雪の道とブランデーの記憶
昼下がりのはずなのに、空は灰の雲に覆われ、陽のかけらがどこにも見当たらない。頬に当たる粉雪が針のように刺さる。吐いた息は白くほどけ、革手袋の内側で指がじわじわと痺れた。
そんな厳しい天候のなか、ミツルはヴィルの背へ身体を密着させ、馬の上下動を受け止めている。鞍の革は凍みて硬く、脚の内側へ時おり雪混じりの水が跳ねる。
王都を発ったとき、前に座っていたのはミツルだった。彼女が手綱を持ち、背後のヴィルが腕を回して、その操作を支えていた。けれど山裾へ入るにつれて雪は横殴りとなり、風も正面から強く吹きつけ始めた。
ヴィルは針葉樹の陰へ馬を寄せると、いったん二人とも雪の上へ下りた。
「ここからは俺が前だ」
「どうして? まだ行けるわよ」
「いいや、行けるかどうかの問題じゃない。前が見えなくなってからじゃ遅いだろうが。不慣れな騎手に任せていたら道を見失うだけだ」
「それもそうね。交代しましょう」
そう言って前後を入れ替え、以後はヴィルが手綱を取っている。彼の広い背が風雪を受け止めてくれるだけで、顔へ突き刺さる雪は目に見えて減っていた。
「ありがとうね、ヴィル」
「何がだ?」
「……ううん、なんでも」
ミツルは、ヴィルの背中にそっと頬を寄せる。
触れているのはヴォルフの身体で、かつて身を預けていた背中とは違う。わかっているのに、懐かしさに胸が温かくなる。さっきの素っ気ない返事を思い返すと、なおさら、よく知っている背中に触れているような気がしてしまう。
ここは、王都から遠く離れた街道である。宰相の大行列を避けるため、二人は意図的に人の少ない山岳路を伝って北を目指していた。
北方へ伸びる主街道は、平坦ではあるが山岳を迂回する遠回りなルートでもある。大規模な車列ならば、そこを通らざるを得ない。安全な遠回りと、険しい近道。その差が、わずかな先行へ変わると信じるしかない。
寒気が肌へ噛みつくたび、ヴィルは無言で外套の後ろ裾を広げ、ミツルの腕ごと包んでくれる。
「しっかりしがみついとけ。落ちたら容赦なく置いていくぞ」
ヴィルは振り返らずに言い、その低い声の響きが、背中越しにかすかな振動となって伝わる。
「あら……『離してやるもんか』とか言っておきながら、ずいぶん冷たいのね。そんなことになったら、竜巻の囚で絡め取ってあげるんだから」
「おいおい……あの竜巻地獄だけは勘弁だ。窒息しかねんだろうが」
「ふふ、冗談よ。ちゃんと捕まってるから、安心して」
「そうしてくれ。後ろでは、前のようにはいかんのだからな」
「でも、あなたが風よけになってくれてるから、すごく助かってるのよ」
「そいつは何よりだ。……もう少し行けば、最初の乗り継ぎ所がある。そこで一息つこう」
雪の粒が耳殻へ当たる乾いた音の合間を、蹄鉄が凍った轍を踏む澄んだ金属音がつないでいく。ただ風の唸りだけが山の肩を撫でていた。
――宰相が北へ向かっている今、この先にある小さな町々にも、監視の網が敷かれているかもしれない。
そう思うたび、ヴィルの腰へ回した腕に、知らず力がこもる。
――まずはボコタまで。急がなければ。
白い息の向こうに、ミツルは小さな祈りの形を結び直した。
◇◇◇
山の鞍部を越えると、峠道の勾配がようやく緩み始めた。浅い吹きだまりを蹄が崩し、凍土を打つたび、脚や腰へ小刻みな振動が入る。
やがて遠くに屋並みがちらりと現れ、息を吐く間にその輪郭がはっきりしていく。
宿場町の正面通りは静まり返り、外縁の家々では、窓の隙間から人影が慎重にこちらを窺っていた。正面から入れば目立つ。二人は町道へは出ず、畑と裏庭の間を通る細道へ馬を寄せた。
出立前にヴィルが組んだ行程では、乗り継ぎ地点はこの町の北西、街道から離れた厩付きの小屋となっていた。詳細な全図は王宮へ残し、目印と曲がり角だけを互いに覚えてきている。
「小屋はこの先だ。表通りへは出ず、そのまま外れを回る」
ヴィルの声に迷いはない。
風が家並みの角を折れるたび、粉雪の渦が白い鞠のように立ち上がる。石垣に沿って進むと、雪煙の向こうに低い柵と小屋の屋根が見えてきた。敷地の隅には飼い葉桶が幾つか並び、干草と獣の体温の匂いが、ほのかに暖かく漂っている。
