第3話 初狩り
でかい。
それが最初に浮かんだ感想で、二つ目に浮かんだのは、思っていたほど怖くない、という感想だった。
《鉄牙猪》は檻を飛び出したところで一度だけ足を止め、鼻先を低く下げてこちらを睨んだ。小山のような肩が呼吸に合わせて上下し、黒ずんだ牙の先から、粘ついた涎が砂の上へ糸を引いて落ちる。獣の匂いが、熱気と一緒に正面からぶつかってきた。
画面越しに見ていた頃より、ふた回りは大きい。牙の一本だけで、俺の腕ほどの太さがある。あれに腹を抉られれば、間違いなく死ぬだろう。
それなのに、心臓は思っていたほど暴れていなかった。
膝も震えていない。石斧を握る指は、滑らない程度に力が入っているだけで、強張ってもいない。初めて本物の獣と向き合っているはずの身体が、まるで何度目かの戦闘を迎えるような落ち着きで、勝手に重心を落としていく。
ああ、そうか。
俺は、こいつと戦うのが初めてじゃない。
VRの中とはいえ、何千時間も、自分の身体を動かして戦ってきた。剣の間合いも、突進の避け方も、ボスが大技を出す前の一瞬の溜めも、指先ではなく全身で覚えてきた。画面の向こうの化け物に叩き潰されながら、それでも次の一歩を踏み出してきた回数なら、たぶん、この谷にいる誰よりも多い。
それに比べれば、チュートリアルの猪くらい、なんでもない。
《鉄牙猪》が、前脚で砂を掻いた。
一度、二度。蹄が砂を抉るたびに、白い粒が後ろへ跳ね上がる。三度目で突進が来る。ゲームと同じならではの話だが。
三度目の砂が舞い上がった瞬間、黒い巨体が弾けるように飛び出した。
速い。
頭では分かっていた速度なのに、現実の重さを伴って迫ってくると、まるで別物だった。砂を蹴る蹄の音が地面を伝って足の裏を叩き、近づくにつれて、獣の荒い呼吸が耳の奥で膨れ上がっていく。
チュートリアルの案内文は、「敵の突進は、横へ回避しましょう」だった。
あれは、初心者向けの答えだ。真横へ跳べば確かに当たらないが、跳んだ分だけ距離が開き、こちらの攻撃も届かなくなる。猪はそのまま走り抜け、壁際で止まり、ゆっくり向き直って、また突っ込んでくる。それを何度も繰り返して、ようやく一撃ずつ当てていくのが、普通のプレイヤーの戦い方だった。
俺は、横へは跳ばなかった。
牙が届く寸前まで引きつけて、左斜め前へ、半歩だけ踏み込む。
鼻先が、胸の前を掠めていった。生温かい息が肌を舐め、黒い毛の一本一本が見えるほどの距離を、巨体が轟音とともに通り過ぎていく。その横腹へ向けて、引きつけておいた石斧を振り抜いた。
重い手応えが、手首から肩へ突き抜けた。
刃が硬い毛皮を割り、その下の肉に食い込む感触が、柄を通してはっきりと伝わってくる。ゲームでは、ここで小さな振動と効果音が鳴るだけだった。こんなふうに、骨に当たって刃が跳ね返される感覚まで返ってきたりはしなかった。
《鉄牙猪》が甲高く鳴き、砂を撒き散らしながら闘技場の壁際まで走り抜けていく。
観覧席が、どっと沸いた。
俺は息を吐いて、石斧を握り直した。
……身体が、思っていたより動く。
正直に言えば、そこが一番の不安だった。頭の中でどれだけ正しい動きを組み立てても、慣れない身体がついてこなければ意味がない。ところがこの身体は、俺が「こう動きたい」と思った瞬間には、もう半分動き出している。VRの中より、反応が速いくらいだった。
踏み込んだ脚には、巨体を受け止められるだけの力がまだ余っていた。振り抜いた腕も、石斧の重さなど感じていないように軽い。バーバリアンの筋力というのは、数字の上だけの話ではなかったらしい。
壁際で、《鉄牙猪》が止まった。
そして、ゆっくりと向きを変え始める。
