第2話 見覚えのある闘技場
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
煙と、獣の脂と、乾いた血。鼻の奥にこびりつくような重たい匂いが、眠りの底に沈んでいた意識を乱暴に引きずり上げる。
目を開けると、煤けた丸太の梁が見えた。屋根の隙間から細い光が差し込み、舞い上がった埃をちらちらと照らしている。背中の下にあるのは布団ではなく、ごわついた毛皮だった。身じろぎするたびに、獣臭さがふわりと立ちのぼる。
「……どこだ、ここ」
身体を起こそうとして、俺は自分の腕がやけに重いことに気づいた。持ち上げた右手を、目の前にかざしてみる。
でかい。
指の一本一本が、短い薪みたいに太い。手の甲には古い傷跡が何本も走り、前腕は丸太のように盛り上がっていた。握って、開く。俺の意志どおりに動く。動くのに、まるで他人の手を借りているような違和感が、どうしても拭えなかった。
視線を下ろすと、分厚い胸板と、岩を並べたように割れた腹が目に入った。身につけているのは、毛皮のベストと、腰に巻いた粗い布だけ。剥き出しの脚も、これまた丸太だった。
「……は?」
漏れた声まで低い。喉の奥で唸るような、太い声だった。
記憶を辿る。最後に覚えているのは、ヘヴンズのランキングの一番上に並んだ自分の名前と、外したはずのヘッドセットから聞こえた鐘の音だ。
そこから先は、白く塗り潰されたように途切れていた。
夢……夢にしては、毛皮が臭すぎる。
試しに頬をつねってみると、ちゃんと痛かった。
ヘヴンズは痛覚を再現しない。強い衝撃は振動と軽い圧迫感に置き換えられるだけで、痛みそのものは来ない。それがVRの安全基準で、だからこそ俺は、何千回でも死にながら攻略を詰めることができた。
だから、これはおかしい。
俺は半ば癖で、頭の中で唱えてみた。
ステータス。
何も起きなければ、それでいい。寝ぼけた男が、夢の続きを見ていただけで済む。
視界の右上に、半透明の矩形が滑るように浮かび上がった。
名前:ヴァルク
種族:バーバリアン
レベル:1
その下に、筋力、技力、知力と、見慣れた三つの能力値が並んでいる。
息が止まった。
消えろ、と意識すると、半透明の矩形はすっと薄れて消えた。もう一度念じれば、同じ場所に戻ってくる。手を伸ばしても触れられず、首を振っても視界の同じ位置についてくる。
表示を出し入れする感覚だけは、ヘヴンズのVRと同じだった。
だからこそ、そこに書かれた数字から目を逸らせなかった。
レベル1。
何千時間もかけて積み上げたものが、全部、最初の一歩に戻っていた。
「……マジかよ」
いや、待て。落ち着け。まずは数字を見ろ。
筋力は、バーバリアンの初期値としてはむしろ恵まれている部類だ。技力も、まあ平均的。ここまではいい。
問題は、知力だった。
バーバリアンの知力は、全種族で最低だ。初期値は笑えるほど低く、序盤でまともに上げようとすれば、他の能力をまるごと犠牲にしなければならない。知力を少しでも必要とする組み方は、バーバリアン使いの間では自殺行為とまで言われていた。知力が足りなくて装備が持てず、持てるようになるまで、ひたすら耐えるしかない。その地獄を、俺は嫌というほど知っている。
その、バーバリアンの初期知力は1。それが8あった。知力に優れたエルフでさえ9だ
「おかしい」
声に出すと、余計におかしさが際立った。
仕様変更……じゃないよな。運営がバーバリアンを救済するなんて話は、一度も聞いたことがない。そもそも、ここがヘヴンズの中なのかどうかすら分からないのだ。痛みもあれば、匂いがある。どこを探しても、ログアウトのメニューが見当たらない。
考えがまとまる前に、入口に垂らされた毛皮が、ばさりと乱暴に跳ね上げられた。
「起きたか、よそ者」
入ってきたのは、俺と同じくらい大柄な女だった。日に焼けた肩に刺青を入れ、腰には骨を削ったナイフを提げている。値踏みするように俺を眺めてから、彼女は顎で外をしゃくった。
「長老が呼んでる。歩けるなら来い。歩けないなら担ぐ」
「いや……歩ける」
「ならいい」