小屋の戸口には、継ぎの当たった上着を着た男が立っていた。腰に剣はなく、徽章もない。どこから見ても、町外れの厩番にしか見えなかった。
男はこちらに気づいても敬礼せず、毛皮帽子のつばへ二度触れてから、厩の扉を半分だけ開いた。町人の挨拶に紛れるよう、出立前に決められた合図だった。
「お待ちしておりました。馬は裏へ回してください」
声も必要以上には張らない。
「うむ。ご苦労」
ヴィルは短くうなずき、指示されたまま馬を柵の内側へ進めた。男は外の道を確かめ、二人が入ったところで門を閉じる。
ヴィルは手綱を渡し、ミツルが下りるより先に雪へ足を置いた。それから当然のように腕を差し出す。
「ありがとう」
ミツルがその手を取ると、革手袋越しにしっかりと握り返された。鞍から身をずらす間も、彼の手は緩まなかった。
「転ぶなよ」
「これじゃ、転びようがないでしょ」
ミツルが踏みしめた雪が小さく鳴り、体重を受けた氷の皮が微かに割れた。
手を離すと、ヴィルは即座に男へ向き直った。
「状況はどうか?」
「荷運びと雪かきを装った者を置いています。いまのところ、宰相方と思われる者は確認しておりません」
「そうか」
「乗り継ぎの用意もできております。こちらへ」
小屋の内側へ入って初めて、男は声をさらに低くした。
「詳細を知るのは私一人だけです。ほかの者には、北へ急ぐ公用の旅人を送る任務とだけ伝えてあります」
「それでいい。最後までそう通せ」
「承知しました」
奥から現れた男二人と女一人も、厚い羊毛の上着や前掛けを身につけ、武器らしいものは何ひとつ帯びていない。けれど、荷を受け取り、鞍を外し、馬体の汗を拭っていく動きには無駄がなかった。
「この馬もずいぶん走ってくれたもの。さすがに息が荒いわね……」
「これだけ深い雪ともなるとな。無理をさせすぎたかもしれない。それでも、よくここまで運んでくれた」
ヴィルが馬の鼻先をゆっくり撫でる。白い湯気を吐いた馬は、その掌へ鼻梁をわずかに押しつけた。
女の協力者が柔らかな声で言った。
「汗を拭いて、ぬるま湯を飲ませておきます。しっかり休ませますから、ご心配なく」
「頼む」
馬から目を戻し、ミツルも女に声をかけた。
「少し休みたいのですけど。わたしたち、かなり冷えていて……」
「どうぞ、こちらへ。暖炉に火も入れてあります。暖まっていってください」
重たい扉が軋み、薪の匂いと暖かな空気が流れ出した。
部屋は厩と厚い土壁で隔てられ、奥には小さな石造りの炉が据えられていた。橙の火が揺れ、薪がぱちぱちと爆ぜている。炉の前には石床が広く取られており、近づくにつれて、ミツルの冷えた頬にも熱が届いた。
簡素な机の上には、小さく折られた羊皮紙が一枚置かれていた。
「次の乗り継ぎまでの道順です」
男が紙を開く。尾根道と凍った沢、崩れかけた橋を避ける迂回路が描かれていた。人名も、部隊名も、その先の行程もない。
「次の担当者は、その先の区間だけを知っています。互いの名も知らされておりません」
「十分だ」
ヴィルは道筋へ目を走らせ、二度ほど指で曲がり角をなぞった。ミツルも横から位置を確かめる。
二人で道筋を確かめ終えると、ヴィルは羊皮紙を細く折り、炉の火へ落とした。縁から黒く焦げ、やがて描かれていた線も見分けがつかなくなった。
「次の区間は長い。替え馬の蹄を、もう一度見ておいてくれ」
「了解です。出発前に再点検いたします」
男が外へ戻ると、女の協力者が布の仕切りを示した。
「こちらへどうぞ。着替えと手拭いは、中へ運んであります。お湯もお使いください」
「ありがとう。助かるわ」
仕切りの向こうには毛布と籠、そしてミツルが王宮を出る前に自分で油布へ包んだ替えの衣類が整えられていた。火の近くに置かれた桶からは、ほんのりと湯気が立ち上っている。
ヴィルはミツルのすぐそばで振り返った。
「俺は馬と周囲を見てくる。いいか、ちゃんと汗を拭いて、濡れたものは替えるんだぞ。風邪を引かれちゃたまったもんじゃない」
