刻渡りの巫女と守護の騎士――ふたつでひとつのツバサ①
裏口へ続く階段を抜け、北翼の寝所へたどり着くまで、ミツルはヴィルの手を離さなかった。部屋へ滑り込み、扉を閉めたところで、ようやく絡めていた指がほどけた。掌には、ヴィルの温度がまだ残っていた。
ここは、目を見張るほど豪奢な部屋ではない。いま、二人――女王メービスと王配ヴォルフに与えられているのは、いささか質素な臨時の住まいである。
蝋の甘い香りに、乾いた麻布の匂いが薄く混じっていた。床石はまだ夜の冷えを抱え、窓辺の布が微かに揺れている。復興を最優先するいま、二人は、広いサロンや書斎を備えた華麗な居室をあえて使わずにいた。
まず国の財政を立て直し、限られた財を民の暮らしへ回すべきだというのが、二人の考えだった。だからこそ、王家の威信を示すための改装は後回しにし、簡素な寝所で日々を送ってきた。王家らしい華やかさを求める者には、物足りなく映るだろう。
部屋の主だったものは、天蓋付きの大きなベッドと、隣り合うふたつの小部屋、そしてクローゼットだった。壁際には簡素な机と鏡台が置かれている。壁面には古い紋章が彫り込まれ、天蓋には繊細な銀糸で国章が縫い取られていた。控えめながら、王家の格式はところどころに息づいている。
中央のベッドは二人で使っても余りあるほどで、淡いカーテンに囲まれている。けれど、その事実を意識するたび、ミツルは今も少しばかり複雑な気持ちになる。
女王メービスと王配ヴォルフ――周囲は二人を、いつの日か後継をもうける仲睦まじい夫婦として見ている。けれど、その実情は異なる。メービスの身体には、未来からこの時代へ遡ってきたミツルの意識と記憶が宿り、ヴォルフの身体にもまた、ヴィルとして生きてきた意識と記憶が宿っている。
十九歳のメービスと、二十代前半のヴォルフ。外見の年齢差は縮まっても、積み重ねてきた時間までは消えはしない。かつて親子にも似ていた情と、相棒としての絆。その上に芽生えた想いを、ミツルはまだうまく言葉にできずにいる。
同じベッドで眠っても、二人は互いに越えない境界を守ってきた。肌を重ねたことはない。けれど、触れることまで避けていたわけではない。なにより、さきほどヴィルの手を握ったのは、ミツルのほうからだった。
侍女や貴族の好奇の視線をかわすため、仲睦まじい新婚夫婦に見えるよう振る舞ったこともある。だが、宰相派がリュシアン擁立へ動き始めてからは、そのような芝居へ割く余白すらなくなった。
王都には「女王が伯爵を謀殺した」「王子の遺児リュシアンこそ正統」という流言が広がり、宰相派の私兵が男爵家を占拠している。国家は脆い均衡の上にあり、いつ崩れてもおかしくない。二人は宰相より先に北方へ入り、伯爵の消息を確かめ、ロゼリーヌとリュシアンを守るため、夜明け前に王宮を抜けると決めた。
もう、立ち止まってはいられない。
◇◇◇
若緑色のウィッグを外し、留めていた髪をほどいた。寝所の鏡には、長い黒髪と、薄翡翠色の瞳を持つ十九歳の女王が映っていた。
メービスが黒髪の巫女として生まれ、白銀の塔へ幽閉されたという事実は、未来の史書にも断片だけが残されている。即位に際しては「緑髪の女王」と称され、正統な王家の血を示すために、偽りの髪色が選ばれた。
いま、ミツルはその肉体を預かり、国を守らなければならない。北のモンヴェール男爵家で苦しむロゼリーヌとリュシアン、そしてメービスの父である先王オリヴィエ。どうしても守りたい人たちがいるからだ。
けれど、緑髪のまま王宮を出れば、女王メービスだと気づかれるおそれがある。かといって、地毛の黒髪を晒すことはできない。いま王宮の内外では、黒髪の巫女を王位簒奪者とする噂まで流されている。そのため、女王でも黒髪の巫女でもない姿が必要だった。
隣室では、ヴィルが出立の準備を進めているらしい。ベルトの金具が触れ合う乾いた音が、壁越しに伝わってくる。
「おい、準備は進んでるか? こっちはもう少しで終わるが」
「わたしも、荷物をまとめて父上への手紙を書き終えたら、すぐ行けるわ」
クローゼットを閉じ、革のポーチや水筒を広いベッドへ並べていると、物音を聞いたのか、ふたつの部屋をつなぐ扉が静かに開き、彼が姿を見せた。
