刻渡りの巫女と守護の騎士――ふたつでひとつのツバサ②
小部屋の扉を開けると、ベッドの脇で荷をまとめていたヴィルが顔を上げ、そのまま目を見開いた。
「おい……ミツル、だよな?」
「ずいぶんな言いようね。ほかに誰がいるというの?」
「見慣れない姿を前にして、驚いて何が悪い。確かにその髪色なら、緑よりは目立ちにくい。人混みに紛れるには好都合だろう」
「まあね――」
額にかかる短いミルクティーブラウンの髪を、指先で整えた。眉の描き方を変え、目元にも普段とは違う色を薄く置いてある。小部屋の鏡で確かめた顔は、緑髪の女王とも、黒髪の巫女とも違って見えた。
「で、感想はそれだけなの?」
ヴィルはしばらくミツルを見つめ、それから困ったように息を吐いた。
「言ってもいいのか?」
「もちろん。正直にどうぞ」
「……髪と薄い化粧だけで、ずいぶん印象が変わるもんだ。よく似合っていると思う。いや、むしろ……」
「ん、どうしたの?」
「ただ、別の意味で心配になってきた」
「どういう意味かしら?」
「変装だとは気づかれんだろう。それくらい自然だ。だが、町中ですれ違えば、どんな男だって振り返るだろう。その……可愛いと思うぞ」
欲しかった言葉を引き出したはずなのに、いざ耳へ届くと、頬が遅れて熱を持った。
「……驚いた。あなたがそんなことを口にするなんて」
「正直に答えろと言ったのは誰だ。いいか、面倒なことにならないように、できるだけフードを被っていろ」
「よくわからないけど、それなら上出来ね。一応、若緑のウィッグも持っていくわ。女王としての姿を見せる必要が生じたときのためにね」
鏡台の脇に置いていた若緑のウィッグを布袋へ収め、革鞄の内側へしまった。
「それで、黒髪のほうはきちんと隠れているんだろうな?」
「ええ。簡単には見えないようにしてあるわ。問題なし」
「ならいい。俺も、この銀髪と顔を堂々と晒して歩くわけにはいかんな」
ミツルは机へ向かい、先王へ宛てた手紙を書き終えた。いまは直接会いに行けないことと、必ず戻ると決めていることだけを、飾らずに綴った。封を閉じ、赤い封蝋に王印を押した。
二人は革鎧を身につけ、それぞれ白き聖剣を帯びたまま、最後の旅支度を整えた。頑丈な革のポーチや水筒、非常食をまとめ、ベッドの上で一つずつ確かめた。
荷をまとめ終えると、二振りの白い鞘を暗色の布で覆い、腰に帯びたままでも目立たないようにした。ヴィルは旅用の暗い外套を羽織り、銀髪を覆うように深くフードを被った。ミツルも革鎧の上へ飾りのない外套を重ねた。裾を整えると、革鎧も布で覆った聖剣も、外からは目につきにくくなった。
廊下から衣擦れの気配が近づき、寝所の前で止まった。控えめなノックが響いた。
「失礼いたします。コルデオ様より、厩の用意が整ったとのことでございます。ご準備が済み次第お越しくださいますよう、申しつかっております」
「分かりました。すぐに向かうと、コルデオへ伝えてください」
「かしこまりました」
扉の向こうで衣擦れがかすかに鳴り、侍女の足音が遠ざかっていった。
先王宛ての手紙を革鞄へしまい、荷を肩に掛けた。荷の重さが肩に、聖剣の重さが腰に、それぞれ確かにかかった。
大きなベッドの天蓋を縫う銀糸が、揺れる灯を淡く返している。その寝台は、後継を望む者たちの期待を否応なく思い出させる場所だった。けれど、ミツル自身が何を望むのか、その答えをいま急いで決める必要はない。
今夜は、彼とともに北へ向かう。それだけが、ミツルの選んだ確かなことだった。
「さあ、行くわよ、ヴィル」
「おう」
廊下は薄闇に沈み、月の白が床へ淡く落ちていた。宰相派の目を警戒して足音を抑え、曲がり角や扉の影を確かめながら進んだ。互いの気配をすぐそばに感じながら、二人の呼吸は少しずつ同じ拍へ整っていった。
◇◇◇