声は低く、耳もとにかかった吐息が温かい。
「あなたもちゃんと着替えなきゃだめよ。働き詰めなんだから、汗かいてるでしょう?」
自分の言い回しに照れが走り、ミツルの頬の内側が熱を帯びる。
「ああ、わかってる」
彼が扉を出て、女も空の籠を手に下がると、部屋には炉の音と衣擦れのさざ波だけが残った。
「……少し場所を借りますね」
ミツルは誰へともなく断り、布の仕切りの向こうで湿った衣を脱ぐ。肌へ冷気が走り、鳥肌がいっせいに立った。指の腹に触れる身体の熱と、湿った生地の重さが、いまの消耗を正直に知らせてくる。
桶へ手拭いを沈めると、かじかんだ指先に湯の温かさが広がった。布を絞り、肩から腕へ、胸元から脇腹へと、手早く汗を拭っていく。
替えの肌着は、薄手の亜麻布で仕立てられていた。洗い込まれた布は柔らかく、袖を通すと肌にさらりと触れる。汗ばんだ衣のまとわりつく感触がなくなり、ミツルは小さく息をついた。
「ふう……下も替えて、と……」
腰まわりの汗を拭い、下の肌着も取り替える。足の水気を拭き取ってから、乾いた羊毛の靴下へ足を通した。冷えた足先を、柔らかな編み地が包んでくれる。
「はぁ……これで、いくらかましになったかも」
ブラウスに薄手の羊毛のチュニックを重ねると、身体の温かさが少しずつ戻ってきた。再び革鎧を身につけ、その上から旅装の外套を羽織れば、鎧の輪郭も目立たない。布の擦れる乾いた音と、革が肩へ落ちる重み。そのすべてが、ふたたび外へ出る覚悟を固めていく。
仕切りを出ると、机の上には湯気を立てる木のカップが二つ並んでいた。
「温かいお茶です。どうぞ」
「ありがとう」
女が一礼代わりに小さく頭を下げ、扉の向こうへ姿を消す。
ミツルはカップを両手で包み、口元へ運んだ。ほろ苦い青い香りに、林檎を思わせるカモミールの柔らかな匂いがかすかに混じっている。唇に触れる木の縁は温かく、ひと口含むと、熱が喉を通って胃の底へ静かに落ちていった。
やがて扉が軋み、肩に粉雪をつけたヴィルが戻ってきた。
「馬は問題ない。蹄鉄の最終確認も、もうすぐ終わる」
「あなたこそ、早く汗を拭いて着替えたほうがいいんじゃない? 凍えちゃうわよ」
「もう済ませた。隣の道具部屋でな。濡れたまま外へ戻るほど馬鹿じゃないさ」
「あら、そうだったの。それならいいけど……」
席へ着いたヴィルが胸元を軽く叩くと、ローブの内側で金属の小さな音が鳴った。
取り出された銀色のスキットルに、ミツルは目を留める。離宮のテラスで嗅いだ、ブランデーの癖のある甘い香りが、ふいに甦った。
『そういえば、最近ヴィルがお酒を飲むところを見てないんだけど。どうかしたの?』
『この俺が、酒なくして成り立つものかよ』
あのときも、ヴィルは胸元を叩いてスキットルを見せていた。紅茶へほんの一滴だけ垂らし、満足そうに香りを吸い込んでいた横顔まで思い出す。
目の前にいる彼の顔立ちは、その記憶とは違う。それでも、何気ない仕草ひとつで、あの頃のやり取りがこんなにも鮮やかに戻ってくる。
「懐かしいね。あなたがこうしてスキットルを持ち歩く姿、昔のまんま……」
「この俺が酒を手放すわけがないだろ。そういや、『昼間から飲むなんてどうなの』とか、言われたこともあったな……」
「そうだったわね」
「ま、ようやく息苦しい王宮から出たんだ。これくらいは許されてもいいんじゃないか?」
ヴィルが自分のカップへスキットルをわずかに傾ける。落ちた一滴が、茶の表面に小さな波紋を広げた。
ミツルが少し顔を寄せると、立ち上るハーブの香りの奥に、懐かしい甘さがかすかに感じられた。
「いい匂い……」
「お前のにも、少しだけ入れてやろうか?」
「うん。一滴だけね。香りだけでいいから」
ミツルは両手で包んでいたカップを差し出した。ヴィルが傾けたスキットルから、琥珀色の滴が落ちる。茶に溶けてすぐに見えなくなったが、引き寄せたカップからは、先ほどと同じ甘い香りがほのかに立ち上っていた。
カップから伝わる熱が、指先のこわばりをゆっくりほどいていく。ミツルはひと口飲み、懐かしい香りを確かめるように、もう一度カップへ顔を寄せた。
