第4話 中央広場
満ちた月が西の空へ傾き始めた頃、俺たちは集落を出た。
初狩りを越えた九人と、道案内の年嵩の戦士が一人。中央の広場までは、夜通し歩いて夜明けに着く距離らしい。らしい、というのは、正確な距離を知っている者が一人もいなかったからだ。
「どのくらいで着く?」
「歩いてりゃ着く」
「いや……だからどのくらい歩けば?」
「着くまでだ」
道案内の戦士は、それ以上の答えを持っていなかった。ドルガが横で「だよな!」と深く頷いている。
太腿の傷は、もう塞がりかけていた。三日前にざっくりと裂けていたはずの肉が、今はかさぶたの下でわずかに引きつる程度で済んでいる。あの乱暴な手当てに使われた汁のおかげなのか、それともバーバリアンの身体がもともとこういうものなのかは分からない。少なくとも、地球の俺の脚なら、まだ松葉杖をついていただろう。
夜道の間じゅう、バーバリアンたちは黙らなかった。
誰かが歌い出せば誰かが調子外れに重ね、それに文句をつけた奴と殴り合いが始まり、殴り合いが終わると肩を組んでまた歌う。途中で道案内の戦士が「獣が寄ってくるぞ」と一度だけ注意したが、返ってきたのは「来たら食えばいい!」という返事と、九人分の笑い声だった。
実際、一度だけ狼の群れが寄ってきた。
そして、九人分の雄叫びを浴びて、尻尾を巻いて逃げていった。
「ほらな!」
ドルガが胸を張った。何が「ほらな」なのかは分からないが、結果だけ見れば、確かに正しかった。
エルダは、その騒ぎから少し外れたところを、弓を肩に掛けて静かに歩いていた。時々、夜の森の奥へ目をやっては、また前を向く。耳を澄ませているのだと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「何か聞こえるのか」
「狼。さっきの奴らが、まだついてきてる」
「襲ってくるか?」
「来ない。腹が減ってるだけだ。来たら、殺して食えばいい」
それきり、エルダはまた黙った。
部族の中では、彼女は静かな方なのだろう。ただし、言っている中身は、他の連中とあまり変わらない。
夜明けとともに、森が途切れた。
視界が一気に開けた瞬間、隣を歩いていた若者たちが、揃って足を止めた。俺も、止まった。
丘の下に、巨大な都があった。
白っぽい石の城壁が、地平線の端から端まで続いている。その内側に、数えきれないほどの屋根が重なり合い、朝の光を受けて鈍く光っていた。煙突から上る煙、塔の先にはためく色とりどりの旗。そして、その真ん中に――
鐘楼が、あった。
都のどの建物よりも高く、空に突き刺さるようにそびえる石の塔。その頂に、遠目にも分かるほど巨大な鐘が吊るされている。
《始まりの鐘》。
ヘヴンズのプレイヤーなら、誰でも知っている。鐘が鳴るとゲートが開き、百の異界へ挑めるようになる。ゲームの中では、何千回とその音を聞いてきた。拠点に戻るたびに、嫌でも目に入る景色だった。
なのに、あの鐘を見た瞬間、俺の背中を冷たいものが撫でていった。
ヘッドセットを外したあの部屋で、壁の向こうから近づいてきた音。三度目で、世界が白く塗り潰された音。
……あれは、この鐘の音だったのか?