それだけ言うと、女はさっさと出ていった。説明も、名乗りもない。俺は慌てて立ち上がり、梁に頭をぶつけかけたのを、すんでのところでかわした。この身体の背丈に、まだ感覚が追いついていない。
────────
外に出た瞬間、音と光に殴られた。
太い丸太を突き立てただけの柵が、ぐるりと集落を囲んでいる。その内側に、獣の皮と骨で組んだ家が無秩序に並び、あちこちで火が焚かれていた。焼ける肉の匂い。誰かの怒鳴り声と、それに怒鳴り返す声。子どもたちが木の棒で本気で殴り合い、それを大人たちが笑いながら囃し立てている。犬だか狼だか分からない獣が、足元を走り抜けていった。
誰もが、でかい。そして、何よりうるさい。
しかし、見覚えがある、と思った。
ヘヴンズでバーバリアンを選ぶと、最初に放り込まれる集落。背景として何度も通り過ぎた、骨と毛皮の村だ。柵の形も、広場の真ん中に据えられた巨大な獣の頭骨も、記憶の中の景色とよく似ている。
ただ、ゲームの集落は、こんなに臭くなかった。子どもたちは同じ台詞を繰り返すだけで、殴り合ったりはしなかったし、焚き火の煙が目に染みることもなかった。
似ている。でも、同じだとは言い切れない。
案内された先、獣の頭骨の下に、一人の老人が胡座をかいていた。
老人といっても、背は少しも丸まっていない。白くなった髪と髭の下で、肩の筋肉はまだ岩のように盛り上がっている。顔の半分を斜めに走る古傷が、この男がどれだけの獣を狩ってきたのかを黙って物語っていた。
「夜明けに、柵の外で倒れていたそうだな」
低い声だった。周りで騒いでいた連中が、それだけで少し静かになる。
「そう……らしい。俺は覚えてないが」
「どこの部族だ?」
「分からん」
「家族は?」
「いない」
嘘ではない。少なくともこの世界には、と付け加えるべきなのかどうかは、俺にも分からなかった。
老人はしばらく、俺の顔を眺めていた。疑っているというより、仕留めた獣の大きさを目で測るような視線だった。
「なら、狩れるか?」
「……たぶん」
「なら、初狩りに出ろ」
「軽いな……」
思わず漏れた本音に、周りの連中がどっと笑った。老人も、傷の走った口元をわずかに歪める。
「軽くはない。初狩りで死ぬ者もいる。だが、狩れる者は仲間だ。どこから来たかは関係ない」
老人は、膝を叩いて立ち上がった。
「今日がその日だ。ちょうどいい」
ちょうどいい、で済ませていい話なのか。
ただ、初狩りという言葉の響きに、俺はどこか引っかかるものを感じていた。
────────
昼過ぎ、俺は集落の外れへ連れていかれた。
そこには、同じように初狩りに出るという若者たちが、十人ほど集められていた。皆、緊張を隠すように大声で喋り、互いの背中を叩き合っている。その輪から少し外れた場所で、場違いな俺は所在なく立っていた。
「お前が噂のよそ者か?」
声をかけてきたのは、俺に負けず劣らずの大男だった。茶色い髪を短く刈り込み、人懐っこい笑みを浮かべている。片手には、水の入った革袋をぶら下げていた。
「ドルガだ。お前は?」
「ヴァルク」
「ヴァルクか。いい名前じゃねえか。強そうだ」
名前の響きだけで、いったい何を判断しているんだ、こいつは。
ドルガは大きな両手で、俺の両肩をばしんと掴んだ。
「よし、決めた! お前は今日から俺の友だ! 友よ!」
「……今、会ったばかりだろ」
「会ったら友だ!」
声がでかい。顔も近い。距離の詰め方に、一切の段取りがなかった。
ドルガは当たり前のように革袋を押しつけてきた。俺が受け取るのを待つ間も、その顔には少しの警戒も浮かんでいない。
「飲んどけ。初狩りの前は、みんな喉が渇くんだ」
「……どこの誰かも分からない相手に、ずいぶん親切だな」
「友だからな!」
答えになっているのか、いないのか。俺が言葉に詰まっていると、ドルガの背後から、うんざりしたような声が飛んできた。
「ドルガ。また拾い物か」
赤褐色の長い髪を、無造作に後ろで束ねた女だった。背が高く、腕も脚も無駄なく引き締まっている。琥珀色の目が、俺を頭のてっぺんから爪先まで、遠慮なく値踏みした。
「拾い物じゃねえよ、エルダ。ヴァルクだ」
「名前なんかどうでもいい。そいつ、どこの部族かも分からないんだろ」
