雪明かりの策謀――宰相の遅延行軍
昼下がりだというのに、空は薄い夜の帳を下ろしたように暗い。灰の雪雲が幾重にも垂れこめ、裂け目から落ちる光は白く滲み、地表へ届く前に凍えていく。小粒の雪が絶え間なく降り、踏み返された街道に薄い皮膜を重ねていた。風が向きを変えるたび、粉雪が巻き上がって兵の睫毛に刺さり、呼気の白が刃のように千切れて消える。
その白の底を、百名を超す正規軍の列が北へ進んでいた。
はるか前方を斥候の騎兵が行く。続く先遣の工兵が鉄の鶴嘴で凍った轍の盛り上がりを崩し、長槍の石突で吹き溜まりの深さと、雪に隠れた側溝を探る。その後ろに前衛、旗手、六頭立ての豪奢な馬車と直衛、歩兵の主隊、飼料や食糧、炊事道具を積んだ荷馬車、後衛が連なっていた。雪道の曲がりの先へ列の先頭が消えても、後尾はまだ一つ前の坂を越えきらない。
緋の房を下げた旗竿が風に鳴る。曇天の下で翻るのは、王家の紋章ではなく、宰相クレイグ・アレムウェルの旗印だった。女王の名代たることを示す封蝋文書は馬車の内側に収められ、沿道に示されるのは宰相の紋と、その下に列をなす正規兵だけである。六頭の馬は三対に並び、轍脇の締まった雪へ蹄を置くたび、輓具の革と金具を低く鳴らした。車体は隊列の中央に守られながら、白い道をゆっくり押し分けていく。
外は骨まで染みる寒さだが、馬車の腹は別世界だった。魔道ランプの橙が安定して灯り、床へ固定された小ぶりの魔道ストーブが、毛皮張りの内壁へ穏やかな熱を広げている。
銀狐のマントを肩に掛け、クレイグは長椅子へ背を沈めていた。曇った窓ガラスに、自分の微笑の輪郭が淡く現れては消える。机上には地図と書簡の束、固定具に収まった赤ワインの杯。漆の文書箱には、王家の印璽を捺した文書もある。
だが、いまクレイグが必要としているのは、その権限を行列によって街道沿いの民の目へ刻む「像」――目に見える権威だった。
向かいには、詰め物をした上衣に鎖帷子を重ね、その上から厚い毛織りのローブをまとったラドクリフ公が座っていた。脱いだ毛皮帽を膝へ置き、その縁に指を添える。先ほど先頭から戻った伝令の報告を受け、疲れの滲む目元を引き締めた。
「宰相様、除雪班と前衛の疲労が著しく、積雪のため行程も遅れているとのことです。宿場まではあと半里ほど。いかが取り計らいましょうか?」
杯の脚を指先でひと捻りすると、赤い葡萄酒がゆるい渦を巻いた。クレイグの微笑だけは動かなかった。
「焦ることはない、ラドクリフ公。除雪班を交代させ、歩度を落とせ。急いては馬を疲弊させ、列を乱すのみだ。宿場へ入る前に隊列を整え、旗の雪を払わせよ。民の目に映るのは速さではない。乱れぬ列と、誰の旗の下に兵が従うかだ。リュシアン殿を迎え、我らこそ正統を奉ずる者だと示す。その様を民の目に刻むことこそ、我が務めである」
「承知いたしました。では宿場で休息を取らせ、馬の脚と蹄鉄も点検させます」
「うむ、そうせよ。馬も兵も、ここで損なうべき資産ではない。休息中も見張りと炊事の配置を崩すな。旗も降ろさせるな。そのうえで民には、誰が秩序を担っているかを見せておけ。それが統治の礎となる」
そのための先触れ役は、すでに宿場へ入っている。町役人を呼び、馬を入れる厩、兵を休ませる納屋、炊事場所を割り当てさせ、薪と乾草の必要量まで帳面に記させる手筈だった。
代金はその場で支払わせる。受け取った品目と数量を記し、宰相府の印を押した受領証も町へ渡す。控えは府の帳簿に綴じる。手続きに不足はない。だが、町の側に受け入れを断るという項目だけは、初めから帳面のどこにもなかった。
クレイグは冊子の角を揃えた。革表紙と封蝋の蜜蝋、葡萄酒の香りが、ストーブに温められた車内で重なっている。
「宰相様……。女王陛下が流行り風邪を理由に離宮へ籠もられたという話は、いささか不自然に思われます」
「ふむ……」
「もし芝居であれば、女王陛下は離宮にはおらず、すでに王都を離れている可能性がございます。先ほど届いた影の手からの報せにも、王配殿下の姿は確認できぬとありました」