確かめようがなかった。似ている気もするし、ただの鐘の音なんてどれも似たようなものだという気もする。
「でっけえなァ!」
ドルガの大声が、俺の思考を叩き割った。
「見ろよ友よ! あれ、全部石だぞ! 誰が積んだんだ!?」
「……たぶん、大勢でな」
「すげえな!」
感想が一言で終わるのが、いかにもドルガらしかった。
城門をくぐると、音と匂いが倍になった。
石畳の大通りに、人がひしめいている。荷車を引く者、露店の前で値切る者、鎧を着込んで足早に歩く者。そして、その中に、バーバリアンではない姿がいくつも混じっていた。
背丈は俺の胸ほどしかないのに、横幅が俺と変わらない、髭の長い者たち。ドワーフだ。頭から角を生やし、肌の色がどこか青白い者たち。魔族。耳と尾を持ち、獣の顔立ちを残した者たち。獣人。それ以外にも、俺がゲームで見慣れた姿が、通りの至るところにいた。
ゲームの拠点都市そのままの光景だ。違うのは、誰もが自分の意志で動いていて、誰もが、俺たちを見ていたことだった。
正確には、見て、避けていた。
バーバリアンの一団が通りを進むと、人の波が自然に左右へ割れていく。露店の主人は商品を少しだけ奥へ引っ込め、親は子どもの手を引いて道の端へ寄る。聞こえよがしに、「蛮族だ」と囁く声もした。
当のバーバリアンたちは、まったく気にしていなかった。
「道が空いてるぞ!」
「俺たちが強えからだな!」
「違えねえ!」
違う。たぶん、うるさくて臭いからだ。
その一方で、露店の何人かは、避けるどころか妙に愛想のいい顔でこちらを見ていた。値札も出さずに、手招きしてくる。獲物を値踏みするような、あの目つきには覚えがあった。こっちが何も分からないと思っている顔だ。
まあ、俺はバーバリアンじゃないから問題はない。
中央の広場は、鐘楼の真下にあった。
石畳の円形の広場は、すでに人で埋め尽くされていた。ただし、さっきの大通りとは雰囲気が違う。集まっているのは、ほとんどが若者だった。それも、あらゆる種族の。
ドワーフの若者たちが、真新しい鎚を担いで固まっている。魔族の一団は、揃いの外套を着込んでいる。獣人の若者たちは、落ち着きなく尾を揺らしながら、鐘楼を見上げていた。どの顔にも、三日前の俺たちと同じような、緊張と興奮が混ざった色が浮かんでいる。
「全部、新人か」
「初めて潜る奴らだ。毎年、満ちた月が沈む朝に、みんなここへ来る」
道案内の戦士が、当たり前のことのように言った。
毎年、同じ日に。全種族が。
文化も、信じる神も、暮らし方も違うはずの種族が、示し合わせたように同じ朝、同じ場所へ新人を送り込んでくる。ヘヴンズでも、そうだった。どの種族を選んでも、チュートリアルを終えたプレイヤーは必ずこの広場から始まった。
ゲームの新人導線が、そのまま文化として残っているのか。
それとも───
「ヴァルク、ぼーっとすんな。置いてかれるぞ」
エルダに肘で小突かれて、俺は考えるのをやめた。広場の端の、ひときわ大きな石造りの建物の前に、新人たちの列ができ始めていた。
冒険者ギルド。
その看板を見上げて、俺はようやく思い出した。
「……あー。そういえば、そんなのあったな」
「何がだ?」
「いや、なんでもない」
ヘヴンズでは、ギルド登録は一瞬で終わるただの手続きだった。名前の確認画面が出て、決定を押して、それで終わり。二周目からは、存在ごと記憶から消えていた。チュートリアルの闘技場と同じで、スキップしかしたことがない。
この世界では、もちろんスキップのボタンなんてない。俺たちは列に並び、一刻ほど待たされてから、ようやく建物の中へ通された。
広い石造りの広間の奥に、黒い石の台がいくつも並んでいる。その一つの前で、細い眼鏡をかけた受付の女が、俺たちバーバリアン三人を見るなり、ほんのわずかに肩を落とした。毎年この光景を見ている人間の、諦めの混じった顔だった。
「ダンジョンに潜るには、ギルドへの登録が必要です。この台に手を置いてください。カードが作られます」
ドルガが真っ先に、黒い台へ手のひらを叩きつけた。
台の表面に、淡い光の線が走る。線は複雑な紋様を描きながら手のひらの下へ集まり、光が消えたとき、そこには一枚の薄い板が残されていた。金属とも石ともつかない、手のひらに収まるほどの板だ。
「おお……!」
「名前、踏破した階層、レベルが刻まれます。中身は、ダンジョンで成長すれば勝手に書き換わります。それと――」
「見ろ、エルダ! 俺の名前が書いてあるぞ!」
「最後まで聞け」
「レベル、ちゃんと2だ! 友よ、見てくれ!」