「長老が出ていいって言ったんだから、いいじゃねえか」
エルダと呼ばれた女は、大げさにため息をついた。
「お前は警戒心がなさすぎる」
「お前がありすぎるんだよ」
「……知るか。どうせ、初狩りで死ななきゃ分かる」
強ければ信じる。死んだらそれまで。警戒しているようで、結論の出し方は結局そこらしい。
言い捨てて、エルダはそっぽを向いた。ドルガは悪びれもせず、俺に向かって肩をすくめてみせる。
「幼なじみなんだ。口は悪いけど、いい奴だぞ」
「聞こえてるぞ」
……仲がいいのは、よく分かった。
受け取った革袋に口をつけると、ぬるい水が喉を流れていった。思っていたより、ずっと喉が渇いていたらしい。
やがて、年嵩の戦士が武器を山ほど抱えてきて、地面へ放り出した。
石の斧。骨の槌。木を削った槍。粗末な弓。初狩りでは、この中から一つを選んで戦うらしい。若者たちが我先にと群がり、一番大きな斧を奪い合い始めた。
俺は、その輪に加わらなかった。少し離れた場所から、一つ一つを眺める。
どれも、能力の付いていない初期装備だ。ゲームでいえば、ドロップしても誰も拾わないゴミ。だが、ゴミにも当たり外れはある。刃の重心がどこにあるか。柄の長さが、この身体の腕に合っているか。初狩りの相手が何であれ、重い一撃より、二撃目を素早く出せる武器の方が生き残りやすい。
俺は山の端に転がっていた、ひと回り小ぶりな石斧を拾い上げた。軽く振ってみる。重心が手元に近く、振り抜いたあとの戻りが速い。悪くない。
「そんな小さいのでいいのか?」
ドルガが、自分の身の丈ほどもある大斧を担ぎながら首をかしげた。
「でかけりゃいいってもんじゃない」
「でかい方が強いだろ」
「当たればな」
「当たらなかったら?」
「当たるように振る。相手の動きを見て、隙ができるのを待って、そこに――」
「わからん!」
ドルガは、清々しいほどきっぱりと言い切った。それから、ぱっと顔を輝かせる。
「つまり、当たるまで振りゃいいってことだな! 筋肉で!」
「……まあ、間違ってはいない」
大事な部分が全部抜け落ちているが、間違ってはいない。
その横で、エルダが粗末な弓を手に取り、弦を何度か引いては眉をしかめていた。
「軽すぎる。こんなの、指で引けるぞ」
「全力で引いたら折れるな」
「なら、全力で引かなきゃいい」
あっさりとそう言って、エルダは弓を肩に掛けた。考えているのか、いないのか。バーバリアンの腕力で引くには、確かにおもちゃのような弓だった。それでも彼女は、文句を言いながら、その弓を手放さなかった。
武器を選定し、移動する。初狩りの場所は、集落から少し歩いた谷の底にあった。
岩肌を削って作られた、すり鉢状の窪地だ。周囲には石を積み上げた観覧席が段々に並び、すでに集落の大人たちがひしめいている。底には白っぽい砂が敷き詰められ、その一角に、太い鉄格子のはまった檻がいくつも口を開けていた。
谷の縁に立って、それを見下ろした瞬間。
俺の足が、止まった。
俺はここを知ってる。
すり鉢の形。観覧席の段数。檻の並び方。底に敷かれた砂の白さまで、全てが、ヘヴンズでバーバリアンを選んだプレイヤーが、最初に戦わされる場所。操作方法を覚えるための、チュートリアルの闘技場だ。
画面の端に「敵の突進は、横へ回避しましょう」と案内の文字が浮かび、観覧席から歓声の効果音が鳴る。プレイヤーの番の前には、何人ものバーバリアンNPCが順番に獣へ挑み、そのうちの何人かは失敗して倒れた。悲鳴が上がり、砂の上に赤いエフェクトが散る。
当時の俺は、それを「そういう演出」としか思っていなかった。
チュートリアルに緊張感を出すための、よくある仕掛けだ。プレイヤーは失敗しても死なないから、代わりにNPCを死なせて見せる。二周目からは、スキップのボタンを連打して飛ばしていた。
今、その砂の上には、本物の染みがあった。
雨に流され、日に焼かれて黒ずんだ、いくつもの染み。風向きが変わると、谷底から鉄錆に似た匂いが立ちのぼってくる。
ゲームが、この世界を再現したのか。
それとも、この世界が、ゲームになったのか。
……どっちだ?