柔らかな銀髪、整った面差し、腰に帯びた銘無しの聖剣。灯に縁取られた姿には、貴公子のような品がある。けれど、その立ち姿や剣を持つ手には、荒野をともに旅したヴィルの面影が残っていた。外見はまるで違うのに、二つの像が重なるたび、胸の奥がくすぐったく疼く。
ミツルが寝所の隅に置かれた木箱へ歩み寄ると、ヴィルもその動きを目で追い、隣までやってきた。箱の正面には「王家収蔵品」の文字が刻まれている。
「何をするつもりだ?」
ヴィルは木箱を指先で軽く叩いた。
「この中には、先の魔族大戦でメービスとヴォルフが使った革鎧が、一着ずつ収められているそうよ」
「ほう。伝説の英雄二人が実際に使った鎧か。そいつは興味深い」
「ええ。でも、知りたいのは鎧の作りだけじゃないの。傷みや繕いの跡が残っていれば、二人がそれぞれどんなふうに使ってきたのかもわかるかもしれないでしょう?」
「剣の傷や柄の擦れ方から、使い手の癖を読むようなもんか」
「そういうこと。わたしたちには、当時の二人の記憶がないもの。だから、二人の旅路と戦いの日々を共にした大切な品を、この目で確かめておきたいの」
王家は二人の英雄が使った鎧を、こうして大切に保管してきたのだろう。ミツルが木箱の縁にそっと触れると、ざらついた木肌が指腹に当たった。
「……開けてみるわね」
紐をほどき、蓋を上げた。年季の入った革鎧が、ランプの光に褐色の深みを返した。鋲や金具は幾度となく付け替えられ、縫い糸はところどころ色が違う。豪奢さはない。それでも、使い込まれ、幾度も手を入れられてきた年月の跡が、確かに残っている。
「おいおい。これが救世の英雄たちの愛用品ってのは、ちょっとおかしくないか。まるで冒険者が使うような鎧じゃないか」
彼は苦笑し、掌で革の起伏を確かめた。
「……だが、いい鎧だ。実戦を重ねるなかで、あちこち手が入ってる。愛着を持って使い続けてきた証拠だ。ちょっと試してみるか?」
「うん、それがいい。これからの旅には、女王と王配の礼装より、精霊の巫女と騎士としての装備が必要でしょう。これを着ていくのが、ふさわしいように思えるわ」
ミツルは腰当てを巻き、胸当てを身体に軽く合わせた。腕を上げ、肩を回してみる。年季の入った革はわずかに軋んだだけで、脇にも肩にも食い込まなかった。シャツ越しに革の冷たさが移った。
「うん、思ったよりもしっくりくる。まるで、この身体に合わせて仕立てたみたい」
「何をとぼけてるんだ。当たり前だろうが、メービスのために仕立てられたんだろうからな」
「はは……そりゃそうよね」
「いっちょ、俺もやってみるか」
ヴィルが腰当てを巻き、ベルトを調整した。その手慣れた動作に、放浪の剣士だった頃の面影が重なった。
留め具を締め終えると、ヴィルは肩を回し、肘を深く引いた。続いて半身になって腰を落とし、右手を柄へ添えたまま一歩踏み込んだ。革が低く鳴っただけで、胸当ては腕の動きも腰の捻りも妨げなかった。
「……お、こっちも悪くないぞ。いや、むしろ俺の好みにぴったりだ。これなら存分に剣を振るえる」
「そういえば、あなたって鎖帷子は使わないわよね」
ヴィルは構えを解かず、柄にかけた指を一度開いてから、感触を確かめるように握り直した。
「あんなものは要らん。重さで踏み込みが鈍るだけだ。どのみち魔獣の一撃をまともに受ければどうにもならん。向こうの爪や牙が届く前に懐へ入り、先にぶった斬ればいいだけの話だ」
「それが雷光だもんね」
「そういうことだ」
ヴィルが構えを解くと、革のきしみが止まり、寝所に静けさが戻った。
本来のメービスとヴォルフもまた、この装備を身につけて旅をし、戦っていた。ミツルは胸当ての縁に残る細かな擦れを、指腹でそっとなぞった。
「ねえ、ヴィル。ちょっと妙なことを考えたのだけど、聞いてくれる?」
「なんだ?」
「わたしたちには、メービスとヴォルフが何を見て、何を考え、何を選び取ったのかという記憶がない。それなのに、こうして鎧を身につけてみると、まるでわたしたち自身がこの歴史の当事者だったみたいに思えてしまって……なんだか不思議な気分なの」