ドルガは、カードを高々と掲げて、周りじゅうに見せびらかし始めた。隣の列のドワーフにまで見せている。ドワーフは、心底どうでもよさそうな顔をしていた。
受付の女が、眼鏡の位置を指で直した。
「――それと。カードは、身分証です。他人に、軽々しく見せないでください」
ドルガの動きが止まった。
「……なんでだ?」
「自分の強さを知られるということは、自分より強い相手に、狙われる理由を与えるということです。ダンジョンの中で、何が起きても、誰も見ていませんから」
淡々とした声だった。脅しているのではなく、毎年同じことを、同じ調子で言ってきた声だ。
ドルガはしばらく考え込む顔をして、それから、ぱっと笑った。
「なら、俺より強い奴に会ったら、そいつより強くなればいいな!」
「そういう話ではないです」
「筋肉だな!」
「そういう話ではないです……」
エルダが無言でドルガのカードを奪い取り、本人の腰袋へ乱暴にねじ込んだ。それで、話は終わりになった。
俺も台に手を置いた。光の線が手のひらの下に集まり、カードが形を作っていく。
名前、ヴァルク。踏破階層、なし。レベル、2。
ステータス画面と同じく、ゲームと見た目はよく似ている。ただ、ゲームでは画面の中の数字だったものが、今は手のひらに重さを持って載っていた。そして、それは他人に見せれば命取りになりうるものだという。
俺はカードを、誰にも見えないように腰袋の奥へしまった。
登録を終えて広場へ戻ると、鐘楼の下に、鎧姿の男が一人立っていた。ギルドの係の者らしい。男は新人たちを見渡すと、よく通る声で告げた。
「初めて潜る者は、三人で組め。組めた者から、ゲートの前で名を告げろ。明日の朝、第一の異界へ入る」
広場が、一斉にざわついた。
三人。
ヘヴンズのチュートリアルも、三人一組だった。プレイヤー一人に、NPCの仲間が二人。最初の階層を抜けるまでの、操作を覚えるための仮のパーティーだ。
「なんで三人なんだ?」
近くにいた獣人の若者が、係の男に訊いた。男は、質問の意味が分からないという顔をした。
「昔から、そう決まっている」
それだけだった。誰も、それ以上は訊かなかった。
俺は、少しだけ寒気がした。チュートリアルの闘技場と同じだ。ゲームの都合で決められていたはずの形が、この世界では、誰も理由を知らない「昔からの決まり」として残っている。
考えているうちに、周りではもう、三人組の取り合いが始まっていた。
そして気づけば、俺の周りにも人が集まっていた。
「よそ者! いや、ヴァルク! 俺たちと組め!」
「猪を二撃で沈めた奴だろ! うちに来い!」
「待て、こっちが先だ!」
別の部族のバーバリアンたちだった。初狩りの噂は、三日の間に部族を越えて広まっていたらしい。袖を引かれ、肩を掴まれ、気づけば三方向から引っ張られている。
「おい、引っ張るな、腕が――」
「こいつは俺の友だァ!」
割って入ったのは、ドルガだった。
人垣を肩で押しのけて突っ込んでくると、俺の腕を引っ張っていた連中を、文字通り一人ずつ引き剥がしていく。
「友を取られてたまるか! ヴァルクは俺と組む! 俺とエルダと、ヴァルクだ!」
「勝手に決めんな」
後ろからついてきたエルダが、ドルガの後頭部をはたいた。それから、俺を見る。
「……まあ、いい。初狩りは見た。弱くはない」
それで、決まりらしかった。強いなら組む。死んだら、それまで。この部族の判断は、いつもそこへ行き着く。
取り損ねたバーバリアンたちは、「くそォ!」「次は負けん!」と吠えながら散っていった。何に負けたのかは、たぶん本人たちにも分かっていない。
ドルガが、俺の肩をばしばし叩く。
「よし、決まりだ! これで三人だな、友よ!」
「ああ」
俺は頷いた。
頷きながら、頭の片隅では、まったく別の計算をしていた。
ヘヴンズでは、パーティーの人数が増えるほど、敵の体力も増えた。三人なら、人数に応じて敵も硬くなる。だから俺は、効率を求めて、いつも一人で潜っていた。チュートリアルの三人組なんて、最初の階層を抜けた瞬間に解散していたくらいだ。
ソロなら、敵は柔らかい。ゲームなら、迷わず一人で潜った。
だが、今回は違う。
死んだあとに、復活地点へ戻される保証は、どこにもない。初狩りの闘技場で、砂の上に残された若者の身体を見た。あれが、この世界の「死」だ。
なら、保険は多い方がいい。
前で受け止める頑丈な前衛と、目だけを狙い撃てる弓手。初めて組む相手としては、出来すぎなくらいの組み合わせだ。
この三人組は、最初の階層を抜けても解散しない。少なくとも、俺が死なないで済むうちは。