ゲームと同じだ。突進のあとには、必ずこの鈍い旋回が入る。チュートリアルの猪が、プレイヤーに一番大きな隙を晒す瞬間。
俺は待たなかった。猪が向き直り終えるより早く、砂を蹴って距離を詰めていく。
ゲームでは、旋回にきっかり二秒かかった。だから一秒半で懐に入れば、振り向いた顔の真横から一撃を入れられる。何百回もやった動きだ。目を瞑っていても――
だが、目の前の猪は、一秒半を待たなかった。
首が、予想よりわずかに早く戻ってくる。ほんの数十分の一秒。ゲームなら誤差でしかない差だ。だが、自分の肉を牙の前に置いている今、その誤差は充分すぎた。
しまった、と思うより先に、横薙ぎに振られた牙が左の太腿を掠めた。
熱い。そしてそれが痛みだと分かったのは、その一拍あとだった。
焼けた鉄の棒を押しつけられたような感覚が、太腿から背骨を駆け上がってくる。見下ろすと、腿の外側がざっくりと裂け、そこから溢れた血が膝を伝って砂へ落ちていくところだった。赤い。ゲームの、輪郭のぼやけたエフェクトとは違う。どろりとした重さを持った、本物の赤だった。
息が、一瞬だけ詰まった。
ヘヴンズでは、何千回殴られても、何百回死んでも、こんな感覚は一度も来なかった。だから俺は、痛みというものを、いつの間にか「数字が減ること」としか考えなくなっていた。
違う。
これは、数字じゃない。
「友よォォッ!」
観覧席の縁から、ドルガの声が飛んできた。続けて、「立てェ!」「殴り返せェ!」「血ぐらいで止まるなァ!」と、知らない連中の野次が雨のように降ってくる。心配しているのか煽っているのか、たぶん両方だ。
俺は返事をしなかった。代わりに、傷を負った脚にゆっくりと体重をかけてみる。痛い。痛いが、骨までは届いていない。筋も切れていない。立てるし、踏み込める。
なら、問題ない。
自分でも驚くほど、頭の中は静かだった。
動きそのものは、ゲームと同じだった。突進して、止まって、向きを変える。変わったのは、旋回にかかった時間だけだ。
個体差か。足元の砂か。それとも、ゲームの側で簡略化されていた動きなのか。
分からない。ただ一つ分かるのは、こいつは数字どおりには動かない、ということだ。
なら、数字を捨てればいい。
《鉄牙猪》が、再び前脚で砂を掻いた。一度、二度。血の匂いに昂っているのか、さっきよりも鼻息が荒い。
三度目の砂が舞い上がる。
俺は、さっきと同じ場所へ半歩だけ踏み込み、そこで足を止めた。何秒で来るか、ではなく、何を見れば来るのかを見る。
肩だ。突進の最後、猪は牙を振る前に、必ず肩の筋肉を一度沈めていた。ゲームでは、そこまで細かく見たことはなかった。見る必要がなかったからだ。
黒い肩が、沈んだ。
その瞬間に、身体を右へ捻る。一拍遅れて振られた牙が、さっきまで俺のいた空間を薙いでいった。牙を振り切った分だけ、猪の首の右側が、無防備に開いている。
その一点へ、石斧を叩き込んだ。
刃が首の付け根に深く沈み、太い血管を断ち切る感触が手のひらに返ってくる。《鉄牙猪》は走る勢いのまま前のめりに崩れ、砂を盛大に掻き上げながら、闘技場の真ん中まで滑っていった。
巨体が、一度だけ大きく痙攣し、それっきり動かなくなった。
谷が、静まり返っていた。
さっきまであれほど騒がしかった観覧席から、誰の声も聞こえてこない。俺は肩で息をしながら、砂に横たわった猪を見下ろしていた。首の傷から流れ出した血が、白い砂にゆっくりと黒い染みを広げていく。この闘技場に残っていた、いくつもの染みと同じ色だった。
視界の右上に、半透明の矩形が浮かび上がった。
レベルが上がりました。
レベル:2