ヴィルは鎧の留め具へ目を落とし、口元をわずかにほころばせた。
「それを言うなら、俺たちだって元いた時代で荒野を駆け回ってきたじゃないか。格好が変わったって、旅支度そのものには慣れ親しんでいる。それを思い出しているだけだろう」
「……それもそうね。いくらしっくりくるからって、何もかも運命の証にする必要はないものね」
ミツルはベッドの脇に置いた二振りの白い聖剣へ手を伸ばした。一本は白きマウザーグレイル。刃が立たず、何も斬れない護りの剣。もう一本は、あらゆるものを断つ攻めの剣。銘が伝わっておらず、いまは「銘無し」と呼ばれている。
ミツルはマウザーグレイルの柄に手をかけ、ほんのわずかに鞘から引いた。鞘口がかすかに鳴り、覗いた銀白の刀身が魔道ランプの光を細く返した。その淡い光が揺れ、室内の空気がわずかに張りつめた。
「未来で、わたしが握っていたマウザーグレイルには、茉凜がいた。でも、この時代の剣からは、彼女の声が聞こえない。同じ剣を手にしているはずなのに……やっぱり、寂しいものね」
ミツルは、わずかに覗かせていた刀身をゆっくりと鞘へ戻した。鞘と刀身の擦れ合う音が耳に残り、胸の奥がきゅっと締まった。
「そういや、剣の中に人格が宿っていると言っていたな。茉凜は、この時代にはまだいないのか? それとも、いまのこいつには別の何かが宿っている可能性もあるのか?」
その問いに、かつてロスコーの記憶を通して目にしたマウザーグレイルのスペックシートが脳裏に蘇った。
――疑似人格AI搭載(戦闘補助および精神安定化用)。
設計どおりなら、この時代の剣にも戦闘補助と使い手の精神安定化を担う疑似人格が備わっている可能性はある。だが、茉凜が剣に宿るに至った事情まで、ヴィルへ明かすわけにはいかない。いま彼に答えられるのは、実際に確かめられた事実だけだった。
「それなんだけど、いくら呼びかけてみても、それらしい声は返ってこなかったわ。でも、二振りの剣が反応したことは事実だし、何も宿っていないとも断定できない。だから今は、分からないとしか言えない」
以前、紙に書き留めた一行が、続いて脳裏に浮かんだ。
『呼びかけへの応答――確認できず』
今夜も、剣は沈黙したままだった。けれど、その沈黙を勝手な答えで埋めることだけはしたくなかった。
「ふーん。古代文明の遺産ともなると、わけの分からんことばかりだよな。魂みたいなものが魔術で封じられているのか、それとも、ラウールの言っていた『神代の御業』とやらで作られているのか。どっちにしたって、俺にはどうにも理解できん」
ヴィルはミツルの手の中で沈黙するマウザーグレイルへ目を落とした。
「……だが、お前にとって一番身近な話し相手だったんだろう。声が聞けないのは、寂しいだろうな」
「……寂しいわよ。人前では話しかけないようにしていたけれど、毎晩、眠る前には彼女とたくさんお話をしていたから。それはもう、いーっぱい愚痴を聞いてもらっていたし」
最後のひと言だけ、声にかすかな明るさが戻った。ヴィルの口元も、ほんの少し緩んだ。
「なるほどな。剣と使い手として命を預け合う相棒というより、親しい女友達のような存在だったということか?」
「それだけでは足りないわ。わたしにとっては、茉凜がそばにいることが当たり前だったの。これまで、いろいろなことがあったわ。楽しいことばかりじゃなかった。辛いことも、悲しいこともあった。それでも、彼女がいてくれたから乗り越えられたの。ふたりで約束したのよ。わたしたちは『ふたつでひとつのツバサ』なんだって……」
柄に置いたミツルの手に、ヴィルの手がそっと重なった。
「……そうか。それほどまでに、深く信じ合ってきたんだな」
「うん……。だって、彼女はわたしの半身みたいなものなのよ。最近は、妙にお姉さんぶって口うるさかったけど。いまは、それも聞けない……」
「……辛いだろうな」
ミツルは声を出せないまま、ただ小さく頷いた。伏せた睫毛の際から、涙が一滴、頬を伝った。
「俺は茉凜の代わりにはなれん。代わろうとも思わん。だが、女王として戦うお前の隣に、騎士として立つことはできる。お前さえ、嫌じゃなければな」