……打算だな、と自分でも思った。
ドルガは、そんなことは知りもしないで、満面の笑みで俺の肩を叩き続けていた。
三人の名をゲートの前で告げ終えると、もう昼を回っていた。
俺は二人に断って、広場の外周に並ぶ露店を一人で見て回った。確かめておきたいものがあった。
武器屋の並ぶ一角で、その店は見つかった。
店先に吊るされた、骨と牙と羽根で編まれた護符のような飾り。木の台の上には、手のひらほどの大きさの彫り物が並んでいた。どれにも、狼、熊、鷲――三つの獣が、一つの意匠として絡み合うように刻まれている。
タリスマンだ。
シャーマンが使う武器。持てば、獣の姿へ変わることができる。
胸の奥が、熱くなった。
ちょうどそのとき、店の前で品定めをしていた魔族の若者が、一つのタリスマンを手に取った。店主に「試していいか」と訊き、頷きをもらうと、それを胸の前に掲げる。
次の瞬間、若者の輪郭が揺らいだ。
手足が縮み、背が丸まり、額の角が沈み込むように消えて、灰色の毛並みが全身を覆っていく。瞬きを二度するほどの間に、そこには一頭の狼が立っていた。狼は満足げに鼻を鳴らし、すぐにまた角の生えた若者の姿へ戻っていく。周りで見ていた何人かが、小さく歓声を上げた。
俺は、その光景から目を離せなかった。
ゲームで、数えきれないほど見た変身だ。それでも、本物の肉が獣に変わるところを、目の前で見るのは初めてだった。
あれが、できる。
あの姿に、なれる。
店主に断って、台の端に並んでいた一番安い、三獣の意匠が彫られた初心者向けのタリスマンを一つ手に取ってみる。その瞬間、視界の右上に、半透明の矩形が浮かび上がった。
装備条件を満たしていません。
必要知力:12(現在:8)
……四?
一瞬、数字を読み違えたのかと思った。
ステータスポイントは、一つ振れば能力値が三上がる。そしてバーバリアンの知力は、本来なら1から始まる。初心者向けのタリスマンを持つためだけに、四つのポイントを――つまりレベル四つ分の成長を、丸ごと知力へ注ぎ込まなければならない。ゲームでクマバーバリアンを組むたびに、最初に味わう地獄がそれだった。周りが筋力を積んで強くなっていく横で、一人だけ、何の役にも立たない数字を育て続ける時間。
今の俺の知力は、8。足りないのは、たったの四だ。
初狩りで手に入れたポイントを一つ振れば、11。あとレベルを一つ上げて、もう一つ振れば、14。
届く。
その場で、半透明の矩形に意識を向けた。保留にしていたステータスポイントを、知力へ。
知力:11
迷う理由は、どこにもなかった。
なぜこの身体だけ、と考えかけて、やめる。今ここで考えて答えが出る問いじゃない。それより、目の前の数字の方がよほど大事だった。
それに、もう一つ。
値札を見た。一番安い品だというのに、桁が、俺の手持ちとは比べものにならなかった。そもそも、俺の手持ちは、ゼロだ。
「買うのか、蛮族の兄ちゃん」
店主が、あの値踏みの目でこちらを見ていた。
「バーバリアンにゃ、まず扱えねえ代物だがね」
「なに……今日は見るだけだ」
タリスマンを台に戻すと、店主は興味をなくしたように鼻を鳴らした。
店を離れながら、俺は頭の中で順番を並べていく。
レベルを上げる。知力を上げる。金を作る。そして、あれを手に入れる。
どれも、まだ遠い。それでも、何から始めればいいのかだけは、はっきりしていた。
まずは、レベルだ。
広場へ戻ると、ドルガとエルダが、鐘楼の根元に腰を下ろして待っていた。ドルガはどこで手に入れたのか、串に刺した肉を三本握っている。
「どこ行ってたんだ、友よ! ほら、食え!」
「……金、あったのか?」
「長老が少しくれた! 全部使った!」
「全部か」
「明日から稼ぐんだから、いいだろ!」
エルダが、自分の分の串を齧りながら、呆れたように肩をすくめた。止めなかったあたり、たぶん彼女も同罪だ。
俺は、肉を受け取って、鐘楼を見上げた。
巨大な鐘は、今は静かに吊るされているだけだ。明日の朝、あの下にあるゲートが開く。その先に、百の異界の最初の一つがある。
「明日だな」
俺の声に、ドルガが肉を頬張ったまま、拳を突き上げた。
「おう! 立ってるかァ!」
「……立ってる」
「なら戦えェ!」
周りにいた別の部族のバーバリアンたちが、それに釣られて一斉に吠えた。広場じゅうの他の種族の新人たちが、何事かとこちらを振り返る。
エルダが、串を咥えたまま、短く「バルガ」と呟いた。
俺は、まだ吠えなかった。
ただ、手の中の串の重さと、腰袋の奥にしまったカードの重さを、確かめるように握りしめていた。