念じてもいないのに出てくるところまで、ヘヴンズと同じだった。割り振れる能力値のポイントが手に入ったことも表示されていたが、今は触らずに閉じる。どこへ振るかは、もう決めてある。ただ、慌てて振るものでもない。
顔を上げると、観覧席の最前列で、長老がこちらを見下ろしていた。
「よそ者」
低い声が、静まり返った谷に落ちる。
「最初の突進で、一歩も下がらなかったな」
「下がると、次の攻撃に移れない」
「傷を負っても、だ」
「傷を追うつもりはなかったんだがな」
長老はしばらく黙って俺を見ていた。それから、傷の走った口元を、今度ははっきりと歪めた。
「初狩りで、二度目の突進に自分から踏み込んだ者を、俺は久しぶりに見た」
長老が、丸太のような腕を振り上げる。
「たってるかっ!」
一拍遅れて、俺はそれが自分に向けられた問いだと気づいた。
「……立ってる」
「なら、お前は戦士だ」
次の瞬間、谷が爆発した。
「バルガァァァ!!」
何百という喉から、さっきとは比べものにならない大きさの声が降ってくる。足を踏み鳴らす者、拳で石の座席を叩く者、なぜか隣の誰かを殴り合いながら喜んでいる者までいた。
そして、観覧席から若い連中が何人も、砂の上へ飛び降りてきた。
先頭はドルガだった。着地でよろけたのも構わず、一直線に駆け寄ってくると、両腕で俺の頭を抱え込んで力任せに揺さぶる。
「友よォ! 見たぞ! 見たぞォ!」
「分かった、分かったから、離せ」
「離さん!」
後から来た連中が、俺の背中を叩き、肩を殴り、最後には四人がかりで俺を担ぎ上げた。視界がぐるりと回り、裂けた太腿が誰かの肩にもろにぶつかる。
「おい、脚!脚! 脚の傷!」
「傷は勲章だァ!」
「勲章でも痛いんだよ!」
誰も聞いていなかった。俺は担がれたまま、谷じゅうの「バルガァ!」を浴び続けた。
俺は、その声に応えなかった。応え方が分からなかった、と言った方が近い。
ただ、裂けた太腿がずきずきと脈打つたびに、自分がここで生きていることだけは、嫌になるほどはっきりと分かった。
手当ては乱暴だった。
谷の縁へ上がると、年嵩の女が無言で俺を座らせ、傷口に何かの汁を浸した布を押しつけた。染みる、などという生易しいものではなく、目の前が一瞬白くなった。
「っ、ぐ……!」
「その程度で喚くな。まだ脚は付いてるだろ」
「……付いてりゃ痛くないわけじゃない」
女は鼻で笑い、布の上から獣の革紐をきつく巻きつけていく。荒っぽいが、手つきに迷いはなかった。こういう傷を、何度も、何人分も縛ってきた手だ。
手当てが終わるのを待ちかねたように、初狩りを控えた若者が一人、俺の前へしゃがみ込んだ。さっき岩を持ち上げて、誰にも見てもらえなかった奴だ。
「なあ、どうやったんだ!? 二回目、猪の牙が勝手に外れたみたいに見えたぞ!」
「勝手に外れたわけじゃない。あの猪は、牙を振る前に必ず肩を沈める。だから肩を見て、沈んだ瞬間に――」
「わからん!」
若者は、さっきのドルガとまったく同じ顔で言い切った。
「つまり、猪より先に筋肉を動かせばいいってことだな!」
「違う」
「よし、筋肉だな!」
「違うって言ってるだろ」
若者はもう聞いていなかった。「筋肉だ!」と叫びながら仲間のところへ駆け戻り、その仲間も「筋肉か!」と吠え返している。
……この部族では、たぶん、だいたいの答えがそれで済んできたんだろう。
「よそ者の割に、やるじゃねえか」
隣にどかりと腰を下ろしたのは、さっき武器を山ほど運んできた年嵩の戦士だった。顎で、俺が脇に置いた小ぶりな石斧を指す。
「あの山から、なんでそれを選んだのか分からなかったがな。今なら分かる。二度振るためだろ」
「……ああ」
「若いのはみんな、一番でかいのを取りたがる。一発で終わらせたいからな」