「嫌だなんて思わないわよ。むしろ、そうしてくれないと困ってしまう。というか……わたしは、そのほうが嬉しいし」
言ってしまってから、ミツルの頬がかっと熱くなった。
ヴィルはわずかに目を見開き、重ねた手へ視線を落とした。返事まで、ほんの少し間が空いた。
「……そうか。そう言ってもらえるなら、安心だ」
「ま、まぁ、基本的にはこれまでと何も変わらないわ。ただ、わたしたちは女王と王配である前に、二本の聖剣で結ばれた巫女と騎士なのでしょう? だったら、支え合うのが当然ということよ」
頬の熱を隠すように早口で続けるミツルを、ヴィルは口元をわずかに緩めて見ていた。
「そうか。なら、気張らないとな」
ヴィルの手が離れ、その温度だけが指に残った。柄巻きの革が、掌に馴染んだ。
「そういえば、あなたの銘無しの聖剣だけど、単に銘が後世に伝わっていないだけの可能性もあるわね。本当は、ちゃんとした名前があったのかもしれない。わたしたちが知らないだけで」
「だろうな。同型の二振りが揃っている以上、その組み合わせには何か意味があるんだろう。元の時代でも、こいつの斬れ味は実戦を通して分かったし、二振りが反応し合うことも、こちらへ飛ばされる直前に分かった。それが何を意味するのか探っていけば、銘につながる手掛かりも見つかるかもしれんな」
カーテンがかすかに揺れ、冷えた風が膝下を撫でた。
「でも、ヴィル……この先、ほんとうにその剣を振るうようなことがあるのかしら」
「どうだろうな。こいつは、もともと魔獣や魔族との戦いに使われた剣なんだろう? 好き好んで人へ振るうようなものじゃない。なんせ盾も鎧も紙切れみたいに一刀両断にしちまうんだ。分厚い鉄の扉だろうが、似たようなものだろうさ」
「怖い怖い。斬れすぎなのも問題よね。だけど、宰相派や影の手の動きもある。不測の事態に備えて、切り札を持っておくに越したことはないわ。使わずに済むなら……それが一番だけど」
「そうだな」
ヴィルは銘無しの聖剣を腰に帯び、鞘へ収めたまま柄に手をかけた。重心を落とし、半歩だけ踏み込んだ。ヴォルフの身体で構えているとは思えないほど、その動きに迷いはなかった。
ミツルもマウザーグレイルを腰に帯び、軽く身をひねった。身体の重心と剣の位置が、考えるより先に噛み合った。
――うん。よく馴染む。
身体はそれぞれメービスとヴォルフのもののはずなのに、二振りの剣を帯びて並んでいることが、いまの二人にも不思議なほど自然に感じられた。茉凜の声が聞こえない今も、歩みは止めない。二振りの剣を携え、必要ならばその力を使う。その覚悟を噛みしめ、ミツルは鏡へ目を戻した。
長い黒髪が、肩から背へ流れている。鏡台の脇には、先ほど外した緑髪のウィッグが置かれていた。
「ヴィル。もうひとつだけ、出立前に済ませたいことがあるの」
「なんだ?」
「この姿のままでは、人目のあるところへ出られないでしょう? 緑髪なら女王だと気づかれるかもしれない。けれど、黒髪を見せれば、もっと面倒なことになる」
「ああ、たしかにな。だが、どうする?」
ミツルはクローゼットの奥から、布に包んだ平たい箱を取り出した。
「これ、前にコルデオに頼んで、職人に仕立ててもらったものなの」
「ほう。さては、偽装用のかつらだな?」
「正解。いつかまた、人目を避けて外へ出ることもあるだろうと思ってね。仕上がったのはつい最近。まさか、こんなに早く使うことになるとは思わなかったけど」
「それがあれば、いつぞやみたいに王都へ遊びに出ることもできそうだな」
「それだけじゃないわよ。女王として視察するだけでは、見えてこないものもあるでしょう?」
「確かにな」
「だから、シンシアが身分を隠して街へ出ていたように、わたしも一人の人間として、この時代の王都を見て回りたかったの。でも、それどころじゃなくなってしまったのだけど……」
ミツルは箱へ視線を落とし、布の端を指先で整えた。
「じゃあ、着替えてくるわ。あなたは、ここで支度を続けていて」
ヴィルの視線が箱へ落ちた。けれど、それ以上は何も尋ねなかった。
「分かった。必要な荷物はまとめておく」
「お願いね」
箱を抱え、隣の小部屋へ入った。背後で、扉が静かに閉じた。