答えの出ない問いを、俺は無理やり腹の底へ押し込んだ。今それを考えても、生き残る役には立たない。
観覧席の最前列に、長老が立った。谷底を見下ろし、丸太のような両腕を大きく広げる。
「立てっ!そして、前へ突き進めっ!」
腹の底から絞り出したような声だった。俺の周りにいた若者たちが、一斉に拳を突き上げる。
「「「「うおおおおおっ!!!」」」」
「なら戦えェ!」
次の瞬間、谷そのものが揺れた。
「「「「「バルガァァァ!!」」」」」
何百という喉から同じ言葉が噴き出し、岩肌に跳ね返って降ってくる。意味は分からない。ゲームのチュートリアルでも、NPCたちが似たような声を上げていた気はするが、あの時は背景の効果音としか思っていなかった。
……雑だな。
立っているなら戦える。理屈としては、それ以上でも以下でもない。ついでに言えば、前の世界でその確認の仕方をしたら、間違いなく別の意味に取られる。
隣を見ると、ドルガが誰よりも大きな声で「バルガァ!」と叫んでいた。顔を真っ赤にして、拳を何度も空へ突き上げている。
バルガ。ヴァルク。
なるほど、と思った。あいつが俺の名前を聞いて強そうだと言った理由が、少しだけ分かった気がした。
気づけば、声を出しそびれていたのは、俺一人だけだった。
「よそ者から行け」
長老の声が、谷に響いた。観覧席がどよめく。
「狩れると言ったな。なら、見せてみろ」
ドルガが、俺の背中をばしんと叩いた。
「いけるって、ヴァルク」
根拠なんて何もない声だった。それなのに、不思議と肩から余計な力が抜けた。エルダは何も言わず、腕を組んでこちらを見ている。その目は、まだ俺を値踏みしたままだった。
俺は石斧を握り直し、砂の上へ降りた。
足の裏で、砂が沈む。
観覧席の声が、急に遠くなった。代わりに、自分の呼吸と、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
チュートリアルの一戦目の相手なら、覚えている。突進してくる大猪だ。真っ直ぐ突っ込んできて、止まり、ゆっくりと向きを変えて、また突っ込んでくる。それだけの、操作を覚えさせるためだけの獣。ゲームなら、目を瞑っていても倒せる。
レベル1の俺がこの世界で勝てる理屈は、それしかなかった。
スキルもない。パッシブもない。装備は、ゴミの石斧が一本。あるのは何千時間ぶんの知識と、それを本当に動かせるのかも分からない、借り物みたいなこの身体だけだ。
スキルとレベルがすべて。それがヘヴンズの真理で、たぶん、この世界の真理でもある。持たない者は、持つ者から一方的に理不尽を押し付けられる。
だから、知っていることで、その差を埋めるしかない。
それに、もう一つ。ゲームなら、ここで負けても復活地点に戻されるだけだった。
この世界で死んだら、どうなる?
砂の上の黒い染みが、その答えのような気がした。
正面の檻の鉄格子が、軋みを上げて持ち上がり始めた。
暗がりの奥で、何かが鼻を鳴らす。湿った、生温かい息の音だった。ゲームの効果音とはまるで違う。耳ではなく、腹の底に直接響いてくるような、生き物の音。
次の瞬間、黒い影が砂を蹴立てて飛び出してきた。
鉄のように黒ずんだ二本の牙。逆立った硬い毛。小山のような肩。チュートリアルの鉄牙猪は、画面越しに見たときより、そいつはずっとでかかった。