戦士はそう言って、闘技場へ視線を落とした。
次の挑戦者が、砂の上へ降りていくところだった。
武器の山で、一番大きな斧を奪い取っていた若者だ。自分の背丈ほどもある石斧を肩に担ぎ、観覧席へ向けて何度も吠えている。俺の戦いを見て、火がついたのかもしれない。
檻が開き、二頭目の《鉄牙猪》が飛び出した。
若者は、真っ向から迎え撃った。斧を大きく振りかぶり、突っ込んでくる猪の頭へ、全身の力を込めて振り下ろす。
当たれば、一撃で終わっていただろう。
当たらなかった。
猪がわずかに首を振っただけで、重すぎる斧は狙いを外れ、砂へ深々と突き刺さった。若者がそれを引き抜こうとした、ほんの一瞬。その一瞬で、黒い牙が、彼の腹に潜り込んだ。
悲鳴が、谷に響いた。
ゲームで聞いた、あの悲鳴だった。チュートリアルで、俺の番の前に必ず流れていた声。スキップのボタンを連打して、二周目からは聞きもしなかった声。
違うのは、それが途中で途切れたことだ。
ゲームでは、悲鳴のあとに赤いエフェクトが散り、NPCの身体は砂の上でゆっくりと薄れて消えていった。今、闘技場の真ん中に倒れている若者は、薄れもしなければ消えもしない。腹から溢れたものが砂を濡らし、見開いたままの目が、雲ひとつない空を映している。
観覧席から、すすり泣く声が聞こえた。母親だろうか。肩を抱かれた女が、声を殺して泣いている。
それでも、誰も闘技場へ降りてはいかなかった。
年嵩の戦士たちが長い槍で猪を檻へ追い込み、鉄格子が下りるのを待ってから、ようやく四人がかりで若者の身体を運び出していく。その間、長老は一度も目を逸らさなかった。
「弱かった」
長老の声は、さっき俺にかけたのと同じ、低く平らな声だった。
「だから、死んだ。――お前たちは、ああなるな」
観覧席の誰も、反論しなかった。泣いていた女も、顔を伏せたまま小さく頷いた。
あれほど騒がしかった男たちが、一斉に拳を握り、自分の胸を一度だけ叩いた。どん、と低い音が谷じゅうに響き、それきり誰も声を出さなかった。
それが、この部族の弔い方らしかった。
俺の隣で、年嵩の戦士が、ふうっと長い息を吐いた。
「でかい斧でも、当たればな」
それは、俺がドルガに言った言葉と、ほとんど同じだった。
俺は何も答えられなかった。
ゲームでは、ここで死んでも復活地点に戻されるだけだった。その答えを、俺はまだこの世界で確かめていない。確かめる方法は、一つしかないのだろう。そして、それを確かめた者は、もう誰にも答えを伝えられない。
ここは、そういう場所だ。
ゲームと同じ形をしていて、ゲームと同じ獣が出てきて、ゲームと同じ悲鳴が上がる。それでも、死んだ者は消えずに、砂の上に残る。
残りの初狩りは、それからも続いた。
ドルガは、案の定と言うべきか、身の丈ほどの大斧で猪と真正面からぶつかり合った。突進を斧の腹で受け止め、押し返し、また受け止める。三度目で肩を牙に裂かれたが、本人はそれに気づいてもいない顔で笑いながら、四度目の突進に合わせて猪の脳天へ斧を叩き落とした。技術も何もない。ただ、誰よりも頑丈で、誰よりも退かなかった。
ドルガは倒れた猪の背に片足を乗せると、血まみれの肩も構わずに両の拳で自分の胸を叩き、空へ向かって吠えた。
「バルガァァァァァ!!」
谷じゅうが、それに吠え返す。
観覧席へ戻ってきたドルガは、血まみれの肩のまま俺の背中をばしばし叩いた。
「見たか、友よ! 俺も勝ったぞ!」
「見てた。肩、裂けてるぞ」
「おう! 痛え!」
痛いなら、もう少し痛そうな顔をしろ。
エルダの戦いは、それとはまるで逆だった。