クレイグは鼻から細く息を漏らした。笑いとも吐息ともつかない音だった。窓の外では、近接護衛の肩へ新しい雪が積もっていく。
「……あの黒髪の小娘に何ができよう。北へ向かったところで、この雪では男爵領までたどり着けまい。加えて、巫女と騎士が持つ聖剣の力は、魔族や魔獣に対してのみ発動するとの報告だ。人の兵を相手に何ができる。脅威とはなり得ぬよ」
クレイグは報告書を束へ戻し、紙の角をぴたりと揃えた。乾いた音がひとつ、車輪の軋みに混じった。
疑念だけでは、彼の定めた優先順位は変わらない。備えはしても、不確かな報せだけで行程を変えるつもりはなかった。それが彼にとっての合理だった。
「しかしながら、女王陛下が北上中の銀翼騎士団と合流する可能性もございます」
「例の、平民上がりの寄せ集めであろう? 結成から日も浅く、集団戦の練度も低かろう。数も知れておる。所詮は王配の道楽にすぎん。余の率いる正規の精鋭を正面から止められはせぬ。念のため、ヴァレリウスにも隊を率いて合流せよと命じてある。どこに付け入る隙があろうか」
「とはいえ、女王側の者どもが、各地で伯爵の足取りを洗っている気配がございます」
「よいか、ラドクリフ公。伯爵は実質、盤上から消えた駒にすぎん。女王派の手で謀殺されたとの噂は、すでに民心を揺らしている。疑いは女王とその側近へ向かいつつある。ならば我らは、リュシアン殿を戴く正統の列を、民の前に進めるだけでよい」
政争の表舞台から消すことと、命まで奪うことは同じではない。姿と声を封じ、世間には死者として扱わせる。生かしたまま価値だけを引き出せるなら、そのほうが帳尻は合う。
杯を傾け、赤い酒を舌の上で転がす。いくつもの算段が、瞳の奥でひとつずつ定位置へ収まっていった。
そのとき、小窓を叩く音がした。雪で湿った声が板越しに届く。
「宰相様、間もなく宿場です。先のご指示どおり進入の隊形へ移り、到着後は兵の休息と馬の点検に入ります」
「よろしい。手順どおりに進めよ。兵どもも冷え切っていよう。到着後はすぐ暖を取らせ、温かいスープを出せ。次の行程に差し支えぬようにな」
「かしこまりました!」
命令は伝令を介して列の前後へ渡った。宿場の屋根が雪煙の向こうに見え始めたところで、喇叭が短く一度だけ鳴る。
行軍中に余裕を持たせていた隊ごとの間隔が、少しずつ詰められていった。兵たちは肩と兜の雪を払い落とし、斜めに担いでいた槍を号令に合わせて立てる。旗手は旗布に積もった雪を振り払い、緋の房の絡みを直した。疲労でわずかに乱れていた歩調が揃い、街道の縦列は、秩序と数を町へ見せつけるための威儀を整えた列へ変わった。
車体がさらに速度を落とす。雪に霞む家並みの入口では、先触れに呼び出された町役人と宿の主人が、肩を白くしたまま並んで待っていた。
前衛が町境を越える。続いて緋色の宰相旗が現れ、その後ろを六頭立ての馬車が進んだ。さらに正規兵と荷車が、街道の曲がりから途切れることなく姿を見せる。町の者には、列の全体を一度に見通すことができなかった。
クレイグは棚の書簡から一通を抜き、親指で封蝋を割った。乾いた破片が机上へ落ちる。
――女王、所在なお知れず。伯爵謀殺の風聞、諸領へ波及。王宮内では宰相派への疑念、わずかに増すも、大勢はこちらへ傾きつつあり。
「メービスよ。どう足掻こうが、余を止めることはできぬ。進路を妨げるつもりなら、試してみるがよい」
畳んだ紙を指先で整える。伯爵の名が脳裏をかすめ、杯の脚が小さく回った。
馬車が止まり、扉が外から開く。冷気が胸へ刺さり、銀狐の毛先を逆立てた。クレイグが降り立つと、槍の石突が順に雪面を打ち、敬礼の声が雪に吸われながら列の端まで渡った。
町の入口では、年老いた町役人が帽子を胸へ当て、深く頭を下げていた。
「このような雪深い宿場へ、ようこそお越しくださいました、宰相様……」
