第1話 世界一位の熊
走るたびに、地面が砕けていく。
四本の脚で石畳を蹴りつけるたび、巨体を受け止めきれなくなった足元が爆ぜ、衝撃の輪が左右へと広がった。その輪に呑まれた骸骨兵の列が、乾いた音を立ててまとめて崩れていく。振り返って確かめる必要はなかった。崩れた数だけ、視界の端で討伐数の表示が勝手に積み上がっていく。
喉の奥からは、雄叫びが絞り出され続けていた。止める気はない。吠えながら走っている限りこの脚は止まらないし、脚が地面を叩くたびに、周りの雑魚は勝手に消えていく。
黒い毛並みに覆われた、熊の身体。
それが、今の俺だった。
《HUNDRED HEAVENS》――通称ヘヴンズのエンドゲーム。百ある異界の中でも、ほとんどのプレイヤーが足を踏み入れることすらない、最深部に近い階層だ。
水に沈みかけた廃都の大通りを、俺は一直線に駆け抜けていく。崩れた尖塔の陰から、翼の生えた魔物が三体、こちらを目がけて急降下してきた。避けるつもりはなかった。前足を振り下ろせば、叩きつけた地面から尖った岩石が突き出し、三体まとめて吹き飛んでいく。
技を撃つたびに、視界の左下でHPのゲージがわずかに削れる。爪が敵に届けば、削れた分がまた戻ってくる。減っては満ち、満ちては減る。その数字が忙しなく上下するだけで、身体には何ひとつ伝わってこなかった。痛みもなければ、疲れもない。ゲームなのだから、当たり前だ。
視界の右上では、時計の数字が減り続けていた。
シーズン終了まで、残り十一分。
ランキング二位とは、ほんのわずかな差しかない。この階層のボスをどれだけ速く沈められるか、それだけで今シーズンの一位が決まる。
廃都の突き当たりで、大聖堂の扉が内側から吹き飛んだ。
石と骨を継ぎ合わせたような巨人が、身を屈めて戸口をくぐり出てくる。立ち上がったその頭は、崩れかけた尖塔とほとんど同じ高さにあった。
巨人が、柱のような腕を振り上げる。
俺は速度を落とさず前へ出て、それを肩で受けた。HPのゲージが三分の一ほど一気に削れたが、構わずに懐へ潜り込み、顔面へ前足を叩き込む。一撃ごとに、削られた分が少しずつ戻ってくる。殴り合いなら、こっちの方が長く立っていられる。
巨人がよろめき、両腕を交差させて頭を庇った。硬い構えだ。このまま殴り続けても崩せなくはないが、それでは時間がかかりすぎる。
だから、空へ向けて吠えた。
喉が裂けるほどの咆哮が廃都に響き渡ると、頭上に垂れ込めた雲が、内側から赤く焼けた。燃え盛る岩がひとつ、またひとつと雲を割って落ちてくる。十では利かなかった。数えるのをやめた頃には、廃都の空そのものが、降り注ぐ炎で埋め尽くされていた。
《歩く厄災》。
隕石が巨人の肩を砕き、膝を砕き、固めた構えごと地面へ叩き伏せる。大聖堂の残骸が崩れ落ち、立ちのぼった土煙が大通りを丸ごと呑み込んでいく。その真ん中へ、俺はもう一度飛び込んだ。
討伐の表示が出たとき、時計は残り四分を指していた。
変身が解け、黒髪の大男の姿に戻る。獣の皮を着込んだ、見るからに頭の悪そうな蛮族――バーバリアン。弱い、終盤じゃ使いものにならない。全種族の中で散々そう言われ続けてきた、不遇種族だ。
シーズン終了を告げる鐘が鳴り、ランキングの画面が開いた。
一番上に、その名前があった。
《ヴァルク》。種族、バーバリアン。
「しゃああああああああっ!」
ヘッドセットを外すと、雄叫びをあげた。見慣れた狭い部屋の天井が目に入った。散らかった机と、すっかり冷めたカップ麺。カーテンの隙間からは、白み始めた朝の光が差し込んでいる。黒瀬悠真という本名より、《ヴァルク》と呼ばれることの方がずっと多くなって、もう何年経つだろう。
椅子の背にもたれて、余韻に浸り、自画自賛をしては賞賛する。
その時、外したはずのヘッドセットから、鐘の音が聞こえた。
ゲームはもう閉じている。それなのに、音は止まない。それどころか、机の上に転がったヘッドセットからではなく、部屋の壁の向こうから、天井の上から、少しずつ近づいてくる。
「……なんだ?」
立ち上がろうとした足が、床を踏んだ感触を返さなかった。壁の輪郭が、水に落としたインクのように滲んでいく。
三度目の鐘が鳴ったとき、俺の世界は白く塗り潰された。