「……どうした、ぼんやりして。まさか、あの一滴で酔ったか?」
ミツルははっと顔を上げる。酔うはずもない。気づけば、強張っていた肩からも力が抜けている。
「ううん。ちょっと思い出してたの。離宮に居た頃と同じだなって……お酒の香りとか、あなたの仕草とか、ね」
「ああ、そういうことか。……そりゃあ仕方ないさ。俺と酒は一心同体みたいなものだからな」
「まったくよね……」
ヴィルは木のカップを片手で包み、親指で縁をゆっくりなぞった。小屋の明かりの下で、その所作はやけに静かで、頼もしさと一緒に愛おしさまで連れてくる。
「お二人とも、準備が整いました」
扉の外から抑えた声がかかる。
ミツルは立ち上がり、襟元を指先で整えた。扉の隙間から入り込む冷気が、首筋をかすめる。
「さあ、行かなきゃ。陽のあるうちに距離を稼がないと……宰相に先を越されるわけにはいかないわ」
「そうだな。次も俺が前に乗るぞ。風よけがあれば、お前も体力を温存できるはずだ」
「わかった。……よろしくね」
外へ出ると、厩の前には胸幅のある骨太な重種馬が待っていた。冬毛には艶があり、筋肉の張りも申し分ない。
そばの男が、持ち上げた蹄についた雪を払っている。その手元に、雪道用の滑り止めを備えた蹄鉄が見えた。蹄の裏にも、雪が固着しにくい細工が施されている。
男は馬の脚をそっと下ろすと、厩番の帽子をかぶったまま、二人へ声を落とした。
「表の街道には、宰相方の監視が出ている可能性があります。ただ、荷車も通れない山側の道までは、人を割いてはいないはずです」
「わかった。ここから先は予定どおり山へ戻る」
「次の担当にも、旅人が二人向かうとしか伝えておりません」
「それでいい」
ミツルは、ここまで運んでくれた馬へ、もう一度目を向けた。毛布を掛けられ、温い水を飲んでいる。
「あの子をお願いします。あなたたちも気をつけて」
「お任せください」
先に跨ったヴィルが片手を差し出す。ミツルは踏み台へ上がってその手を取り、もう片方の手を鞍へ添えた。油の染みた革が、掌にひやりと触れる。彼に支えられながら、鞍の後ろへ身を落ち着けた。
乾いた衣の感触と、背中越しに伝わる体温。ヴィルの外套が頬へ触れた瞬間、外の寒さが一歩だけ遠ざかる。
「さて、行くぞ。しっかりしがみついていろ」
「うん。絶対に離さない」
ミツルはヴィルの腰へ腕を回し、その背に身体を寄せた。
馬が雪を踏みしめ、歩き出す。最初の揺れに合わせて腕に力を込めると、背後から抑えた声が届いた。
「お気をつけて」
すぐに扉の閉まる音がした。協力者たちは何事もなかったように馬の世話へ戻っていくのだろう。外から見れば、旅人が町外れの厩で馬を替え、再び北へ向かっただけに見えるはずだ。
風は変わらず冷たい。木立の梢が風に鳴り、息を吸うと喉の奥がひりついた。
ミツルは背中越しに伝わるヴィルの体温と、ブランデーの香りが呼び戻した記憶のぬくもりを頼りに、一瞬だけ瞼を伏せた。
もしこれが、あの頃の旅の続きなのだとしたら――そう思うと、先の長さも寒さも、少しだけ気にならなくなった。
「懐かしいな。お前とこうしていると、昔を思い出す」
風にさらわれそうな小さな声。それでも、確かに胸の奥へ落ちてくる。
ミツルは頬をもう少し強く背へ押し当て、彼の呼吸に自分の息を合わせた。
「うん……」
言葉にならない感情を抱えたまま、ミツルはヴィルとともに町外れを抜け、木立の多い山道へ入っていく。
この先も、小刻みな休息と乗り継ぎを繰り返す。一刻でも早く、一歩でも先へ。宰相の大行列が入り込めない細い道を、白い息でつなぐように。
――この先には、もっと厳しい道が待っているかもしれない。
それでも、腕の中にある体温と、ほんの一滴の酒が呼び戻した記憶は、心細さに抗う灯になる。
北方の男爵領へ辿り着き、すべてを乗り越えられたとき、きっとこの旅を笑って振り返れる。
二人の呼吸が静かに揃っていく。
ミツルはヴィルの腰へ回した腕をそっと締め直し、その背に頬を預けた。