「うむ、しばし兵と馬を休ませてもらう。騒がせることもあろうが、これも国家安泰のためなれば仕方あるまい。代価は規定に従い、過不足なく支払わせよう」
老人の「ありがたき幸せ」が、白い息となってこぼれる。
その脇では宰相府の書記官が、供出される薪、乾草、寝藁の数量と、割り当てられた馬房や納屋の数を読み上げ、町役人の立ち会いで帳面へ記していた。書記の筆先が走り、受領証と控えへ宰相府の印が押されていく。町役人も品目と数量を確かめ、両方へ町の確認印を添えた。
形式の上では、何ひとつ奪っていない。今年は例年にない寒さと大雪で街道の往来が細り、宿場の商いも滞っていた。そこへ、物資や兵馬の休息場所の代金が、その場でまとまって支払われるのだ。厳冬期の宿場町にすれば、この上ない恵みともいえる。
広場では、先触れに同行していた炊事係が、火に掛けておいた大鍋の蓋を開けた。湯気と肉の匂いが立ちのぼり、戸口から幼い子が顔を出す。じっと鍋を見つめる子の肩を、母親らしい女が掴み、兵らと目を合わせぬまま家の奥へ引き戻した。
クレイグはその動きを見たが、視線を留めなかった。帳面の左右が合っている以上、町もまた秩序の内側にある。彼にはそう見えた。
行列がほどけ、小さな町に一時の陣所が形づくられていく。兵は納屋と会堂へ分けられ、馬は厩と広場脇の仮設の繋留場へ回される。宿へ入るのは宰相と随員だけだった。それでも、旗、武装した兵、印付きの帳面が町の中心を占めれば、住人の目には国家そのものが腰を下ろしたように映る。
休息場所の割り振りが始まるのを見届けると、クレイグは馬車へ戻った。机上の別の書簡を開き、そこに記された短い一文へ目を落とす。
――女王が王宮を抜けているのであれば、男爵家付近で合流を図る可能性あり、か。
紙縁の毛羽立ちが、人の迷いのように指へ触れる。クレイグの口角がわずかに揺れた。
――ふん……あの小娘がどこへ向かおうと、余の前では無力も同然。民の前でこの列を阻めば、正規軍と沿道の民を危険にさらすのは向こうだ。抵抗するほど、己の正統性を損なうだけよ。
報告書の余白へ「監視を続けよ」とだけ書きつけ、羽根ペンの先を布で静かに拭う。その手つきは、人の名を記録から抹消する手順にも似ていた。
再び外へ出ると、兵と町人の視線が集まった。クレイグは広場の全体を見渡し、兵と町役人の双方へ聞こえる声で命じる。
「必要な休息は十分に取らせよ。ただし、不要な停滞は許さぬ。除雪と再出発の支度は止めるな。歩みは遅くとも、列は乱すな。以上、厳守せよ」
応諾の声が揃い、隊列を構成していた人馬と荷が、今度は休止中の配置へ手際よく組み替えられていく。遅延さえ統制の結果に見せる。それがクレイグの望む秩序だった。
暖かな車内へ戻ると、扉が外のざわめきを吸い込んだ。ソファへ身を預け、魔道ランプが壁に置く橙の明かりを眺める。遠くで鍋の蓋が鳴り、蹄鉄を叩く金属音が細く届いた。
クレイグは、誰に聞かせるでもなく低く言った。
「……メービスめ。貴様がどこで何を企てようと、間に合いはすまい。余が北方でリュシアン殿を迎え、正統の王太子であると宣すれば事は済む。しかるのち貴様を退位させ、殿下を王位に就ける。その暁には、余が摂政として国政を預かろう。先王の余命はわずかなれば、御命あるうちに王統を定める。これが国を救う唯一の道だ。余は堂々たる行軍で、民の目に正統の形を刻めばよい」
本来なら別々の手続きを要する四つの段階も、クレイグの頭の中では、すでに一つの必然へ畳み込まれていた。
魔道ランプの橙がわずかに揺れ、赤ワインの香りだけが車内に残る。
ノックが響いた。
「入れ」
扉が開き、風の細い刃が隙間から走る。
「失礼いたします。蹄鉄の点検は進めております。されど風雪が強まっており、兵馬をもうしばらく屋内で休ませるため、町の施設の借用を延長してもよろしゅうございますか?」
「構わぬ。兵馬を冷え切らせては、かえって進みが鈍る。再出発へ向けて、支度だけは止めるな」