彼女は、あの「指で引ける」と文句を言っていたおもちゃのような弓を手に、闘技場の端から一歩も動かなかった。猪が突っ込んでくるたびに、ぎりぎりまで引きつけて、横へ跳ぶ。チュートリアルの案内文どおりの、初心者の動きだ。ただし、跳ぶたびに、必ず一本だけ矢を放っていた。
狙いは、すべて同じ場所だった。
猪の、左目。
四本目の矢が目に突き立った瞬間、猪は狙いを失って壁に激突し、そのまま砂の上で暴れ始めた。エルダはそこで初めて弓を捨て、腰の短刀を抜いて、もがく猪の首へ迷いなく刃を沈めた。
軽すぎる弓では、毛皮を貫けない。だから、毛皮のない場所だけを狙った。
誰に教わったわけでもないだろう。動かなくなった猪を見下ろしたエルダは、拳を一度だけ空へ突き上げ、「バルガ」と短く吠えた。ドルガのように胸を叩いたりはしない。それでも、観覧席はちゃんと沸いた。
闘技場の端から戻ってきたエルダは、俺と目が合うと、ふん、と鼻を鳴らした。
「何見てんだよ」
「いい狙いだった。毛皮を抜けないから、目だけ狙ったんだろ」
「当たり前だろ。毛が硬いなら、毛のないとこ撃てばいい。考えるまでもねえ」
本人の中では、それで全部らしい。理屈を組み立てたというより、獣の身体を見て、一番柔らかいところを直感で選んだだけなのだろう。
だが、それができる奴は、ゲームでも多くはなかった。
「……何だよ。じろじろ見んな」
言葉は素っ気ないのに、耳の先が少しだけ赤かった。
日が傾く頃には、すべての初狩りが終わっていた。
十人ほどいた挑戦者のうち、闘技場から戻ってこなかったのは、あの若者一人だけだった。
生き残った俺たちを谷の縁に並ばせると、長老は一人ずつ顔を確かめるように見渡していき、最後に俺のところで目を止めた。
「お前たちは今日から、部族の戦士だ」
誰かが吠えかけたのを、長老は片手で制した。
「三日後、満ちた月が沈む朝に、中央の広場へ行け。他の部族の者も、他の種族の者も、皆そこへ集まる」
長老の視線が、谷の向こう、遠くの空へ向けられる。
「そこから先は、百の異界だ」
百の異界。
その言葉を聞いた瞬間、裂けた太腿の痛みを、一瞬だけ忘れた。
ゲームで、何千時間も潜り続けた場所だ。最深部近くまで踏破し、あの熊で世界の一番上まで登りつめた場所。
ただし今度は、レベル2で、石斧一本で、痛みも死も本物のまま、そこへ入っていくことになる。
その夜、集落は猪の肉で宴になった。
広場の真ん中で丸焼きにされた《鉄牙猪》に、男も女も素手で群がり、焼けた肉を引きちぎっては骨ごと齧っている。酒の入った革袋が回るたびに誰かが吠え、吠えた奴に誰かが腕相撲を挑み、負けた方が火の周りを三周走らされていた。理由は誰も説明しなかった。たぶん、ない。
昼間に死んだ若者の名前も、何度か聞こえた。そのたびに皆が杯を掲げ、「あいつは前に出た!」と叫んで、また肉に戻っていく。悲しんでいないわけではないのだろう。悲しみ方が、ここではこうなのだ。
「なあ、友よ」
焚き火から少し離れた場所に座っていると、肩に布を巻いたドルガが、両手に肉の塊を持って当たり前のように隣に腰を下ろした。片方を、俺の手に押しつけてくる。
「お前、本当にどこから来たんだ? あんな戦い方、見たことねえぞ」
「……さあな。覚えてない」
「そっか」
それだけで、ドルガは納得したように頷いた。普通なら、もう少し疑うところだろう。俺が言うのもなんだが。
「ま、いいや。強えなら、それでいい。友だしな!」
ドルガは笑って、肉に豪快に齧りついた。口の周りを脂で光らせたまま、焚き火の向こうの夜空を見上げる。
「広場、楽しみだな」
楽しみ、か。
俺は返事の代わりに、ずきずきと脈打つ太腿の傷に、そっと手を当てた。