北翼を離れると、夜明け前の王宮は、昼の華やかさが嘘のように静まり返っていた。燭台の炎が小さく揺れ、石の廊下が足音を薄く返していた。巡回の気配はあったが、コルデオが配置を調整してくれたおかげで、人目を避けながら厩へ向かうことができた。
胸の内を占めていたのは、先王への思いだった。黒髪ゆえに忌まれた幼いメービスを、父は見捨てずに守った。王としての立場に縛られながらも、娘の自由と希望を少しでも確かなものにしようと、旅へ出るための口実まで用意したのだという。
いまは病に伏し、意識も朧だと聞いている。せめて、手紙だけでも届けたい。革鞄の上から、収めた封筒に触れると、胸が温かく痛んだ。
「ミツル、あまり考え込むんじゃない。お前の想いは、きっと届くさ」
ヴィルの声に頷き、呼吸を整えた。
「分かってる。それに、先は長いものね。焦らず、目の前のひとつひとつに集中しないと」
「そういうことだ。見張りがどこで目を光らせているか、分かったもんじゃない。馬を受け取ったら、一気に王宮の通用門を抜けるぞ」
螺旋階段を降り、裏手へ回った。厩へ続く人気のない通路の先で、侍従長コルデオが待っていた。顔に疲労の影が差しているのに、礼の角度は乱れない。短い茶髪の旅人姿となったミツルを見て、その目がほんの一瞬だけ見開かれた。
「陛下、王配殿下。偽装はすべて予定どおり進んでおります。離宮に配した影武者にも異状はなく、病室に見せかけた一室の周囲には、信頼の置ける者だけを配しております。いまのところ、宰相派に動きを悟られた様子はございません」
「ありがとう。引き続き、頼みます」
革鞄から手紙を取り出し、両手で差し出した。封蝋の赤が、通路の灯に薄く光った。
「コルデオ……この手紙を、父上に届けてくれますか? 本当は直接お会いしたかったけれど、いまは無理だから。どうか、わたくしの想いを届けてほしいのです」
「かしこまりました。必ず、お手元までお届けいたします。……陛下も、くれぐれもお気をつけください。お戻りになるまで、わたくしどもができる限り時間を稼ぎます」
「ありがとう。必ず、伯爵の消息と宰相の企てを確かめて戻ります。それまで、王都と、ここへ集まる報せや記録を守っていてください」
「かしこまりました。不肖コルデオ、身命を賭して、必ずやお守りいたします」
「それはいけませんよ。覚悟は分かりますが、命を投げ出すような無茶だけはしないでください。戻ったときに、あなたがいなければ困りますもの」
「はっ」
「それと、戻ったら温かいお茶を淹れてくださいね」
「かしこまりました」
コルデオが深く一礼すると、ヴィルは無言でその肩に手を置いた。短い動作のなかで、互いの信頼が通い合った。
◇◇◇
厩には、鞍革と乾草の匂いが満ちていた。用意された重種の軍馬が、灯の下で大きな影となって待っていた。筋肉の盛り上がった肩が、呼吸に合わせて静かに動いた。
その軍馬は二人分の荷重を見込んで選ばれ、鞍も二人乗りに合わせて調整されていた。鐙の金具が小さく触れ合い、冷えた空気へ細い音を落とした。轡や鞍にも、王家を示す紋章や飾りはなかった。
「準備はすべて整っております。どうか、お気をつけて」
下級士官が馬具の最終確認を終え、一礼した。厩に詰めているのは、ヴィルとコルデオがあらかじめ素性を確かめた者たちだけだった。
「先に前へ乗れ。手綱は、お前が握ったほうがいい」
「分かったわ」
ヴィルの手を借りて、鞍の前部に跨がった。その後ろにヴィルが腰を下ろしても、軍馬はわずかに身じろぎしただけだった。支える腕が背に沿い、馬の筋肉の動きが革越しに伝わった。彼の息が肩越しに触れた。
遠くの靴音が二度、石を打った。厩の空気が引き締まった。
「王宮の通用門は、手筈どおり開けてもらう。外へ出ても、しばらくは馬を歩かせろ。急げば、かえって目立つ」
頷いて手綱を握り直した。ヴィルの腕が腰を支え、馬が白い鼻息を吐いた。
「今しかない」
踵を馬の腹に軽く当て、歩みを促した。蹄が一度だけ強く鳴り、大きな身体が前へ出た。
