れの向こうで点り始めている。

誰かが笑っている。

誰かが帰ってくる。

誰かが愛している。

それが、終わらずにある。

私はもう、死なない。

やり直さない。

一度きりの朝を、一度きりの夕暮れを、この手と一緒に生きていく。

薔薇が、風に揺れた。

ルシアンの手が、少しだけ力を込めた。

私は目を閉じて、それを感じた。

これが、私の幸せな未来だ。




終幕


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