「かしこまりました。なお、影の手より、女王陛下に関する続報が間もなく届く見込みにございます」
「そうか。届き次第、直ちに報せよ」
扉が閉じ、外のざわめきが再び遠のいた。
影の手の伝令は替え馬を継ぎ、馬車より速く街道を走る。主隊は遅くとも、報せと命令だけは先へ進ませる。それもまた、この行軍を成り立たせる仕組みの一つだった。
「急ぎはせぬ。確実に目的地へ着けば、それでよい。我が理想の実現に、余分な欲は不要だ。必要なものは用い、不要なものは切り捨てる。黒髪の女王も、排除するのみ」
杯の脚を指先でひと回しし、さらに言葉を継ぐ。
「小細工を弄して立ちはだかるなら、自ら墓穴を掘るだけだ。来るというなら来ればよい。正規の軍を阻み、民を危険にさらす愚か者として処断するまで。何より、余は大義に立っているのだからな」
しばらくして、クレイグは書簡を片づけ、毛皮を整えた。扉を開くと、風に煽られた雪が頬を打ち、裾へ白く貼りつく。敬礼、掛け声、鍋の湯気。宿の主人が、こわばった頬で待っていた。
「借り受けたものは漏れなく記せ。定めた代価にも不足を出すな」
クレイグが書記へ命じると、宿の主人は深く頭を下げた。
彼の横顔に不安はない。雪は行列の足跡を埋めていくが、宿場の帳面には、宰相を迎え、兵馬を休ませ、物資を引き渡した記録が残る。白さに消されない足跡を、彼は紙の上へ刻ませていた。
広場を横切って宿の戸口へ向かう途中、ラドクリフ公が肩の雪を払って追いついた。
「宰相様、蹄鉄の点検は終わりました。先行の除雪班からも、次の宿場までは通行可能との報告が上がっております。あと半刻ほどで再出発できます」
「うむ、よろしい。それまで兵馬に十分な暖を取らせよ。士気を落とすな。明日以降も道程は長い。焦る必要はないと伝えよ」
「かしこまりました。恐れながら一点。先刻の件、レズンブール伯を生かしておけば、いずれ背後から牙を剥く恐れがございます。このままでよろしいのですか?」
宿の主人はすでに戸の内へ下がっていた。クレイグは周囲に兵と町人の姿がないことを確かめ、庇の影で口角だけを上げた。
「些事に過ぎんよ、ラドクリフ公」
ラドクリフ公の眉間に、浅い皺が刻まれる。
「レズンブール伯は、利害で結ばれただけの共犯者にすぎん。余は奴の金と王子との縁を利用し、奴は余の権威を足場にした。それで均衡は取れていたはずだった。だが、奴は欲をかいた。イストリアから動くなと命じたにもかかわらず、女王に尻尾を振るとはな。身の程を知らぬにも程がある」
「しかし、生かしておけば、いつ裏切るとも限りません」
「首輪を付け、影の手にその鎖を握らせておけばよい。何より、金のなる木を切り倒す道理はない。レズンブール伯の財には、まだ使い道がある。復興で国庫が痩せている今こそ、出資と普請の費用を引き続き負担させる。それが奴の生き延びる唯一の道であり、余が奴を生かしておく唯一の理由だ」
クレイグは低く息を漏らした。白い吐息が笑いの形に割れ、軒下の風に薄く引き伸ばされる。
命も評判も予算欄へ置き換えれば、処理は単純になる。クレイグにとって、それは冷酷なのではない。必要と不要を取り違えぬ、最も無駄のない正しさだった。
宿の扉が閉じる。広場では兵が椀の熱を掌に受けながらスープをすすり、馬は鼻息を吐いて脚を休めていた。書記は最後の受領証を町役人へ渡し、印章を布で拭って箱へ戻す。
半刻ののち、短い喇叭が再び鳴った。
納屋と会堂から兵が現れ、決められた位置へ戻っていく。荷車の縄が締め直され、旗が立ち、六頭の馬が牽引用の革帯を張る。休息のため各所へ分かれていた人馬と荷は、町へ入ったときと同じく、一つの完成された像へ組み上がった。
クレイグが馬車へ乗り込む。扉が閉じると同時に、前衛が歩を踏み出した。
町役人たちは道端に並び、行列が見えなくなるまで頭を下げ続ける。定められた代価を受け取ったことへの礼だけではない。旗と武装兵に見下ろされながら、先に顔を上げられる者はいなかった。