通用門には、コルデオの手配した衛兵が立っていた。誰何の声は上がらなかった。門扉が一騎分だけ開かれ、二人は王宮の外へ滑り出した。
石畳の王都が、薄闇のなかに広がっていた。店は眠り、まばらな街灯だけが家並みの輪郭を作っていた。東の空がわずかに明るみ、路地の線が立ち上がり始めていた。細かな雪が舞い、蹄の跡に白が薄く重なった。北へ進むほど、雪は深くなるだろう。
「裏通りを回って北門へ出るぞ。無理に急ぐ必要はない。こうして歩かせているほうが、夜明け前に発つ旅人に見えるはずだ」
「長旅の初めに、この子の歩調を掴んでおきたいもの。ちょうどいいわ」
太い首筋を撫でると、体温が指先へ移った。二人を乗せても、馬の足取りは落ち着いている。
北門へ近づくと、ちょうど見張りの交替が始まっていた。引き継ぎの声と、門扉の軋む音が重なった。
ヴィルが外套の内側から、用意していた通行証を差し出した。こちらへ向けられた灯が一度だけ二人の姿を照らした。衛兵は通行証と外套姿の二人を見比べたが、呼び止めることなく門を通した。
城壁を抜けたところで、ようやく息を吐いた。振り返れば、王都の壁が降り始めた雪の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
「ミツル……」
「どうかした?」
「いまさら愚問かもしれんが、一応確認しておく。怖くはないか?」
「まったくもっていまさらね。怖くないわけないじゃない。宰相の権力は絶大だし、わたしが黒髪の巫女であることが露見すれば、国が混乱に陥るのは避けられない。でも……ヴィル、あなたはどうなの? こんな無謀に付き合わされて、怖くない?」
「もちろん怖いさ。だが、俺が一番怖いのは、お前が俺の手の届かないところへ行っちまうことだ」
背に添う掌の圧は、厚い外套越しにも確かだった。
「ヴィル……」
「だから、こうして二人乗りしてる。絶対に離れ離れにならないようにな。俺が後ろで支えてりゃ、何かあってお前が振り落とされそうになっても、すぐ助けられる」
「そう……頼りにしてるわ。せいぜい、わたしを離さないでね」
この先の雪道が厳しいことは、分かっている。それでも、腰に回された腕は確かな支えだった。
「おう。離してやるもんか。でないと、不安でたまらん」
喉の奥で笑いがほどけた。耳元で、彼の吐息がかすかに揺れたような気がした。
行く手の空では、雲の切れ間が淡い橙を帯び、風はいっそう冷たくなっていた。
これが北方への第一歩だ。伯爵の消息を確かめ、ロゼリーヌとリュシアンを守り、女王が伯爵を殺したという偽りを覆す。そのうえで、宰相の企てを止めなければならない。
「よし……雪が本格的になる前に、まずは最初の宿場へ急ぐわよ」
腰を安定させて手綱を握り、白きマウザーグレイルの柄にそっと触れた。この時代の剣から、茉凜の声はまだ聞こえない。柄から返るのは、革の硬い感触だけだった。それでも、帰る先で彼女が待っていると信じる気持ちは揺らがない。
背後で、ヴィルが銘無しの聖剣の重みを確かめ、ミツルの肩に軽く触れた。
茉凜と交わした約束を胸に抱いたまま、いまはこの旅路で、巫女と騎士としてヴィルと支え合って進む。茉凜との約束を塗り替えるのではない。その隣に生まれたこの関係もまた、別のかたちの「ふたつでひとつのツバサ」なのかもしれなかった。
リュシアンのため、ロゼリーヌのため、そして、この国で生きる人々のために。いつか王都へ帰り、先王へ「ただいま」と伝えるために、ミツルは手綱を握り直し、馬へ合図を送った。
軍馬は歩みを速め、やがて雪を孕む北の空へ向かって駆け出した。
夜明け前の寒空の下、馬蹄のリズムが凍りかけた道に響いた。しんしんと降り始めた雪が、その音を吸い込みながら白い世界を広げていった。
怖さも迷いも消えてはいない。それでも、背後にはヴィルがいて、胸には守りたい人たちの姿がある。
二人は、前へ進み続けた。




